50題―31.高嶺の花

 


「まだ、やるのか?」
 馬超は、頬杖をついた。
「勿論。夜はこれからではありませんか」
「―――」
 馬超は、長いため息をついた。

 外は雨である。そしてここは、宮城の一角。
 軍師将軍と平西将軍は、城に詰めていなければならない長雨の夜を、囲碁をして過ごしている。
 ちなみに現在の戦績は、0勝13敗である。
(どちらの13敗であるかは、想像に任せる)
 なんでこうなるか、と馬超は不思議でたまらない。
 雨は嫌いだが、この静けさは悪くないものだ。しとしとと弱く、あるいはざあざあと強く降りしきる雨音しか聞こえない。歩哨が交代する際の号令なども今夜は雨音にまぎれるのか、耳にはいってこない。
 雨と、雨音に閉ざされた密室にふたりきり。悪くない。――のに、どうして囲碁?(それも0勝13敗)
 夜なのだから二人きりなのだから密室なのだから、時間はもっと色気のあることに使いたいものだ、と馬超が思うのは当然の成り行きである。  


「俺が勝ったら、もう止めないか?」
「止めてどうするのです?」
「俺が勝ったら、貴公は俺の言うことをきくというのはどうだ」
「いいですよ」
「いいのか?」
「ええ。…私に勝てるものならば」

 軍師が微笑した。
 この軍師の黒眸は星のごとく、馬超をしてしばしば驚かせるほど麗しい。笑みともなればまた格別。

「よく言った。その言葉、忘れるなよ」

 まるで気のない打ち方をしていた馬超は、俄然その気になった。
 心持ち身を乗り出し、ただでさえ鋭い眼光をことさらに据わらせる。
 さいしょの碁石は、ビシリ、と気合のこもった音で置かれた。
 ふふんと余裕の笑みを返した軍師が悠長なしぐさで袖を払い、ぱちりと良い音をさせて石を置く。

 ぱちり、ビシッ、ぱちり、ビシッッ―――…
 雨の中、石の置かれる音が交互に響く。しかし戦況は変わらず軍師に有利なようである。

(こんなことならばジジイどもに布石のひとつも教わっておくのだったな)

 親族が多くて、ジジイも多かった。ジジイどもは囲碁が好きで、一日中でもやっていたものだ。
 馬超は必ず逃げ出していた。顔を合わせると説教の嵐になるからだ。



 ―――くそ。

 戦局は不利も不利。うなっても睨んでも碁石の色はくつがえらない。
 なかばやけになった馬超は、どうにでもなれとばかりに、いつもならば絶対置かないような場所に、碁石をたたきつけるように置いた。
 ビシリッ―――

「あ…」

 軍師の表情が変わってしまったのは、その瞬間である。
 あっけにとられたように碁盤を見つめ、戸惑ったように馬超の顔をうかがい、ずいぶん長い時間考え込んだ後、おそるおそる次の手を打った。

「む」

 つぎは馬超のうなる番だ。
 これは、勝てる。
 やけくそで置いた石は、流れをくつがえす妙手であったのだ。

 起死回生―――あまり語彙の多くない馬超の脳裏に、そんな言葉が浮かぶ。
 ついでに、豪奢な容貌に、ふ…と笑みが浮かんだ。
 軍師がじり…とたじろぐ気配がするが、戦況は一変、知略を誇る軍師をもってしてもくつがえすことは不可能。
 ついに勝敗は決し…馬超がさいごの一手を置いたとき、がたん、と向かいの椅子が揺れた。
 危急の表情で立ち上がった軍師のあと間を追って馬超も立ち上がる。
 はやばやと、まさに狼にあったウサギがごとくに逃げ出した軍師に数歩を待たずして追いつき、たやすく壁際に追い詰めた。
「俺の欲しいものは、分かるな?」
 高雅な脱兎は、もはや馬超の腕の内。
 おもえば長い道のりであった。出遭ってすでに三月もが過ぎようとしている。
 ここまで待ってやったことがかつてあっただろうか。いや、ない。さすればこの軍師は、なかなかに高嶺の花であったものだ。

 さてどうするか。
 
 宿直の室は狭く、寝台や長椅子のようなものはない。基盤を置いた卓も小さく、ちょっと役には立ちそうにない。
 初めての宵になるのだ。
 床で、というのは避けたほうがよかろう。

 では俺の室で―――か?
 武将として高い地位にある馬超は城内に広い私室を持っている。
 そこに連れ込むか…と考えるが、軍師と武将である二人が城に詰めているのは厳然とした軍務であるので、長時間 私室にこもっているわけにはいかない。
 短時間でさっさと済ませる、――というのはなんだか嫌だ。
 軍師は男は初めてであるのだから(孔明が初めてかどうかなど実のところ馬超が知り得るはずも無いのだが、馬超は何の疑問も持たずにそう信じている)、じっくりと時間をかけたほうが、よいだろう。

