「そろそろ終わられませんか?」
心配そうに言ってくる蒋エンに対して、孔明は顔すら上げなかった。
とうに日が暮れた時刻。
燈明をとる油は貴重であるので、かなりの地位や職務をもつ文官でも、日が暮れると筆を置く。
深夜まで執務を続けるのは、数多くの文官が出入りする政庁においても、孔明だけだ。
「今宵は、ひどく霧が出ておりますよ、孔明様。お帰りの夜道はいっそう危のう御座いましょう」
「城に泊まるゆえ大事ない」
書き終えた書簡をよけ、積みあがった書類の山から新たな一巻きを取り崩す。
蒋エンの顔がいっそう曇った。
「・・・そういって昨夜もお休みにならなかった。昨夜だけではない、一昨日もその前も」
「そなたは、もう休むが良い、蒋エン」
「しかし」
「下がれ」
あきらめたように蒋エンは肩を落とした。くれぐれも夜更かしなさいませんようにと、念を押すことすらもう無い。言っても効果がないと分かっていて繰り返すことは、徒労だ。
せめてもと、部屋の隅に備え付けられた火炉に、新たな炭を足す。
火のつきやすい書物が大量にある部屋で火を使うのは危険であるのだが、夜通し仕事をする孔明の手や身体が冷え切ってしまうよりましだった。それでも部屋の隅にしか置けず、気休め程度にしか暖まらない。
前からその傾向はあったが、このところの軍師の職務への没頭ぶりは異常だった。
寝もせず休みもせず、一心不乱に筆を動かしている。
それでも書類の山は溜まっていく一方で、減る気配はない。
魏との戦で、蜀は負けた。
南蛮を平定し、いよいよ打倒北魏への兵を挙げたのだ。蜀軍にとって総力戦の構えだった。
もとより危険な賭けではあったが、勝算はあったのだ。
天水・南安・安定の3郡を寝返らせ、天水郡の武将であった姜維という先ゆきの有望な若将を蜀に降伏させた、そのときまでは順調とさえいえた。
敗因は―――馬謖が山頂に布陣した、ただそれだけだった。
孔明は猛将魏延を先鋒にすべきとの意見を斥けて馬謖を抜擢し、彼に諸軍を監督させて街亭へ派遣した。
馬謖はあくまで街道を守れという孔明の言い付けに背き、街亭城を捨てて南山に登り、王平はたびたび馬謖を諫めたが、馬謖は聞き入れず、魏将張コウは街亭に到着して水を遮断して攻撃し、馬謖軍は大敗した。
漢中に兵を引いた孔明は、馬謖を獄につなぎ、多くの諸将文官が助命嘆願したにも関わらず、馬謖を斬るように命じ、自身も右将軍となり官位を三等級落とした。
馬謖は死を目前にして孔明に手紙を送っている。
『明公は馬謖を我が子のように見てくれましたし、馬謖も明公を父のように見ておりました。どうかくれぐれも鯀を殺して禹を取り立てた義を思い出してくださいますよう。平素の交わりがここに来て傷付けられることがなければ、馬謖は死んでも黄泉路にあって恨みを抱くことはありません』
馬謖はこのとき、三十九歳。
手紙を読んだ孔明は、一滴の涙も流さずに乾いた声で処刑を命じ、処刑場で馬謖の首が落ちるさまをまばたきもせずに見守った。
その日から孔明は眠らなくなった。
幽鬼のように青褪めた顔で終日机に向かい、敗戦の処理を行っている。
蜀の国力をかたむけた大戦であっただけに、喪ったものを埋めるのは容易ではない。
深夜になると、馬謖が訪れた。
生前の彼が使っていた机に向っていることもあれば、冷え切った肩に衣を掛けてくれることもある。が、たいていはじっと立っている。何か言いたげにしていることはあるが、何かを言うことはけしてなかった。
「馬謖」
物言わぬ影に向って、語りかける。
「そなたは何も言わぬな」
新しい書簡を取って、静かに開いた。
「それとも首を斬られると、口は利けなくなるのかな。そうかもしれないな・・・」
書いていた文字が、ふと歪む。孔明は、目がかすんでいることに気づいた。文字がゆらゆらと揺れて、よく見えない。目をすがめてやっと見えたと思ったら、今度は斜めに見える。
