50題―07.貴方の喜び

 


城に住む劉備のもとにそれが持ち込まれたのは、夜更けのことであり、持ち込んだのは法正だった。
「落ちておりましたもので。拾って参りましたよ、劉備様」
「は、―――はあっ!?」
劉備が勢いよく立ち上がったせいで、どんがらがっしゃん、と音を立てて椅子が倒れて転がる。
劉備のそばに控えていた趙雲が、額を押さえる。
「―――落ちていたって。・・・どういう状況なのですか、法正殿」
たまたま登城して劉備の夕餉に招かれていた馬超は、酒杯を持ちながら軽く笑った。
「この国では、道ばたに軍師が落ちているのか?」
それも、これが仕えたものが国を取る、といわれるほどの天下の智者が。
「道ばたではありませんな。城門を5歩くらい出たところだったので。道ばたではなく、広場といったところかな?」
そういう問題では、なかろう。

城外に屋敷を構える法正が、夜遅くに執務を終えて帰宅しようとしたところ、城門のそばで兵卒が静かに騒いでいた。
静かに騒ぐとはへんな言葉だが、そういう状態だった。
美しい鹿毛馬が進むとも引くともしないで立ち止まっている。騎上の人間は、どうやら意識を失っているようである。
馬にも白衣にも見覚えのあった法正が兵をかき分けて近づき、馬から抱き降ろすと、それは失神ではなく睡眠だとしれた。
城に入ってから顔見知りの文官が言ったことには、この軍師はここ5日ほど眠っていないという・・・。


「軍師府に返しても良かったのですが、こっちのほうが良いかと思いましてね」
法正は片方の眉を上げ、肩をすくめる。
「良い判断です」
趙雲は頷いた。
軍師府内にある居室で寝かせれば、彼の知識と思慮を切望する文官がどうしても邪魔をする。私邸はというと、会見を申し込む豪族などの訪れがひっきりなしにあって、やはり睡眠は守られない。
劉備の居室であれば、さすがに邪魔をしにくる者はおるまい。
国で一番の、安眠場所だ。


「さて、どこに運びましょうか、劉備様」
「あ、では、こっちに頼む」
ぽかんと驚いていた劉備が我に返り、いそいそと先にたって案内する。
この国の王の居室―――その最奥の寝所へと。
法正は、前の主の時は入ったことがあるが、主が劉備に替わってからは入った事のないその室へと脚を踏み入れる。
「ふぅん・・・・」
法正は劉備に聞こえないように口笛をふく。
前の主、劉璋のときより華美が格段に減っている。過剰であった虚飾はほとんどなくなり、いちおうの格式はあるものの、居室も寝所もあたたかみのある装飾にかわっていた。
寝所は、深緑を基調として金と銀の刺繍を入れた帳がそこかしこに垂れ下がる、瀟洒な室だ。
「俺は前のキンキラも嫌いじゃなかったけどね。こっちのほうがあんたに似合うのかな、臥龍殿?・・・・にしても、あんたの寝顔がこんなだとはね。いやはや、劉備殿は偉大な方だ」
抱きかかえていたものを、褥に寝かせて、帳の外に出る。

「では、俺はこれで」
「あ、待て、法正!ちょっと飲んでいかぬか」
「悪くないんですけどね、劉備様―――、万一そちらの軍師殿の目が覚めれば、俺がいることをお喜びになりませんでしょう」
法正が肩をすくめる。
「俺が見つけ、運んだことも内緒ですよ。俺はあの人にだけは借りも貸しもつくりたくない」
「あのなぁ―――」
劉備は眉を寄せる。
だが確かに、諸葛亮がこの男とそりが合わぬことは表立って広まってないが、劉備の側近なら誰もが知っている。
「ただ、殿―――」
法正が声をひそめる。
「うん?」
劉備は自然と智謀の政治家に耳を寄せた。
「・・・臥龍の寝顔があれほど甘いとは、俺も驚いた。いやぁ、夜毎あれを寵する殿が羨ましくなりましたな」
「・・・!」
ぼっと劉備が赤くなる。
「う、うむ、諸葛亮の寝顔はそれはもう・・・・いや、ちょっと待て何を言わせる、馬鹿!からかうな、法正!!」
にやりと人の悪い笑みを浮かべた法正は、すらりと洒脱な拱手を取る。
「殿の酒をお受けできぬのは残念。今宵の手柄に、いずれ良い酒を下賜してくださいよ」
闊達に笑って下がっていった。


