50題―22.隔たり-オマケ

 


劉備はバフッと、掛け布団をはね上げた・・・が、あわてて元に戻し、隣をのぞき見る。
諸葛亮はよく眠っていて、眼をあける気配はなかった。
起こさなかったことに安堵したが、身じろぎもしない寝姿にふと不安になって、おそるおそる手を伸ばしてみる。
吐息はあった、・・・もちろん。
ほっとした劉備は、諸葛亮の顔がものすごい近くにあるので、ぎょっとする。心臓がばくばくして飛び出しそうだ。
というか、もう叫びだしてしまい。
脚をばたばたして、全身でこの感激を表したい!!と思うのだが、さすがにそんなことをしたら起きるだろう。
もそもそと寝台に伏した劉備はじっと息を詰め・・・しかし数十秒後には耐え切れずがばっと身体を起こした。
横目で、隣をうかがう。
別に正面から見たって良さそうなものだが、寝顔を正面から見るのはなんとなく仁義に反する気がして、横目で見た。




軍師が怪我をした、と趙雲が言ったのだ。
血がどくどく流れている大怪我なのだと。
取るものもとりあえず諸葛亮の執務室に駆けつけた。
政庁は暗く、ぞっとするほど静かだった。暗闇はあんまり得意ではないが、そんなことを言っていられない。闇を裂くように走りぬけ、執務室の扉を押し開けた。
諸葛亮は窓辺にいた。立っていたのに長身がいつもの高さを保っていなかったのは、前かがみに背を丸めていたからだ。まさに怪我をした我が身をかばうような姿勢で、背を向けているのでよく分からなかったが、手は胸を押さえているようにみえた。
姿を見た途端、目の前が真っ暗になった。夢中で走ってきた間はそうは思わなかったが、姿を眼にすると、怪我を負ったという言葉が重くのしかかる。
諸葛亮がいないと、自分はどうするのか。どうなるのか。
「・・だ、大丈夫なのか」
我ながら、陳腐なことをいったと思う。だが、顔を上げた諸葛亮は、いつもの冷ややかな無表情を取り戻していた。
「・・・殿?いかがなさいました。酒宴のお誘いならば、お断り致しますよ」
「何を言っている!!」
伸ばした手は、振り払われた。いつもならば地の底まで落ち込むだろうが、必死で手を握りこむ。
「怪我をしたと聞いたぞ。はやく処置をするのだ!」
「・・・なにを」
「どこに、どこに傷を負った!?」
「傷など、負っておりません」
「嘘をつくな!!!」
怒鳴った。
「誰がそなたに傷を負わせた!?どこに居る、その曲者は!!許さぬ!!私が斬ってくれる!!」
右手で雄剣を抜いた。窓が開いていたので、逃走経路はそこしかないと駆けつける。揺れる帳を手で押さえて覗き込むも人の気配はなく。月がただひとりぽかりと浮いているだけだ。
剣の柄で窓枠を殴りこむと、砕けた木片がぱっと散った。
「殿」
「そなたを狙う者など、八つ裂きにしてやる!!言うのだ、諸葛亮、何があった!どこの者だ!?曹魏か、東呉か・・・いずれにしても許さぬ!すぐに戦だ!!」
「・・・・・」
気配を感じて振り向くと、長身がふらりと傾いたところだった。
歩を進めようと足を踏み出したとたん眩暈に襲われたというふうに、諸葛亮は片手で顔を覆って、身をかがめていた。もう片手は、相変わらず喉元に近いところの胸を押さえている。
「諸葛亮!」
久方ぶりに触れた身体は、かるく震えていた。血を大量に失った身体は体温が奪われて寒く感じるものだと思い至って、目の前が暗くなる。
「寒いのか、痛むのか」
「・・・殿はなにか誤解しておられます。私は怪我など・・」
「震えているではないか!」
剣を鞘におさめ、しっかりと抱き寄せた。しかし強く振り払われた。
「震えてなど、おりません」
「ではこれはなんだ!」
手を握ると、やはり震えていた。諸葛亮は射殺さんばかりの眼光で睨みつけてくるが、睨み返した。
「・・・戦、などと軽々しく仰いますな」
「軽々しくなど言っておらぬ!言えといっているのだ、諸葛亮。そなたが止めてもこればかりは聞けぬぞ。そなたを害する者なんか許さぬからな!」
ぎりぎりとにらみ合いながら、ふと我に返った。
「言い争っている場合ではない・・・手当てが先だ。傷を見せるのだ」
その時めずらしく、諸葛亮は目をそらした。叡智が炯々と奥光る双眸がそらされるなど、まずありえぬのに。
「殿はまこと仲間想いでいらっしゃる。たかが市井で拾ってきた軍師のために戦をおこそうなどと・・・きっと、臣下の誰が傷を負ったと聞いても、そのようにお怒りになるのでしょうね」
「当たり前だ」
「そのような方であるから私は・・・」
瞳を伏せてしばらく沈黙すると、諸葛亮は袖を払い、すらりと立ち上がった。
「殿、誓って傷は負っておりません。もう、お引取りを。・・・ご酒宴の最中でありましょう、お仲間が殿を待っておられる・・・お戻りください」
かるく礼を取り背をむけるのが、手から水がこぼれるような喪失感をもたらす。
また、逃げられてしまう・・・
いつのように背を向けて礼正しいうやうやしさで、行ってしまう・・・!
「諸葛亮、待て!」
気がつくと叫び、その背を腕におさめていた。
「臣下であろうと仲間であろうと、私は変わらぬ。間者によって誰かが傷を負ったなら、同じように怒り、兵を向けようとするだろう・・・しかし、しかし違うぞ、同じようであっても、その中に違う者もいるのだ」
「殿に特別がおありとは、初耳です。殿は誰に対しても平等に、心を掛ける方ではありませんか」
凍りつくがごとく冷たい物言いに抗いたくて、声を荒げた
「平等なわけがないだろう!現に、・・・現に、そなたは特別だ」
「・・・嘘をお言いなさいますな。戯言は聞きません」
劉備は強引に諸葛亮の身体と顔を自分に向けさせ、声を限りと叫んだ。
「聞かなくとも私は言うぞ、諸葛亮!!そなたが怪我をしたと聞いて、目の前が暗くなった。恐ろしくてたまらなかった。檀渓を飛ぶより怖かったぞ!!それでも特別でないと言うつもりか!!笑われると分かっているへたっくそな詩など誰が書き散らすか!!そなたにだけだ!!!水のくせに魚を釣り上げるな、この慮外者!!!」