 馬超は珍しくも煩悶した。
 軍師はあきらかにおびえている。ここはちょっと強引に、それでいてやさしくあまい口づけなどひとつ落としておいて逃がしてやるのがかっこいいのだが、しかし馬超は最後までやりたくてたまらないのだ。
 だが状況が悪い。場所も、時間も…

 ままよ、と馬超は思考を放棄した。
 あれこれ考えるのは性に合わない。
 まずは本能に従う。あとはなんとでもなるだろう。
 囲碁の賭けによる約束が約束であるためにおびえきって声も出せない軍師に、馬超は顔を近づけた。じたばたと 小さく暴れる腰を強引に絡めとって引き寄せる。
 唇が触れんとしたまさにその時だった。

「孔明殿。雨音に乗じて夜盗のたぐいが徘徊していると民が訴え出てきました。征伐しますゆえ、出兵の許可を」

 ―――ひとりの武将が扉を開けたのは。

「―――…………」

 怨みと呪いを込めて馬超が顔を上げる。
 通りのよい低音は完全に聞き覚えのあるものだったが、それは軍師も同じだったのだろう。

「し、…子龍どの…!」

 いとも切なげな声音が将の字を呼び、ゆるんだ腕から想い人がこぼれ出る。
 つぎの瞬間には黒の文官衣は、武装束の逞しい胸に抱き取られていた。

「――平西将軍殿。このさまは、いったい」

 姓でも名でも字でもなくわざわざ官位で呼ぶのは、将が怒っている証拠だ。
 細身の文官を守るように隠すようにかばいながらの詰問に、馬鹿らしくて答える気にもならない馬超は、返答のかわりに鼻を鳴らす。

「…盗賊が暴れておるのだろう。さっさと行ってやれ」
「言われるまでもない。ところで貴公はどうされる」

 馬超はかるく笑った。
「あいにく、俺も、俺の馬も雨は好きではない」
 対する武将も、喉の奥で笑ったようだ。
「それこそあいにくですが、今夜城に詰めているのは貴公の兵だ。私は出るが、私の兵は城内の警備の任を解くわけにはいかぬゆえ、残す。となると貴公と、貴公の兵が出るしかあるまい」
「なんだと」
「無論、貴公の兵を私が指揮して動かしてもよいというならば別ですが。如何なさるか、平西将軍?」
 麾下の兵をこの男が動かす?
 冗談ではなかった。そんなことはできる相談ではない。

 ―――くそ。

 内心でつぶやくのは本日二度目だが、このたび起死回生はありそうもない。
 馬超は手早く具足をまとうと、扉の側で待つ将に歩み寄った。
 ようやく正気に戻ったらしい軍師が口を開いたのは、ふたりが肩を並べたそのときだった。

「私も、出ます。災厄に遭った民に状況を聞かねば」

「駄目だ」「駄目です」

 同時に言って、二人の将はちょっと目を見交わした。
 意見が合うのは金輪際はじめてのことだ。視線は瞬速に逸らされた。

 馬超は軍師の片方の肩を掴んだ。
「お前は、城にいろ。危ないだろう。お前が出ているとなると俺は気が気ではない。軍務にならん。邪魔だ」
 軍師は息を呑んだ。趙雲は軍師の片方の肩に手を置いた。
「貴方は、城にいなければなりませんよ。貴方が城にいなければ誰が指揮を取るのですか。物資の補給の必要があるかもしれませんし、情報に的確な判断を与えるのは軍師でなければできない」
 軍師は息をついた。
 そして、うなづいて端正な拱手をとった。
「では、城で控えております。くれぐれもお気をつけて」
 将ふたりの返答は、同時だった。
「うむ。お前は俺のことを案じておればいい」
「ええ。ですが、貴方は私のことなど案ぜずともよいですよ」

「……」
 返答に窮したらしく二人の顔を見比べながらどちらに向かっても返答をしなかった軍師を残して、将たちは外に出る。

「俺は、貴殿とはとことんまで気が合いそうもない」
「自明の理だ。私もそう思う」

 城外に出る折、趙雲はつけていた肩衣をはずし、部下に渡した。
 馬超は逆に部下から肩衣を受け取り、身につけた。

「雨だぞ、馬超。そんな邪魔なものをしていくのか」
「武人だからな、俺は」
 趙雲の問いに、当然のように馬超がこたえる。なぜそんなことを聞かれるのか皆目分からぬという調子で。
 趙雲は二度瞬いたが、雨にけぶる夜景を透かし見てつぶやいた。
「やはり貴殿とは気が合わぬな」
「なんだ?今更。さっきもそう言ったばかりだろうが」
「そうだったな」
「ふん。俺が詰めているときに現れるとは、不運な夜盗もあったものだ。――出るぞ」
 最後のひと声は部下に向かって言い、馬超が無造作に馬に飛び乗る。趙雲も乗った。
 調子を合わせたわけでもなんでもないが、ふたりが駆け出したのはまったく同時のことだった。






 

  
 


(2008/9/15)

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