「雨、か」
つぶやきは、霧のように降り続く雨に吸い込まれてゆくよう錯覚した。
声が届いたのか。褥に伏す佳人が、うつぶせの頬に敷いていた腕を組みかえる。
身じろぎのせいで、背にとどまっていた真っ直ぐな髪が、褥にすべりおちた。
馬超はそれに、ゆっくりと手を伸ばす。
「涼州は雨が少なかった。……だが、降るときには大量に降るのだ」
黒髪を指に絡めれば、煙るが如くそぼ降る今宵の雨のように細い。
清冽にも不思議に甘いような香りが、どこか湿りを含んで届いた。
「一滴も降らず渇いているか、すべて流し尽くす豪雨であるか。
ふたつにひとつで、曖昧なものはなかったな」
蜀の雨ときたら、極まりがない。
降っては止み、止んでは降り……今度こそ止んだかとおもうと、霧雨になって降りつづいている。
細かな雫がとめどなく落ちてくるのは、純粋に物珍しい。
些か鬱陶しくないわけではないものの、嫌悪がわくほどではない。
しかし、幾許かの慮外感が否めない。
蜀の風雨はものやさしくもやわらかげで、まるで薄紗が天空に覆い被さっているようで、涼州、或いは雍州の、あの苛烈な空とは余りにも違って見えるのだ。
馬超は、意味もなく溜息を吐く。濡れ羽の髪を弄る手はそのまま。
悩ましく指に絡みそうに見えるくせ、当人そのものに強情な程真っ直ぐで手の内には留まっておらず、馬超の指先をするすると擦り抜けて流れた。
飾りけのない夜着から覗く肩が、潔癖なまでに白い。白い皮膚と黒い髪には曖昧なところがどこにもなく、髪同様に本人の気質をあらわしたかのような、なにものにも侵されぬ玉にも似た膚肌は、雨中の闇夜にあって冷たいほどしらじらと浮き上がる。
だが冷ややかにみえてその玉肌はしなやかな温もりを持っているのだ。
それは、おそらく触れたことのないものにはけして知りえぬ、そして触れたことのあるものならば容易に知りうる、掛け値なしの事実なのだ。
「孔明」
馬超は闇中にほの浮かぶ球体に似た響きの彼の字を囁き、珠玉に似たその肩を抱き寄せる。
反応はなかった。身じろぎすらも皆無であった。
「…おい、孔明」
再度、ややいぶかしげにそれを発音した。白皙の容貌を覗き込む。
「…くそ」
太守の嫡子として育った男は、品位宜しくない罵言を言い放つ。
春の、すこし肌寒くて静かな夜。
降り続く天からの銀糸を戸一枚で隔て、帳をめぐらせた褥になよやかな燭台がぽつりと一つ。仄かに揺らめくともし火が閨に陰影を投げている。
精悍な偉丈夫は盛大に顔を顰め、ふて腐れた。
こんな夜、情事の相手に寝込まれるとは何という体たらくか。
口説きに口説いてようやく館に呼び込み、それからまた寝所に連れ込むまでにかけた手間が、ひたすら空しい。
「…逢瀬を待っていたのは、俺だけ、か」
白い首筋にひと筋からむ髪が、いっそ悪意をかんじるほど美しい。
「…帰っちまうぞ…涼州に」
苛烈な猛将はふて腐れた挙句に叶わぬ妄言を吐く。
いや。
別にどうしても叶わぬというわけではない。
持っているたいていのものを捨てて身一つで出て行くならば、それはたいそう容易に叶うことである。
そして、いま持っているものは、…多くない。
寝入ってしまったものをまさか叩き起こして抱くわけにいくまい。
抱き上げた肢体を、味気なくも褥に降ろそうとしたそのときだった。
なにか呟きを聞いたとおもった。
あるかなきかの音であったが確かに。
いぶかしげな凝視の中で、まやかしであるかの如くゆっくりとまぶたが持ち上がる。
一度、そしてゆっくり過ぎるほど緩慢な瞬きのあとでもう一度。確かに二度、目が合った。
「孔明」
応えはなかった。瞼はゆるりと閉ざされた。
「ん…っ…」
煙雨が闇を抱く春宵に、吐息が溶けこんだ。
仰向けに横たわる清廉な肢体に掌を添わせれば、髪は天漢の如く敷布を横切り、灯火の陰影に映える裸身がゆるやかに仰け反る。
火影の許にあっては存外になまめかしい玉肌を掌でまさぐり、とうに解いた帯ごと夜着を足下に投げ捨てる。胸の朱尖に舌先をふれさせると、それは見る間に赤みを増した。
唾液を絡めるように舌で乳輪を刺激すると、熱を孕んだ吐息を漏らして、どうやら身悶えているらしい。そらされた喉がふるえている。
果たして実の所意識は覚醒しているのか。或いは夢とうつつの狭間を漂うているのか。
鎖骨の濃い影を掌でたどりそのまま胸元におりてゆけば、鼓動を感ずることができる。
鼓動は平常より、速いのだろうか。それすら定かではない。
馬超はこの軍師の、平常の鼓動の数など知らない。
灯台をもっと大きなものにしておけばよかったのだ。
ぽつりと点る火影くらいでは、見えたいものが見えない。
愛撫に少なからず淫靡な手管を加えれば、色に潤んだ声が零れはしている。
軍議の折など屈強な武将を叱り飛ばすこともある凛然たる美声は、閨にあって、あまくかすれて夜気を惑わせる…。
「…ぁ、――」
軍師がひときわ切なげな吐息を漏らして馬超の首に両腕を縋りつかせた。
馬超は手を留める。
らしくない。
軍師の反応は、まったく彼らしからぬものだった。
目覚めると窓の向こうが明るかった。
もう少し眠っていたかったが、朝日のなかで寝起きの顔をさらすのは嫌だった。孔明は寝台で身を起こす。
起き抜け独特の気だるさを持て余しながら小さく欠伸すると、椅子に腰掛けていた男と目が合った。
この部屋の主である。
孔明が夕べ同じ寝台で寝たはずの男は、しかし眠っていないのではないかとおもわせる憮然とした顔をしている。
衣服も夜着ではなく武袍であった。
「…なにか?」
「夕べのことだが、…おまえは実の所、…」
「夕べ、なにかありましたか」
珍しく口の重い男に対して、孔明の口調は平易である。
男は眉間にしわを寄せて探るように、或いは非難するよう見ていたが、やがて「いや、いい」と、ぶっきらぼうにつぶやいて出て行ってしまった。ほどなく外で、馬のいななき。
こんな朝早くから滅茶苦茶に走らされるであろう馬の身に孔明は同情を感じる。いや、馬は走らなければ脚力が衰えるというから、本望なのかもしれないけれど。
孔明は物憂げに髪をかきあげた。
背に痛みはない。尾てい骨が割れるような痺れも、今朝は無い。
夕べは、結局のところ抱かれなかった。
必要以上にきっちりと襟を合わせて着付けられ、それこそ必要以上に硬く固く、頑丈なほど堅く結ばれた夜着の帯を苦労して解きながら、孔明はぼつりとつぶやく。
「何処にも行かないでくださいとか、わたしに云わせたいんでしょうかねあの人は。まったく…」
どうやら霧雨は止んだらしい。
薄雲に覆われた天の一角が割れ、朝日がさしているようだった。
目指したのは耽美。耽美ってコトバの意味知ってるのか馬鹿めが。
とりあえず漢字を多用してるところが耽美だと言い張る。
春の宵に大人ーな感じにイチャついてる馬孔を書きたかったのに。のに。
(2007/4/7)
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