50題―4.手紙

 


 劉軍軍師諸葛孔明のもとには、戦場からの書信が届く。
 それはいつも、2通あるのだった。

 書信の1通めを孔明は開封した。
 字はさほど達筆というでもなく、さりとて悪筆というでもなく、いうなれば凡庸である。内容は、やや簡潔すぎる表現が多いといえども、不具合というほどでもなく。戦場から戦況を知らせる書信としては、可もなく不可もない報告書なのだった。
 孔明はほぼ一瞥だけで内容を把握し、小姓に命じて文官を呼ばせた。
 ほどなくやってきた文官に、兵糧と武器の追加を戦場に送るように命じる。命を受けた文官は命を復唱し、孔明が頷くと一礼してその場を去った。さっそく手配をするためである。
 
 諸葛孔明のもとには一日中、ひっきりなしに書簡が舞い込む。
 放っておくと容易に山を為すそれらを、孔明は黙々と片付けていく。そのさまはまるで機械のようである、と傍らの文官は呆れと怖れを含めて影でささやくのだ。

 その日、朝から晩まで倦まずたゆまず遅滞なく取り組んだ成果として、孔明の執務机には一切の書簡が無くなった。明日の朝になればふたたび書簡は山を為すであろうが、ともかく本日はここで終了である。
 ここに至って孔明は面倒くさそうに、卓にたった一通残っていた書簡に手をかけた。
 戦場から届いた2通のうちの、1通。
 先に読んでとっくに決済してしまった書信は、戦場に赴いた将の副官が作成したものである。
 そしていま手に取っている1通は、将その人が書いたものである。
 
 内容は、やはり戦のことである。
 簡潔とは云い難い。対戦した敵からの使者に聞くに堪えぬ罵言を放たれたとか、腹が立ったので一刀で切り捨ててやったとか、敵将が品性の無い男でくだらぬ奇襲を掛けてきたので返り討ちにしてやったとか、一騎打ちを挑んでやったら逃げやがったとか、追いかけたら卑怯にも落とし穴が掘ってあって危うくはまる所だったが幸いにも俺も馬も優秀だったので難なく避けたとか、戦場の近くに馬を水浴びさせるに良い泉を見つけたとか。およそ脈絡というものがない。特に戦場でのくだりは、子供の喧嘩かと思うほどだ。あまりに行き当たりばったりの戦ぶりに孔明は頭痛がしそうになる。
 ほんとうに嫌々ながら、孔明はしぶしぶ筆を取り上げた。
 書くのは1通。かの将宛てのみである。
「馬平西将軍閣下に謹んで申し上げる。兵を用いるに凡そ迅速を善とすると雖も迂を以て直となすが上、敵の情を探り先ず勝つ可からざるを為し、」
 一気呵成に書きかけて、孔明はふっと筆を止める。
 嫌な予感がする。
 孔明の字が端麗であり謹厳であるのは常のことながら、ある光景が浮かぶ。それはとある戦の後のことだ。



『何故、軍令を無視しました、馬将軍』 
 非公式に呼びつけた場で、孔明は詰問した。
 武将が孔明の出した指示を無視したことは明らかであった。
 公式な場では厳罰に処さなければならない事態であるため、あえて非公式の場を選んだのだ。事の重大さをまったく感知していないのか、かの将は心底から不思議そうな顔をしたものだ。
『軍令?知らんぞ、俺は』
『…軍令書は、届きませんでしたか』
 孔明の声は少し考えるものになる。
 万全を期しているものの、伝令が届かないことは戦場ではままあることだった。それはそれで由々しきことであるので、伝令兵の出し方に工夫を加えなければならないが…。 
『…ああ。もしかしてあれか?』
 将が思い出したように膝を打つ。
『あれとは』
『あれのことか、あの変な字で書いてあった』
『……』
 いぶかしげな表情を一転させ、軍師は蛇をおもわせる冷ややかな目で将をねめつけた。
 孔明は、公式の字体で書いたにすぎない。軍師の字が際立って冷厳であることは確かながら、軍令にかかわる文章である以上、公式な謹書の字体を用いるのは当然のことだ。   
『おまえからの書簡というので恋文かとおもったら、小難しい字がつらつら書いてある。ああいう軍例文は餓鬼の頃いやというほど読まされたのでな、眠くなりそうでとりあえずそこらに置いておいたのだが』 
 あれはそういえば何処にやったのかな、と将は悠然と腕を組みかえ、そこでようやく摂氏零度も下回るかという軍師の視線に気づいて、慌てたように弁解した。
『戦場だぞ?俺が眠くなったら困るではないか!?』
 なにしろ俺は総指揮官だったのだぞ。
 愚にもつかぬ弁明を氷の無表情で聞き捨てつつ、こんな男を総指揮官に任命したことを、孔明は心の底から悔いた。
 挙句、あの愚将は名案を思いついたとばかり晴れやかに云ったのだ。
『軍令は俺の副官宛てに出せ。あいつならばうまくやるだろう』
 副官とは、すなわち武将の従弟である。
『おまえは俺に、会いたいとか早く帰ってきてくれとか、頑張って勝ってくれとか、そう書いて書簡を寄越せ。さすれば俺の士気は上がろうし、転じて俺の率いる将兵の士気も上がるに違いない』
  

 

 孔明は中指で眉間を押さえた。思い出すだけで怒りがこみ上げる。
 冷然とした謹書体で書きかけた軍令書に目を落とす。
 孔明は一瞬だけ葛藤する。
 この書簡も、しょせん読まれない運命なのではないか。
 甘い文言のひとつも走り書いて士気が上がるなら、それは安いものではないか…。

 葛藤は一瞬でおさまり、軍師は書信に続きをしるす。
「凡そ兵を用いるの法、勝つ可からざるは者は守りにして敵の疲弊を誘い、而してのち善く攻むるなり――」
 常と変わらぬ字体と文体で、軍師はつらつら書き進む。
 こちらが信を曲げるわけにはいかぬ。
 いかに華々しい過去を持とうとも将の現在の身分は劉玄徳が麾下の一将に過ぎず、劉玄徳が一の軍師の指示には膝を折って従うべきなのだ。
 
 こんど軍令を無視したならば、厳罰に処してくれる。

 書き終わり軍師は筆を置いた。
 読み返しもせず伝令の任につく兵卒を呼び出して、戦場に、総指揮官にしかと届けるように厳命を下す。
 しかしてのち、軍師は帰り支度を始める。
 立ち上がったとき、卓にひとつ残った書簡が揺らめいた。

 ―――おまえに早く会いたくて、俺は奮闘しているのだぞ。
 
 最後の一行が視界をかすめる。
 軍師は眉間にちいさく皺を寄せ、人目に触れては困るその書簡をしぶしぶに懐に入れて持ち帰った。 


 

  
 

なにかかっこいいコトバをすらすらっと書くコメ様を描写したくてWebから『孫子』を引用とかしてたら気分が悪くなってきた。(慣れないことはするもんじゃないね!)   

(2007/4/10)

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