「なんだ、馬謖・・・そなたの悪戯か?そういえばそなたは子供っぽいところがあったな・・・だが、やめてくれ。これでは字が読めないではないか」
気がつくと、筆を持った手までが震えている。苦笑して孔明は、筆を置いた。冷えていることに気づいて両手をこすりあわせて温めようとするが、両の手ともに震えていてどうにもならない。
これでは職務ができぬ、と孔明は、今夜は扉の近くに立っている馬謖に目を向けた。
「恨まない、とそなたは私に手紙を書いてくれたが、別によい、恨んでくれ。ただ、らちもない悪戯はやめよ」
震えは止まらない。持とうとして取り上げた筆は、からりと卓に落ちた。
「黄泉にて、そなたの恨み言はいくらでも聞く。なに、そんなに長いことが待たせないから・・・だから、震えを止めておくれ」
立ち上がったところ、地面までがぐらぐらと揺れた。卓に手をついて孔明は、自らの目頭を押さえた。
「怒っているのか・・・ならば謝る。痛かった・・であろうな。首を、斬られるなんて。どんなに、辛く、無念であったろう、馬謖・・・もうしばらくしたら、そちらに行くから、それまで」
そのとき、廊下に足音が響いた。影がぶれる。
馬謖がなにか言いかけたように見えて、孔明は首をかしげた。とうとう何か言う気になったのかと待っていると、音を立てて扉が開いた。
影が急速に薄れていく。
待って、と伸ばした手を、荒々しく掴まれた。
「・・・丞相」
張り詰めた渋面に、孔明は目を見開く。
しばらくあっけに取られていたが、気を取り直して叫んだ。
「・・・こんな夜更けに何用ぞ。その上に人の手をいきなり掴むとは無礼であろう、放しおれ、魏延!」
深夜の執務室に、尖った一喝がこだました。
丞相府に武官がやってくることは珍しくない。だが、この相手となると別だった。
魏延とは、自他ともに認める、孔明と不仲である漢である。
武将としての実力は皆の認めるところで、劉備はことに魏延の勇猛を愛でていた。それでいて、孔明とこれほどそりの合わぬ漢も珍しい。
初対面からこちら、魏延とは犬猿の仲であった。
それがなぜ突然、深夜の丞相府などという場所に現れ出でたのか、孔明には見当もつかなかった。
それに、漢が全身から発している緊張感が気になった。表情も強張り、引き結んだ口端といい眼光といい、緊迫に溢れている。
「なにか危急でも――」
孔明の声も緊張した。
劉備が死に、関、張、黄、馬という勇将たちも次々と鬼籍にはいっている中で、古参の猛将である魏延は蜀軍において一、二を争う実力者である。その将が単身あらわれたからには、よほどの一大事であるに違いない。
「魏延・・・魏将軍、なにか、言われよ」
この漢までも物言わぬのか・・・と孔明はにわかに不安になる。
見れば、あれほどはっきり見えていた馬謖は影も形もなく消えている。彼がいたあたりには、闇がわだかまっているだけだった。
とつぜん現れた将は、緊迫した眼差しでじっと孔明を見ている。孔明も、漢を見つめ返した。
荒削りな顔立ちは荒々しく、洗練などかけらもない。眼光はさすが幾多の戦場をくぐってきた漢にふさわしく、炯々と光っている。
孔明の腹に、群雲のように不安が広がった。
この男を前にすると、いつもそうだ。腹の底に雲が湧くように、得体の知れぬ感情が沸き起こる。
この男のなにが他者と違うのか、なにが自分を不安にさせるのが、孔明はいまだ分からない。
「魏延・・用があるのならさっさと済ませよ。ないなら去るが良い」
きっと睨みつけると、男の表情がわずかに動いた。
「正気、であられるか」
「な、に?」
孔明が耳を疑った。
「・・・・丞相閣下は気が狂うた、と云う者がおってな。某が確かめに参った次第」
「なんだと?・・・誰がそのようなことを」
孔明の目が爛々と危険な光を帯びる。
この蜀の中に諸葛孔明の頭脳を、疑うものがいる?
