趙諸(無双)/蜀

 


さらりさらりと端正な筆音がほのかに響く。
筆音に端正もなにもなかろうとおもうだろうけれど、そうとしか言い様がないのだから仕方がない。
遅滞なく、途切れなく。
一行を書き終えて次の行に進む間合いさえ常に一定である。
思い悩むとか滞らせるとか一切無関係な平静な表情と同じく、筆先もまた迷いなく滞りなくさらさらと進む。
かたりと小さな音が響くのは、書簡をひと巻き書き終えたとき。
墨が乾くまでの間書き終えた書簡は机の端に。また次の書簡が開かれる。筆がさらさらと滑る。開いた書簡で机がいっぱいになるとくるくると巻かれる。とん、とそれらは文箱に重ねられて。また、次の書簡が開かれるのだ。

明かりが揺らいで、諸葛亮は目を上げた。
火が揺れた原因はあきらかだった。灯皿を満たしていた油が無くなりかけている。それで、灯りはたよりなく揺れたのだ。
しかし諸葛亮はそこに幾百かの解けぬ謎がある様に灯り皿をじっと見た。室外に足音が響き、長身の武将が颯と飛び込んできたのは、そんな時だった。
「まだ、退庁していないのですか。明かりが漏れているからもしやとおもって来てみれば、これだ。なぜです、劉備様からあまり深夜に及ぶ過労は止せと咎められたばかりでしょう」
長身はキリと眉を顰めてみせた。
凛々しい蒼鎧を見て、軍師が言う。
「そう言われるあなたこそ、夜だというのにものものしいご格好ではありませんか」
「私は夜警の任務があるんです」
「ああ、成る程。―――ということは、若しかして現在の時刻は夜警の交代時間である[]の刻であるのですね?それでようやく分かりました」
「なにが分かったというのですか」
「どうして油の減りがこれほど早いのかと、不思議だったのです。現時刻が子の刻であるならば、謎はどこにもありません。私が時間の感覚をおかしくしていただけです。まだ日が暮れて間もないと思い込んでおりました。書を書くのに熱中しすぎていたようですね」
ひどく真面目な表情でのんきなことをのたまう軍師に部将は片頬をわずかに歪める。
「熱中もよろしいですが、ほどほどにしてください」
「どうしてですか」
――私が心配だからですよ。
と、ここで言えるほど部将は単純な性格ではない。
気になって気になって、仕方ないのです。
と、さらりといえるほど浅薄でもないので(たとえ絶好の機会だとしても)強引に話を切り上げる。
「ともかくももう執務は終えてお帰りください」
軍師は存外にはい、と素直に返答し、筆や巻き物を、片しはじめた。


「あなたのせいですよ」
そんなことを言われたのは、扉を開け放して押さえながら、部屋の中から外へと導くのに白い文官装束の肩を抱くのは自然なのか不自然なのか、真剣に吟味していたときだった。
(手を置くだけなら、自然じゃないか?)
「私のせい?いったい、なにが」
「いつも、日暮れになるとあなたが来て下さるから。わたしはそれを仕事を切り上げる時刻の目安にしていたのです。ところが今日は、来てくださいませんでしたから。それでわたしは時が経つのを忘れていたのです」
いま、なにか熱烈な告白をされなかったか。
趙雲は真剣に考えた。
熟慮の結果、当然の問いが導き出され、慎重な彼としても口に出さずにはいられなかった。
「―――軍師殿」
「はい」
「いまのお言葉からすると貴方は、―――いつも、私が来るのを待っている。ということですか」
「はい?」
意外なことに軍師は考え込んでしまい―――勢いにまかせて肩を抱いてしまおうと目論んだ部将の右手は行き場を失い宙に浮いた。
「あなたがくるのを時計代わりにしていたということは、あなたが来るまで仕事をやめないということですが・・それはあなたを待っていた、ということになるのでしょうか。そういわれてみればそんな気も致しますが―――いや、ここで結論を出すのは、早い。お待ちください、趙雲殿。もうすこし理論的に考えてみます。あなたの訪問と執務と時刻の間にある、因果関係について」
「・・・いや。結構です、軍師殿。理論的に考えてくださらなくとも結構です」
むしろ、情緒的に考えて欲しい。と趙雲は切実におもった。


「うーーん・・」
「考えなくともいいと言っているでしょう」
珍しく意気消沈した部将の顔を、軍師がのぞきこむ。
「どうも結論が出ませんねぇ。これはどうやら理論で片付けられる問題ではないようです」
そうでしょう。部将は内心でうなづく。
そうだとも。理論で片付けられてたまるものか。
「ひとつだけ、分かったことがあります」
「なんでしょうか」
趙雲は、なかばなげやりに答えていた。
この聡明な軍師に恋を伝えきることはもしや不可能なのではないのかと、忍耐強い彼をして疑い始めていた。
「あなたは、優しい人ですね」
言葉の意味と真意を考えるまえに、第二矢が放たれた。
「優しさが犯罪的なほどです。あ、ここで良いですよ。もうわたしの私室ですから。送ってくださってどうもありがとうございます。では、おやすみなさい、趙将軍」








鈍感な相手に恋を伝えたい5つのお題
02:優しくするとかどう?→→→犯罪的なくらいの優しさが効果的


(2008/5/5)

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