50題―32.意外な一面

 


夜が更けていった。
成都の中枢、州の実務を一手に引き受ける軍師が篭る執務室。
卓に広げた地図をのぞきこむのは、君主である劉備と、軍師である諸葛孔明。ふたりの護衛である趙雲が扉に近い位置に控えている。

会話はとうに途切れ、室にはゆるんだ空気が漂う。
軍師は彫像のように微動だにせず、白皙の容貌も動かない。
卓に肘をついて軍師よりはくつろいだ格好をした劉備も、いささかの疲れを隠せない。
秘密裏に室にこもってから一刻がゆうに過ぎていた。
さいしょは真剣に、途中には冗談もまじえて意見を述べていた劉備だが、いったん言葉が切れてしまってからは次の句が見つけるのが難しくなった。
軍師が黙り込んでしまっていることに原因がある。
笑めばそれなりのやわらかさをかもす容貌がひとたび黙ると、厳しさが際立つ。
べつに劉備の意見に反対しているというわけではない。
ただ、考え込んでしまっている。
神算といわれる智謀の持ち主である。
その脳裏にいかなる光景が浮かんでいるのか、常人にははかりがたく、劉備でさえ手に負えない。
容姿が整っているだけに、黙り込んでしまわれると近寄りがたいものがある。
へたに声を掛けると張りつめた糸がぷつりと切れてしまいそうな緊迫感に、さしもの劉備も声を出せないでいる。
いささか行儀悪く頬杖をついた劉備は、こつこつと指先で卓をつっついた。
今夜、結論は出ないかもしれない。
いや、出さぬほうが良い。
深夜に思いついた考えは、時によっては危険なことが多い。


今夜はこれで仕舞いにしよう、と劉備が言いかけたそのときだった。
窓辺で、音がした。
馬のいななきだ。
ふと、軍師の表情が変化する。
趙雲が動くよりも早く軍師が動いた。
すっと窓辺によると、ためらいもなく窓を開ける。
よどんだ室の気を払って夜の風が通り抜ける。すこし欠けた月が、それでも見事に輝いていた。
「孔明!!まだ仕事か?いいかげんに―――」
ひらと馬から下りた長身がずかずかと窓に近寄り、夜をものともせぬ大声を出したが、途切れる。
これ以上ないほど間の悪い登場といえた。
室内の様子が視界に入った彼は目を丸くし、たっぷり数秒間黙り込んだあと、ぎくしゃくと拱手をした。
「――無礼をいたした、ご主君」
「―――」
劉備とて、なんと言ったらよいか分からぬ。普段の快活な軽口もなんとなく出てこず、ぎこちなく首をすくめる。
このときの劉備の心境といえば、軍師の反応が怖かったということに尽きる。
叱り飛ばすだろうか。それとも冷ややかに睨みつけるか。劉備の想像の中で最悪なのは、無視するというものだった。諸葛亮がするからには生半の無視ではなく、存在がないかのような完璧な無視だ。
想像してしまうと、自分がそうされるわけでもないのに胸が痛んだ。

軍師の反応は劉備の想像のどれにも当てはまらなかった。
肩より重々しく垂れる房飾りをさらりとひるがえし、劉備に向ってうやうやしく頭を垂れる。
諸葛亮にしかできない身のこなしであり、頭と身体の傾け方も、彼にしかできない角度である。
「…私の知慮が至らず、お時間を取らせました。明朝には必ず結論をご報告に行きますから、今夜はこれにて退室をお許しください」
「……」
退室もなにも、諸葛亮の部屋なのである。
出て行くならばふつう劉備のほうである。
ところが諸葛亮はそのまま身を翻し、ほんとうに出て行ってしまった。
扉のほうから。
驚いたのは劉備だけではない。趙雲も、それから窓の外の彼も、それはあっけに取られたような顔をしてその背を見送る。
いちばん早く正気に返ったのは、いちおう馬超だった。
馬が前足で土を掻いたのにはっとした彼は、劉備に向って不器用な拱手をすると、長身をひるがえして回廊のほうに走る。
しばらくすると遠くで、馬がいなないた。



劉備が地図を片付けた。
趙雲が窓をしめる。
灯かりの始末と戸締りは、諸葛亮の使っている従者を呼んでやらせた。
無言であったふたりだが、廊下の角を曲がったところで劉備が肩を震わせる。
「・・可笑しくは、ないか、趙雲」
やっと、声を出た。久しぶりにしゃべった気分だった。
ひとこと言葉を口に出すと、なにか急速に気分が晴れた。
「可笑しいよな。可笑しいぞ」
ぷぷぷっと吹き出す。いったん笑い出すと止まらなかった。夜中の城内なのだから大声で笑い出すわけにはいかないので、劉備は肩を震わせて忍び笑う。
「わたしは心配したのだぞ、諸葛亮が怒り出しはしないか、いや最悪無視すんじゃないかと。ところが、なあ・・・明日、どんな顔をして報告にくるんだかな。いやどうせあれは表情も変えずにやってくるんだろうけどな。なんだかな、明朝にはとてつもない妙案があの口から飛び出すのではないかと思わないか。誰も考え付かないような奇抜な策がな。わたしはそんな気がしてならないな」
屈託のない笑い声がひくくこだまする。つられて趙雲もすこし笑った。劉備の笑みが人の悪いものに変わるまでは。
「今夜は・・・・どう過ごすんだろうな、あの二人は」
むふふ、としか言いようのない主君の笑みに、趙雲は黙る。
かの降将を見るなり会談にけりをつけて退室してしまった軍師。謹厳な無表情は扉を出るときまでいささかの変化もなかったが、あの将には、違う顔を見せるのだろうか。
どうでもいいことのはずだった。劉備の言うとおり、軍師は明朝にはきっと名案を出すだろう。それでいい。
あの二人がどのような夜を過ごそうが・・・・
風が、吹き抜ける。劉備はまだ笑っている。
えたいの知れぬ胸苦しさがこみ上げて、趙雲は拳を握り締めた。

   
 










(2008/10/18)

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