ものすごく長いと感じられる沈黙があった。
向かい合った長身の背が震えだした。
何事かと思うと、驚いたことに諸葛亮がむせび震えて笑っていた。
袖で口元を隠しているのだが、どう見ても笑っている。
「・・・檀渓を飛ぶより、ですか、殿・・・」
「そ、そうだ!悪いか。今も怖くてたまらぬ。そなたを失ったらと思うと・・・心が土砂崩れを起こしそうだ」
なにが可笑しいのか分からないが、身体をくの字に折って笑い悶え始めた。
笑い転げる諸葛亮など滅多に見られるものではなくぽかんと見惚れていたのだが、はっと気づいた。
「だから、それどころではなかろう!怪我の具合を確かめなければ!」
「怪我は・・・さぁ、治ってしまったようです」
「ほ、本当か?だが、手がこんなに冷たい・・・」
ぎゅっと握ったのだが、諸葛亮の視線に気づいて赤くなった。
どさくさにまぎれて握ってしまったが、どうすればよいのか分からなくなった。
「私の手はたいてい冷たいのですよ、殿。まぁ、ここのところ眠っていなかったせいもありますが」
「多忙でか!?なんという・・・私のせいなのだな。そなたに政務を押し付けて・・・すまぬ、諸葛亮」
「殿のせいではありますが、政務は関係ありません」
「なに?」
「政務は、計算通りに進めております。計算できないのはむしろ―――」
「むしろ、なんだ」
きょとんとして聞いた。
「そなたに計算できないものがあるのか。初耳だな・・・なんだ?」
「・・・・・」
諸葛亮は、目を伏せて微笑んだ。
苦笑のような、あきらめたような・・・
微笑からつねの冷たさが消えているのに気づいて、どぎまぎしてしまう。
「しかし、怪我が消えるなどと、信じられぬ・・・!」
「そういうこともありましょう」
「そうか?」
「はい」
疑わしげに見るのだが、諸葛亮は微笑むばかりだ。
「しかし・・・」
息を大きく、吸い込んだ。胸がどきどき高鳴った。
「・・・今夜、同衾・・・するか。その、心配でならぬ」
なにか言いかけた諸葛亮は一瞬、黙り込んで、それから細く息を吐き出した。
「・・・良いですよ。ただこの分では私はすぐに、眠ってしまいますが」
数秒間、呼吸を止めた。べつに止めたわけではなが、何か知らぬが勝手に止まったのだ。
だから数秒後に呼吸を再開したときは、頭に血が上ってぼうっとしていた。
「よ、よし!ではすぐに寝所に・・・」
寝所といった途端、心臓がばくばく打った。
あまりに手が冷たかったので、寝所にはいってからもずっと握っていた。
宣言通り、諸葛亮はなにか糸が切れたがごとく、気を失うように寝入ってしまった。




