50題―19.浮気

 


孔明は目の前の美しい女に酒をつがせた。
心境はあまり穏やかではない。
執務の多忙で尖った神経を癒すのに妓楼をおとなうのは、これが初めてではない。
だが、音楽の芸にすぐれた妓女を、と妓楼の番頭に頼んで、それでやってきたのがあの男の馴染みの女であったというのは、まるで悪い冗談のようにタチの悪い偶然だ。


高級な店の妓女ともなると、城で行われる酒宴にはべることがある。
女が舞うところを見たのも、そのような宴の席であった。
女の演舞は華美であり、それでいて過剰な媚びを感じさせるものではなく。芸として見事であり、そのいっぽうでたいそう艶やかでもあるという、つまり魅力に富んだものだった。
単純に感心して眺めていたさなかに、隣席のどこかから笑い混じりに、あれは馬将軍の贔屓の女だというささやきが耳にはいったときは、得体の知れぬ屈辱を感じたものだった。

べつにあの男は愛人でなく、只の情人であるのだから、孔明が嫉妬などするいわれはありはしない。
だが、琴を弾かせるなり歌わせるなりあるいは舞わせるなどして気晴らしをする、という気分にはならず、不機嫌な顔のまま孔明はさしてうまくも感じない酒を黙々と飲んだ。




「…ある御方の話をいたしましょうか…?」

女が、言い出した。
豊満な体つきをした、小柄な女である。健康的な肌色は、南方の生まれであることをあらわしている。くせが強 くて波打つような髪は金茶で、豊かなそれは彼女を生き生きと彩っている。声がまた良くて、どこか笑みを含んだ ようなほがらかな声音は、金色の鈴をころがすように豊麗なのだった。
音楽の芸にすぐれた妓女を、という指定だったにも関わらず、一向になにか芸をせよとも言い出さず、むっつりと酒杯をかたむける孔明の態度をどうおもっているのか、女は笑みをたたえている。
冷ややかな白面を上げようともしない孔明に女はもう一度、話をしてもよろしいですかと尋ね、孔明がかすかにうなづくと、にこやかに語りはじめた。
この妓楼に馴染みの男に関するらしい、長い話だった。


「もともと、女のお好みは煩くない方なのですわ。いっとき楽しければそれでよいというような…。ですが、あるとき急に、漢人の女がよい、色が白くて髪が黒い女、と言い出されましたの。どうしても、というのではなく て、ほんの思いつき……好奇心からのようでした。高名でありますし、地位のある方でしたので、ご希望とおりの妓が選りすぐられて並べられました。ところがその方は満足なさいませんでしたの。隠すな、もっと美しい者 がいるだろう、と仰って。難癖をおつけになるわけではなく、純粋に驚かれたようでしたわ。漢人とは、みな美しいのだと思っていた、と仰るんですのよ、どこのおひとと比べて仰っておいでなのか存じませんけれど…ね。
店のものは困り果てまして、それでも何とか仰せとおりの女を探したのです。戦乱の世で御座いますもの、富貴の家にお生まれのお嬢さまが芸妓になることもあれば、顕官の後宮でお育ちになれらた姫君が遊郭にはいることも御座います。花街中をさがしまわってついに、これなら、という女を見つけましたの。それは天女もかくや、 というようなお人でしたわ。みるからに高貴な白い肌をしていて、立ち姿に威厳があって。腰まである長い髪を結い上げているさまときたら、天子様の後宮の后もかくや…という風情でしたわ。そういうふうな女を、綺麗に着飾らせてその方にお見せしましたところ、その方も気に入られたようでしたの。それで……どうなったとお思 いになります?」

「さあ」

孔明は無表情に、酒杯をかたむけていた。
感じの良い抑揚でよどみなく語るあいだにも、女の手は、ほどよいころあいで杯に酒を注いでいる。


「座敷にあがっていっときも経ずして、そのお方はお帰りになってしまいましたの。番頭やら店主やらが慌てて、旦那様、なにがお気に召しませなんだかと問い掛けましたところ、なまじ似たところがあるとかえって違うと ころが目に付くものだ、と。あの方は苦笑いながら花代を投げて帰られましたの。つぎにいらしたときには、なるべく肌は白すぎないほうがいい、髪も、星を映した夜空のようには黒くないのがいい、とご指名がありまして 、それでわたくしが侍るようになりましたの――」










馬超は悠長な足どりで歩いている。
腰に愛用の剣を佩いただけの軽装で、そのくせ夜目にもあざやかな縫いの袍を纏っているのは単に無用心なのか、またはそこらの悪漢など歯牙にかけぬという自信のあらわれか。
ちなみに馬に乗っていないのは、遊里に足を踏み入れることを、愛馬が断固として拒否するからである。