「誰だ?其方の耳に入るなら、軍の者であろうな?」
「誰でもよかろう。それに軍の者ではない。文官でござる」
「文官が・・・其方に。はは、そんなはずはなかろう。戯言を申すな」
孔明は軽く笑った。文官と武官は仲があまりよくないものだが、この男は武官の中でもとくに文官たちと相性が悪い。文官たちの中に孔明の敵はいない。縁の薄いものはいても、とりあえず敵対する態度を示すものはいないはずだ。
戯言と決め付けて、孔明は笑い飛ばした。
「ほんとうに文官が?だとしたらたちの悪い冗談で其方をからかったのであろう。そんなことを真に受けてわざわざ出向いてくるとは、狂った私を見て笑いたかったか?だったら生憎だな、あはは・・・」
「・・お笑いになるな」
感情を押さえた声に、ますます孔明の笑いは高くなった。
ぎりぎりと奥歯を噛み締める尋常ではない音に、ふと孔明は笑いをとめた。
「笑うな・・!」
押し殺した絶叫が響き、荒削りな顔を近づいたかと思うと、次の瞬間には口を重ねられていた。
驚愕して動きをとめた孔明に、荒々しい口づけが襲い掛かる。
「なにを・・するか・・っ」
懸命に頭を振って払おうとするも、解いた先からまた重なってき、鋭い叱責も用をなさずただ呻くだけの音が口端から漏れた。
それこそ半狂乱になって孔明は暴れた。
突っぱねようとした腕を掴まれれば、文官沓を履いた足で向こう脛を蹴飛ばして逃れようともがく。
荒く重なり合っているだけで接吻とも呼べぬものは徐々に深まり、孔明をさらに錯乱させた。
冠が弾け飛んだのを良いことに、男が元結いの根元を掴んでぐいと引っ張り、顔を仰向けさせられる。
引かれた髪がこめかみで引き攣れるのに苦痛のうめきを漏らすと、ふと引っ張られる力が弱まる。
みっしりと肉のついた体躯を渾身の力で押し返した孔明は、手足の自由と引き換えに自身がはじき跳ばされて床を這った。
石の床のざらりと固い感触が悪夢のようだ。
孔明は恥じもなく床を這いずって逃れようとしたが、甲斐なく引き戻される。
「誰か、―――」
袖をめちゃくちゃに掴まれ、ふわりと身体が宙に浮く。
そのままかつがれて移動した先で降ろされたのは、寝台の上である。
「なに、を―――・・・・・!」
逃げねば、と思うのに身体が動かない。叫びたいと思うのに舌の根は凍りついて固まっている。
歯の根が合わず、かたかたと耳障りな音を立てた。
「ひ―――・・!」
力ずくで引き寄せられ喉の奥で悲鳴がくぐもる。
え・・・?