じぃっと、見る。
少しやつれている・・・激務であろうから、無理もない。
それにしても、と劉備はひとりごちる。
怪我とはいったい、なんだったのだろう。
趙雲が間違えた?しかし趙雲が間違えることはあんまりないし、それに何をどう勘違いしたら血が流れる大怪我なんてことになるのか。
劉備はふと不安になった。諸葛亮が怪我を隠しているのではないか、と。
ありうる。諸葛亮ときたら強情もいいところで、苦しいときほど涼しげに笑っているし、本心がどこにあるかなんて、まるっきり明かさない。
怪我を隠しているのだとしたら・・・とんでもないことだ。
劉備は身を乗り出して、隣で寝ている軍師ににじり寄った。息がかかりそうなくらい近くで、自然と顔が赤らんだが、いやいや、やましいことなどない・・と自分にいいきかせた。
震えがくるほど深い理知を宿す双眸が閉じられていてさえ、容貌はどことなく厳しいものがある。眼のあたりの彫りが深く、陰影が濃い。そして近くで見ると、おどろくほど何もかもが整っている。
どきどきしながらまず額にさわってみる。熱は、ないようだ・・・
許せよ、諸葛亮・・!い、いかがわしい意味はないのだからなっ!
と内心で全力に弁解しつつ、そろそろと寝巻きの襟をくつろげる。ぎょっとするほど白いが、見たところ傷はない。それに、布を巻いて血止めをしていたりするような不自然なふくらみは見当たらない。
(う〜・・・ん)
やっぱり、趙雲の勘違いか。
勘違いなら、そのほうがいいのだろう。怪我など負ってないほうがいいに決まっている。
その時諸葛亮がかるく身じろいだので、劉備はびくっとした。
ばくばく跳ねる心臓を押さえて息を止めていると、諸葛亮は寝巻きの袖を上げて頬をかるくこすり、乾いた綿の感触に安堵したようにふ・・とかるく息を吐き出して、ころん、とまた寝入ってしまった。
「・・・・・・・・」
(か、可愛い・・・!)
劉備はひくくうめいた。
見ているあいだ息を止めっぱなしだったのではっきりいって苦しい。なんだか息の吸い方を忘れてしまったようで、しばらく布団の下で鼻をつまんだり深呼吸したりしたが、なかなか改善されず呼吸は苦しくて、しまいには気が遠くなった。
(わ、私は馬鹿なんじゃないか)
思いっきりじたばた暴れたいが、それもならぬ。
いいかげん寝たほうが良いのだが、久しぶりの同衾に浮わついている劉備に、睡魔はいっこうに訪れてくれない。
ちらっと隣を伺うと、夜着が大きく肌蹴ていて、思いっきりいかがわしい。
どうしよう・・・
どうするもこうするも、自分が乱したのだから、元に戻すしかない。
諸葛亮の眠りが異常に深いことは、三顧以降繰り返した同衾の時に知った。
寝つきはそれほど良くないのだが、一度寝入るとめったに起きず、寝息もほとんど立てないでひっそりと眠る。天地をゆるがすイビキを掻きながら眠る義兄弟たちとのあまりの違いに不安になり、当時はおそれもなく鼻をつまんでみたりしていたのだが、今考えれば無謀としかいいようがない。
ともあれ、そっとすれば、大丈夫・・・だろう、多分。
喉から飛び出そうな鼓動の音に眩暈すら感じながら、劉備は両手を伸ばした。
襟をそぅっと持って、元のように合わせる。
喉がいや白いところに真っ黒い髪がひと筋かかっていて、見るからにくすぐったそうである。指先で髪を慎重に払いのけてやったが、指が首を横切って触れたとたん、諸葛亮が身じろいだ。
ま、まさかまさかまさか・・・・・・・・・・・ここが、弱いとか?
「・・・ぅぐ」
劉備はうめいた。
禁断の考えである。諸葛亮は首が弱いのだぞ!趙雲!!!と大声で叫びたい。んなこと、できるわけないが。
い、いかん、寝よう。
自分の場所に帰りかけて、劉備はちらっともう1回だけ諸葛亮をみた。
よく、眠っている。ものすごくよく眠っている。
ごくり、と劉備の喉が鳴った。
許せ!諸葛亮!!い、いかがわしい意味は・・・・
ないわけないのだが、ないわけない!!
劉備は寵臣の首の付け根に、そぅ・・・っと唇を寄せた。
気がつくと、うすい膚にばっちりくっきり痕がついていた。
え!?
劉備は目を見開く。こそっと、ものすごくそぅっと吸ったはずなのに!?
諸葛亮の皮膚はものすごく吸い痕がつきやすいのだぞ!趙雲!!
と内心で叫び、そんなこと死んでも言えぬ、言ったらむしろ殺されると、劉備は気が遠くなった。
ばれたら、怒られる。ぜったい、激怒する。
諸葛亮の激怒は、怖い。きっとおそろしく静かに怒るのだろう。
あわあわと動揺した劉備は、しばらくするとはぁと息を吐いて、いかにも賢そうな白皙の額に、こつん、と自分の額を合わせた。
「すまない、諸葛亮・・・怒らないでくれ」
沈黙。静かな寝息があるばかりで、返答はない。
寝衣は直したが、胸から上に掛け布がかかっていないのが寒そうに見えて、劉備は自分も深く布団にもぐりこみ、寵臣の身体をこそっと抱き寄せた。
温かい。それにめちゃくちゃ幸せだ。
「す、好きだ、諸葛亮・・・」
布団の中でぼそっとつぶやいてみて、劉備は赤くなった。
「私はほんとうにそなたが好きなのだ」
温かさに安堵したのか、寵臣がことりと肩に頭をあずけてくる。
感動的なまでの幸福感に劉備がくらくらしているうちに、久方ぶりの同衾の夜は更けていった。

 







(2009/9/30)

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