50題―2.敵わない人

 


 えたいのしれぬ重みを感じて目覚めると上に男が乗っていて、孔明はうんざりして首をめぐらせる。
 窓の帳がひかりを孕んでうすくあかるい。
 もう、朝なのか。
 芳姿嬋妍の軍師の目覚めは、いつもたいして麗しいものではなかった。
 寝起きが、悪い。
 その分、目覚めたらすみやかに一日を開始させることを習慣としている。
 寝台に恋々としているのはおそろしく甘美たる事ながら、職務は待ってくれない。
 漫然と不機嫌ながら布団から這い出してともかくも身支度をし、熱い茶の一杯をすすり粥などを食すれば、体とともに脳が活動を開始して、ほどなく山積みの書簡に取り組めるというものだ。
 ところが孔明の上に乗っている男には、そういう清廉の朝を迎えようという気はまったくもって無いらしい。
 白皙の額を横切る髪をはらったり、はらった髪をひと房掬いとってものめずらしげに眺めたり、あげくその髪房に口付けたり。
 不健全である。

 男の目がふ、と動いた。軍師の視線に気づいたからであろう。
 そうでなくとも目線を上げたことにより孔明の目が開いていることには、気づいたはずである。
 だが、無言だ。
 …育ちのいい男ということだが、朝の挨拶の躾けもできていないのだろうか?
「…おはようございます、馬超殿」
 やはり躾けはできていないらしい。
 と、「うむ」というえらそうな頷きのあとで降ってきた接吻を受けながら、軍師は確信した。
 だからといって孔明が躾けをするつもりはない。
 馬鹿馬鹿しいし、この男に朝の挨拶をされなくても些かも困らない。

 寝起きの気だるさも手伝ってしばらくやりたいようにさせていたが、体をゆるくなぞる手が夜着をみだすにいたって、軍師はゆるりと声をだす。
「…馬超殿」
「――なんだ?」
 白い喉に口を寄せていた馬超が、顔をあげた。
  「孟起、と呼び捨ててもかまわぬぞ」
 払暁の為か声は掠れ、口許に浮かぶ笑みには一片甘い感じが漂っている。
 寝乱れた襟がだらしなく開き、だらしなさの欠片もない豪奢な胸板がのぞくさまが、ひどく男っぽいということを、軍師は至極冷静に見て取った。
「…戯れは、そのあたりにしておいて頂きたい」
「何故だ?」
「貴公もそのくらいの分別はおありでしょう。西涼に名高い騎馬軍を率いていた馬超殿ならば」
「―――――」
 馬超は不審げに眉を寄せた。
 軍師の言い方が、何とはなしに気に障った。口調はなんだか嫌味っぽいし、大体、名高い騎馬兵を率いていたことと、朝の房中での戯れ事との間にいったいどんな関係があるというのか。
 大体、この軍師ときたら可愛げがないのだ。すこしばかり甘えた声でも出して懇願されれば、馬超とて笑ってどいてやれるものを。
「…貴殿は、俺を馬鹿にしているのか」
「なにを言って」
 軍師のほうも眉を寄せる。
「私は誉めたのです。貴公は武勇において他に突出し、こと騎馬においては他の追随を許さない手腕をお持ちだ。この上は、人としても優れた振る舞いをしていただきたい」
「閨房で説教か。それもこのように乱された格好で。
…夕べ、貴殿はそれは好い声で啼いておったぞ、軍師。また聞きたいものだ」
「な…、…」
 あられもなく裾を割られて軍師は息を呑む。ここで押さえ込まれたりしたら、登城の刻限には絶対に間に合わない。
 無言の抵抗をこころみる孔明を、男は笑って押さえつける。
 両脚のあいだに身を割り込まされ、肉の薄い脚の片方を掴みあげられるにいたり、軍師は本気で暴れた。
 そのさまを馬超は人の悪い笑みを浮かべて観察していたが、内股のあまりの白さにふいに欲が喚起する。
 そこを吸ったとき、この白皙は大きく身をのたうたせて喘いだのではなかったか。
 ごくり、と引き締まった喉が上下する。
 男の顔から不埒な笑みが掻き消え、かわりに双眸に苛烈な情欲の火が点じたのを見て取って、さすがの軍師も顔色を変えた。
「馬超、殿。…このような早朝から不埒な真似は許しません」
「孟起と呼べ、と云わなかったか」
 男の声はいや低い。表情を消して目だけ光らせたさまは、なまじ精悍な美貌であるために凄みが漂う。孔明はなにかこの場を逃れるための策略を考えるが、考えがまとまるまえに絡み付いていた夜着を邪魔そうに払いのけた無骨な手が双丘を割り――
「い…――っ」
 いきなり奥処に指を含まされて軍師は目を見開いた。
 夕べの潤いは残滓すら残っていない狭隘への暴虐は、堪えられないほどの痛苦をもたらし、孔明は不覚にも双眸に涙を宿らせる。
「…痛…ぃ…」  
 悲愴すらにじませて茫然とつぶやく痩身に、男もやや茫然としたようだった。
「あ…あ。そうだった。おまえは、男であられたのだな、軍師」
 濡れなくて、当然か。
 下世話な云いざまに軍師の怒りは心頭に達する。
 バキリと小気味よい音が響いて、馬超が現状を把握するころには、軍師はすらりと床に降り立っていた。
 高雅に白い裸身が朝日に映えるさまを、あごを押さえた馬超が見守る。
 風邪を引くぞ、と云いかけた言葉は、冷ややかな宣告にさえぎられた。
 「馬超将軍におかれましては精力が有り余っておられる御様子。つきましては新着の名馬がおりますので、軍馬としてつかえるよう本日中に調教を施していただきましょう」
 寝台で横たわったままの馬超が、軽く笑った。
「造作もない。俺を誰だとおもっている、軍師」 
 揶揄された軍師は惜しげもなく暁光にさらした裸身に、椅子にかけてあった淡色の衣をまといつかせつつ、第二の矢を放つ。
「…そのあとは、書簡に目を通していただきます。ちょうど貴殿の軍に関わる軍令書が20巻ほどできております故」
「…ほう」  
 馬超はしたたかに殴られたあごを撫でながら考える。
 難解に違いない書簡が20巻。
通常ならば読むだけでも容易いことではないが、彼には秘密兵器がある。忠実にして優秀な副官が―――
「申し遅れましたが、馬岱殿には本日、視察に出るわたくしの護衛を頼むことにいたしました。なにしろ忠実で優秀な方ですからね」
「なに―――」
 ここにいたってはじめて馬超は寝台の上で起き上がった。
 絶句する男をよそに、身支度を整えた軍師はしらじらと嘯く。
「貴公こそ、わたくしを誰だとおもっているのですか。あぁ、それにこれは私怨ではありませんから。わたくしは常に国と殿のことのみ考えておりますゆえ」
 私怨のくだりは余計であったな、とおもいながら孔明は端然と退室した。
 脳裏にあるのは、すでに職務のことである。 
 残された男はといえば、―――
「まったく。敵わぬな」
 と、寝台でひとり、つぶやいたのであった。

   
 










(2007/3/11)

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