50題―10.一度でいい

 


並んで立つと、身長はさほど変わらない。
肩をすぼめ、うつむきがちにたたずむ黒袍にたちまち雨粒がしみるのを、魏延は亡羊と見ていた。
触れているようにもみえる互いの肩は、実はまったく触れていない。
傘というものは、二人ともに持ち合わせてはいなかった。
他意がないものあいてならば、肩を引き寄せることが出来る。そのままだと、高貴な肢体が濡れてしまうのだから。
しかし他意があるゆえに、魏延はそうすることができなかった。





火焔と黒煙に呑まれていた戦場は、ふりしきる雨のせいで沈静しつつある。
人の手で起こされた火災は、火炎を噴き上げている時も悲惨だったが、鎮火した焼け跡は醜悪だった。
目を閉じても景色は赤く染まっている。目の奥に焼きついた光景を払うように顔を振ると、すさまじい悪臭が鼻についた。何が燃えたのか、臭気は嫌でも思い起こさせる。
燃えたのが木ならばこんな異臭はしない。木も燃えたがそれだけではない。森も一部は燃えたが、目の前に累々と積み重なっているのは木や森が燃えたものではない。焼け焦げ、いまだぶすぶすと燻り、赤黒く腫れ上がり血を滴らせている塊は、断じて木などではない。数は数十でも、数百でもない。数千に上る。
人はこれほど非情になりうるのか。
天は果たしてこの所業を赦すのか。
魏延は大声で叫びたかった。

胸の奥がざわめいている。戦場にいるときよりも大きく不穏当に、魏延の胸中は暗雲に覆われている。理性を狂わせるような速さで動悸が打っている。
傷を負っていた。無謀なほど剛直な突撃を常とする魏延は、武将の中でもことに負傷が多い。
いつ負ったのかは覚えていない。罠を仕掛けた間道に、敵兵を誘い込んだ時か。道中を埋め尽くした油を撒いた藁に、火矢を放たれたときか。燃え広がる焔の中で、これを最期と討ちかかってきた敵将を斬り捨てたときか。
鈍痛を発する傷は、じわじわとまだ血をにじませ続けている。
眼下から吹き上げる熱い風が、異臭を運ぶ。天から落ちる雨が、嫌悪を助長する。
気が荒んでいる。戦の勝利に対する爽快感など、何処を探しても沸いてこない。

隣に立つ痩せた長身がぐらりと傾いた。魏延はそれでも手を伸ばそうとはしなかった。
それはよろけながら草叢に手を突き、二三度咽せたあと嘔吐した。
大きく震える痩せた背を見ていると、なおさら胸の奥がざわついた。
なぜ見せる。
そんな弱弱しい姿を。なぜ俺にだけ。
ここにはこれを神と崇める文官どもはいない。これに慈愛の眼差しを注いでいた主君はとうに、世を去った。わが師とこれを敬慕する若い将校はこの戦場にはおらず、掌中の珠のごとくに優しくこれを愛撫するのであろう武将は、遥か遠い空の下、だ。
天と地のはざまに、二人だけ。
目に映るのは、もはや物言わぬ屍骸と成り果てた数千の物体だけ。



魏延はじり、と一歩を踏み出した。
ずっと、胸に抱いていた渇望がある。いまならそれは満たされるのではないか。
雨粒は、帳となって為されることを隠すだろう。
雨音は、助けを呼ぶ声をかき消すだろう。
どんな非道な蛮行も、雨滴は洗い流すのではないか。
文官の抵抗はおそらく、あわれなほど非力なものだろう。
助けを求め情人の名を呼ぶだろうか。
だが、この戦場にいない彼の情人が姿をあらわすことは万に一つもありはしない。
拒絶とはいえぬほど弱弱しくあらがいながら、彼はされるままになるしかない。
考えれば考えるだけそれは空恐ろしくなるほど簡単で、魏延は呆然とする。

一度も血で汚れたことがないかもしれない白い繊手が、泥土に食い込んでいる。薄い背が震えて嗚咽が漏れている。
魏延は背後から黒衣の肩を引きずり起こした。
軍議の間で、戦陣で、此度の戦は火攻めにすると公言した時でさえ汲めども尽きぬ水を湛えた沢のように滔々と黒く澄み渡っていた黒眸が、悲痛に潤んでいる。うつろに翳った眸は、魏延のほうなど見ていない。
魏延の脳裏ですでに幾度も犯されていることを、この男は、微塵も感知していないのだ。
得るものもなかろうが、うしなうものもまた無いということが、魏延の感情をさらに殺伐とさせている。
彼が魏延を忌み嫌っていることを国中で知らぬものはなく、――今日、切り立った峡谷にはさまれた逃げ場のない間道に、油脂を含ませた藁を敷き詰めた死地に、業火をいざなう焔の矢が打ち込まれたのは、魏延の隊が脱出する前だった。
魏延は痩身を泥の中に突き倒した。
ふと、焦点を合わす眸。
猜疑と警戒を取り戻し、ついで恐怖を浮かべる白い貌。
見ている。白羽扇の影に隠して何時も此の方など見ようともしなかった眸が。
恐怖に見開かれた麗眸に映っているのは、泥と火煙と血に塗れた獣のような顔だろう。
弱弱しく抗う両手首をまとめて頭上に縫いつけ、雨に濡れた黒袍の裾を捲り上げる。
叫びを上げる口には、戦袍のどこかから出てきた汚れた布を押し込めた。


一度だけ。一度だけでも。
幾度、女々しく思ったことだろう。



いいんじゃないのか?
この凄惨な戦場に。もうひとつの罪が、加わるくらいのこと。

   
 










(2008/4/22)

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