「な、なぁ、趙雲」
「はい?」
「―――しょ、諸葛亮の寝顔って、そ、そんなに甘いかな」
ぶふっと酒を噴いたのは馬超だ。
「劉備、何を言い出すのだ」
「だ、だって、あの、あの法正が言うのだぞ、相当ではないか!?」
「というかな、劉備」
「うん?」
「どうなのだ、あの軍師とは。いいかげん、いかがわしい仲になったのか?」
「―――!」
劉備は絶句してのけぞり、その大きな耳たぶまでも朱に染めた。
「お前こそ何を言うか、馬超っ!!・・・・わ、私と諸葛亮が、・・い、いかがわしい仲になぞ・・・・と、とっくに、その、ぅん、う・・・」
その時、ばこんっと音がして、馬超の座る椅子が吹っ飛んだ。
「おわっ!」
そこは猛将、椅子ごと吹っ飛びかけたが無様に転げることはなく、床で一回転して飛び起きた。
「なにする、趙雲!」
「どれだけ無礼なんだ、お前は!!主君にセクハラ言う馬鹿がどこにいる!」
「なにをぉ!」
趙雲の胸倉を掴む勢いで食って掛かった馬超だが、世にも哀れなうめき声にさえぎられ、またたく間に戦意を喪失した。
「・・・・いかがわしい仲になぞ、とっくに・・・とっくに・・ぅぅ・・ううううう」

馬超は、思わず趙雲を見た。趙雲は微妙に目をそらす。
「・・・・おい、まだなのか。まさかとは思うが」
「・・・・私に聞くな」
「ほかに誰に聞くんだ」
「誰にも、聞くな!」


「もう行くぞ」
趙雲は劉備に向き直り、颯っと拱手をする。
「殿、今宵はこれで退出いたします」
「え・・・行ってしまうのか」
今にもえぐえぐと泣き出しそうな劉備は、途方にくれたような声を出した。
「騒ぐと、眠っておられる軍師殿に障りましょう」
「そうだな、俺も行くか」
肩をすくめ、馬超も型通りの礼を取る。
「ここ数日眠っておられないのなら、どうぞゆっくり休ませて差し上げてください」
落ち着いた趙雲の声に、馬超の乱雑な声が重なる。
「ちょうど良いではないか。眠っているものに手は出せぬだろうが、起きたら押し倒してしまえ」
また絶句する劉備の目の前で馬超は後頭部を趙雲に殴られ、何かわめいていたが、ばったんと扉が閉まり、静かになった。


し〜〜〜〜〜ん・・・となってしまった居室に、劉備はぽつりと取り残された。
やがて侍従が入ってきて、てきぱきと劉備の寝巻きを整え、酒や料理の皿が残った卓を手早く片付ける。
「では、おやすみなさいませ、殿」
ぱたりと扉が閉められた。

劉備はなんだか取り残されたような気になった。
展開の速さにすこしついていけない。
ええと、と考える。
いつものように趙雲がいて、馬超がやってきたから一緒に食事してたら法正がきて、―――諸葛亮が横抱きにされていて。
そこまで考えるといてもたってもいられなくなり、劉備はぴゅっと寝所に走る。

甘いかな・・・・諸葛亮の寝顔って。
劉備が思うに、諸葛亮の寝顔はそれほど甘くない。おそろしいほど整ってはいるのだが、すこしきびしいところがある、とおもう。
隆中から出てきたばかりのころは若さと怜悧が際立ち、蜀入りしてからというもの、きびしく張り詰めたところが増してきた。

それもこれも―――
「わたしのせい、だよなぁ・・・・・」
はふぅ・・・・・と劉備は息をはく。

寝所にめぐらされている帳をそぅっとかきわけると、白き龍玉がねむっていた。
えっ――――
こくりと息を飲む。

たしかに・・・・・・諸葛亮は甘い顔をして眠っていた。

「しょ、・・・・・諸葛亮」
ふらふらと劉備は寝台に近寄り、そろそろと顔を寄せまじまじと見るが、やっぱり甘い。

どんな夢を見ているのか―――と考えながらぼんやり寝顔を見守っていた劉備は、白い手が布団から出てるのに気づいて、入れてやろうとその手を取った。
諸葛亮が羽扇をもつ手―――そして執務を行う右手―――は、白く長い指は女人とはやはり少し異なっていて、思いのほか節がしっかりしており、中指の節のところがざらりと黒くなっていた。
墨を使いすぎて、筆を持ちすぎて、そのようになってしまったのだろう。
拭っても取れないその痕を見て、劉備は急に思い出した。
ぱっときびすを返し、寝所を出て執務の室に走る。
大机には、きちんと整えられた書簡が積みあがっていた。
昼過ぎ、諸葛亮が持ってきた書簡だ。