さて既に慣れ親しんだ妓楼の瀟洒な佇まいが目にはいると同時に、馬超はそこの出入り口が常と異なる華やぎに包まれていることを知った。
どうやらどこぞのお大尽が、妓女を連れて遊興に出るものらしかった。
同じ花街の佳人と云っても、もっぱら身を売ることが専業の遊女と、芸を売る妓女との扱いは厳然たる違いがあって、後者のほうが地位は高い。
妓女は望めば城や屋敷に呼ぶことができるし、連れ出して行楽の伴にすることもできる。但し別料金が必要であるが。
これからまさに出掛けんとするお大尽は仰々しい騒ぎが好みではないらしく、しっとりとしめやかな風情である。
ともかくもこの一団が行き過ぎるまでは妓楼に入れそうもない。
琴をいだいた小女、酒肴とおぼしき籠をささげもった小女がしずしずと出てくるのを、馬超は見るともなく見ていたが、少女らに先導されて一団の主が出てくるや彼の表情は固まった。

「こ…」

地味な装いながら、滲み出る気品。あたりをはらう、白刃にも似た怜悧―――

「こ、こう―――……」

左将軍府事にして軍師将軍の、字。
けっして、遊里の真ん中で、声を大にして呼んでよい名ではない。
だが馬超に、そういった対外的な配慮がはたらいたわけではない。彼がその名を発音することが出来なかったの は、ひとえに大きすぎる驚愕のため。

「…おや。これはこれは……」

馬超に目を留めた軍師は、扇で口許をかくして一笑した。いつもの白羽扇ではなく、月に照らされる群雲を描いた、あでやかな扇だ。馬超は何故か、その扇に見覚えがある。
軍師の笑みが何処か勝ち誇ったようなものに見え、我にかえった馬超は小女を押しのけて詰め寄った。

「…お…前っ、こんなところで何をしている…!」

二の腕を引っ掴んで、ひそめた声でささやく。馬超の情人であるところの軍師は、情人の驚愕と熱を冷まさんとするようにか、或いは煽ろうとするようにか、ともかくもやけになめかしく微笑んだ。

「なにと申されましても…これは不粋なことを仰る。わたくしも多忙の為かすこぅし鬱屈が溜まっておりまして…。いつもならばこうも派手な遊びは慎むところですが…、このたびはよい芸妓にまみえたもので、たまには嵌めを外そうかという気になったのですよ…」

冷たいほどの白面は愛想よくほころび、笑みを含んだ声音は扇情的ですらある。
ただし流麗な細い睫毛に囲まれた黒眸は、馬超のほうは向いていない。
その視線の先をたどり――馬超はまたもや固まるはめになる。そこに、馴染みの女の艶やかな笑顔を見つけて。

「…舟遊びにまいりますの。江に舟を浮かべて月を愛でながら、琴を弾いて…」

女は馬超に対しては悪戯っぽく片目を瞑ってみせ、軍師に対しては打って変わってしとやかに楚々と寄り添う。
その様はまさしく似合いで、さながら明珠に美玉を配するがごとく。しかしながら馬超がそれを賛美する筈もなく、彼は呆気に取られたまま、しめやかに進みはじめた一行を見送ったのだった。






小舟での遊びごとと思いきや、なかなかどうして大きな舟が用意された。
一州の重鎮であるというよりは、大陸の覇権のゆくえをかかわる軍師が、妓女とふたりきりで舟に乗るということなど、ありえることではなかったのだ。
妓楼の外へ一歩出るや、どこからともなく立ちあらわれた軍師の護衛が取り囲んだ。その数は、片手では足りない。おそらく妓楼の中でもそれらは潜んでいたに違いない。
女の鳴らす琴を聴いているのかいないのか。軍師は白い指先に杯をはさんだまま微動だにしない。
うつむいた横顔に月光を浴びながら、清流のような白面から感情の動きは読み取れない。

女が、軍師に云わなかったことが、ひとつある。
彼女の馴染みの男―――かの高名な武人は、妓楼で酒は飲むが、泊まってはいかない。
女を嬲ることは、ある。しかしその際、剣を傍らから離すことはない。



閨の中でさえ佩剣を手放さない武人と、遊戯に興じるあいだも護衛に囲まれている軍師は、真逆に見えて何処か似ている。
豊麗な美女は、月に照らされた舟上にて、微かな苦笑を浮かべた。

   
 










(2008/4/22)

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