恐怖も忘れて、孔明は瞠目した。
魏延は丸太のようなたくましい両腕を回し、孔明を深く抱きしめていた。力任せでありながら乱暴ではけっしてない腕の回し方が、粗野ではない力の入れようが、なによりも人肌のぬくもりが、孔明をして沈黙させた。
冷えきった身体に、男の体温がじわりと染みてくる。
永遠にもおもえる数瞬の抱擁を解かれて、孔明はぼんやりと目を開けた。なにも見えない。暗闇しかなかった。
ふたたび、口を塞がれる。人と口づけをしている気がしない、獣に喰らわれているような感覚だった。それでいて太い体躯から発される熱が、孔明から抵抗を奪っている。
自分が凍えていることに孔明は自覚してはいなかった。
だが、ぬくもりに触れたいま、その熱を手放しがたく感じる。
だから厳重に重ねた衣を肌蹴られ、脱がされはじめたときには、肌にあたる外気の冷たさに怖れをなして、思わず男の躯に取りすがった。
本能が寒さをこばんだ。
冷えきった身体に暖を与えることが意識の全てを占領し、自分を抱いているのが誰なのか、これから何をしようとしているかは、どうでも良くなった。
ぬくもりに包まれて、孔明は鼻にかかった甘いため息をもらし、夢心地にゆっくりと両手を伸ばして熱い躯の背に、手をまわした。
一枚のこった薄い単衣の裾を割って入り込んできた手が、脚をのぼった。その手もまた熱い。膝あたりからゆっくりと、上へ。手の動きと同じくらいの速度で、寒さではない震えが背筋を這いのぼってきて、頭の芯がぼうっと霞んでいく。
身体を撫でさすられるうちに、ぬくもりが快楽に変わっていった。
ぬくもりを逃がさぬよう差し伸べられていた孔明の手は、快を逃さぬようにたくましい背にすがりつく。
「あっ・・あっ・・」
太い指が中心に絡んできたときには、朱を点じたような唇を開いて喘いでいた。
快の波が押し寄せてきて、何もかも忘れてしまっていた。
無骨な指が後口を探ってきたときさえ、さらなる快が与えられるのだろうと逆らいもしなかった。
やがて、激烈な衝撃に、孔明の自我は砕け散る。
痛みと快楽とがないまぜになった、それは衝撃としかいいようがなかった。
「ひ、ぃあっ・・あぁぁあ」
手足をばたつかせるも、打ち込まれた楔は揺らぎもしない。
「あああああああ」
突き上げられて揺さぶられて。さいごには強く掻き抱かれて奥を穿たれて。意識が失墜した。
魏延は、昏々と身じろぎもせずに深く眠る人を、背後から抱き寄せた。
情交のときそうしたように肌を合わせて。
腕の中の白く儚きものが、凍えてしまわないために。
白い、玉石のごとき魂が、砕けてしまわないように。
強く強く抱き寄せていた。
この国第一の権力者の顔は穏やかだった。
血の気を引かせて逃げ惑った彼は、寝台に移ってからは従順だった。快に溺れ、腕を伸ばしてすがり、甘い吐息をこぼした。
そうしていながら、一度も、ただの一度も、魏延のことを見なかった。
魏延は一晩を白い身体を抱いて過ごし、東の空が明るみ始めても動かなかった。
空全体に紫雲がたなびき、山の端から金色の旭日がその姿を顕す直前になって、身を起こした。
1日が、始まる。
魏延はこの日の夜も、この部屋を訪なう積もりであった。
そして、昨夜したことと、まったく同じ事をまたする積もりでいた。
その際孔明が、どのような反応を見せるのか。嫌がって罵倒するのか、それとも昨夜のようにうっとりと目を潤ませて受け入れるのか。魏延には判断がつかない。
犯して、抱き尽くして眠らせる。
そんなやり方しか、この白い龍玉を悪夢のない眠りに誘う方法を思いつくことができなかったのだ。
孔明が受け入れたのはまったくの誤算だった。
泣き喚いて抵抗した方が、良かったのかもしれない。
だがこの三国一の智者は、魏延を魏延と認めて拒むより、夢のような闇に入ってしまった。
快に霞む彼の瞳は闇そのもののように、何も存在していなかった。
身支度を整えた漢は、足音を立てずに部屋を出た。
立ち去る直前、彼が牀に横たわるものを見つめたことを、万感の想い込めた眼差しを注いだことを、帳の間からわずかに射し込んだ、その日最初の暁の光線だけが見ていた。
(2014/3/2)
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