『殿の得られた益州を治める法を整えました・・・・ここ数日思案しておりましたが、ようやく整いましたので、お持ちいたしました。蜀科と呼ぼうと思っております』

そういった諸葛亮の顔は、ひどく満ち足りたものではなかったか。
自信に溢れた怜悧な態度は常と変わらなかったが、それでいて声はどこか嬉しげなものを含んでいなかったか。
――――ちょうど、いまの寝顔のように・・・・・・。


劉備はゆっくりと寝所に戻る。
じぃんと胸が熱くて、詰まったようになっていた。

「まさか・・・・・蜀の法が完成したのが嬉しくて、そなたはそんな満ち足りた顔で眠っているのか・・・・?このように指を墨でよごして、何日も眠らずに―――・・・・・」

かくりとその場に膝をつく。

「私のため・・・・私と、私の民のため・・・だよな」

ああ、諸葛亮―――・・・・・・・・・
劉備は目頭を熱くしながら、諸葛亮の手を取って握り締めた。

そのまま朝まで寝顔を見守っていようかと思ったが。
それも諸葛亮に心配される気がして、ごそごそと寝台に上がり、諸葛亮の隣にもぐりこむ。

『いやぁ、夜毎あれを寵する殿が羨ましくなりました』
『どうなのだ、あの軍師とは。いいかげん、いかがわしい仲になったのか?』

法正、馬超・・・・・・わたしはまだこれに手を出せず、いかがわしい仲にはなっていないのだ。
だけど、―――それがなんだというのだ。

頭部を髪ごとそぅっと抱きしめて、内心でひとりごちる。
そのまま肩を引き寄せて、腕枕をするようにぴたりと抱き寄せた。
諸葛亮の息が、首にかかる。
そこだけひどくあたたかく、ちらりと見るとあいかわらず寝顔は甘い。

『起きたら押し倒してしまえ』

馬鹿、馬超。押し倒せるものか、―――――いとおしすぎて。


他者の体温が心地よいのか、かるく身じろいだ諸葛亮がなにかつぶやき、身を寄せてくる。肩のくぼみのところに頬がすりつけられて、劉備はすこしだけ赤くなった。

いや、もう・・・・・・めちゃくちゃ幸せだ。

誰も見ていないのを良いことににまにまと顔をくずした劉備は、心地よい重みと体温に蕩けるように、とろとろ、ふわふわした眠りに落ちた。








翌日は、静かな雨が降る朝だった。
寝台を覆う薄紗の帳はひっそりと降ろされて、佳人の睡りを守っている。
帳台の奥は深い静寂に包まれている。


噂を聞きつけて朝のうちに、姜維が小花をつけた香草を持ってきた。
「枕とに置くと、よくお眠りになれるかもしれません」と。
噂を聞きつけて朝のうちに、馬謖が香炉を持ってきた。
「足もとで焚くと、深いご睡眠を促すかと存じます」と。
劉備の侍従は毛織り布を持ってきた。
「雨の朝は少し冷えるので、掛ければよくお眠りになれるのではないかと思いまして」と。

「うむ、うむ、そうだな」と劉備はうろうろと立ち働き、手ずから寝台の枕辺に良いにおいのする香草を吊るし、寝台を支える脚の下で品のよい薫香をただよわす香炉を置き、穏やかでひそやかな寝息を立てる身体に、毛織り布をそぅっと掛けてやった。

「そなたは、みなに慕われておるな・・・」

劉備はきょろきょろと辺りを見回し――劉備の寝所で、人払いもしてあるのだから誰もいるはずもないのだが――誰も見ておらぬか確認してから、そぅっと顔を寄せた。

「ゆっくり、眠ってくれ、諸葛亮・・・・・だけど、早く起きておくれ」

つぶやきと口づけの音は、雨音にまぎれた。

   
 










(2014/6/8)

≪ 一覧に戻る