50題―1.月夜


「相変わらず、なにも云わぬのだな」

飽きもせず繰り返し髪を弄っていた男が、口を開いた。
いや。
先程から、戯言は言っていたのだが。
「おまえの黒髪は綺麗だ」「星を映した夜空のようだ」「手に纏いついてくる感触が不思議なほど俺の好みに合っている」云々。
孔明は勿論まともに聞いてはいない。
捨ておいたのは、振り払うのが面倒だったというだけだ。
もうひとつ理由があるとすれば。
このような明涼の月夜に騒々しい諍いを起こすのは、如何にもくだらない。

童子のごとき熱心さで弄っていた髪を、馬超は放した。
孔明の髪には癖がない。放たれた髪は馬超の手の中にひと筋たりとも留まらず、薄い背に沿いながら流れて止まった。
まったく元通り、なにごともなかったように。
それを見て、馬超はふ…と皮肉げに片頬を歪める。
そこで、冒頭の台詞だ。


「…なにか云った方が、よいでしょうか」
手に持った杯には月が映りこんでいた。
風流なことかもしれないが、さして感慨は湧かない。
孔明はそのまま、そっけなく飲み干す。

「俺には、よく分からないな。
おまえは、拒んでいるのか。それとも求めているのか。
ときどき思う。嫌がるふりをして、むりやり犯して欲しいのかと。そういう嗜好のものもいると聞くからな」

思わせぶりに拒むふうを見せかけておいて、その実誘っているというのは、たとえば遊女などのよく使う手だ。
だが。

「なにを馬鹿なことを」
孔明の眼差しに冷ややかな尖りが含まれた。
「貴公が抱きたいと言ったから、従ったまでです。なにか不服がおありでしょうか」
抱きたいというから、抱かせてやった。
なにが不満だ。
孔明の声はあくまで丁重で、その分酷く醒めている。
「不服であるならば、構わなければ良いでしょう。貴公ならば言い寄る者はいくらでもいる筈」
それきり。
孔明は口をつぐんだ。
かたわらの男への関心など全く失ったといわんばかりに、酒杯にのみ注意を注ぐ。
怜悧な横顔を凝視し…、馬超は口端を歪める。
「まったく…、おまえは月のようだ。智慧と慈悲を廻らせて万物を照らすくせに、手を伸ばしてもけして手には入らぬ」
戯言は、冷ややかな沈黙に吸い込まれる。
馬超は覇気を込めて戯言を続けた。
「月を堕とすのも、また一興。――必ず、身も心も俺のものにしてくれよう。」

それは、酷く月の美しい夜。

   
 










(2006/10/5)

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