趙諸(無双)/蜀

 


「こういうのって、ヘビの生殺しっていわないかな?」

美麗な容貌をふてくさらせて趙雲はやや乱暴に酒盃を置いた。
「ほう?」
卓をはさんで正対していた馬超は、片方の眉を上げてみせた。
「軍師とおまえが、ヘビの―――ふぅむ、・・・」
珍しく真剣に考える様子である。
馬超がこんな話題に関心を持つはずもないと踏んでいた趙雲はすこしばかり見直す気になった。結構友達甲斐のある奴なんだな、と。
「まあ、あれだな」
「なんだ」
趙雲はこころもち身を乗り出す。
相談事には不向きな相手だということは分かりきっている。戦場での趨勢ならともかく、軍団の正軍師と一部将との間の心の機微など、馬超の首尾範囲外であることは明白。それでも期待してしまうのは、恋する男のあわれな条件反射なのだった。
「よい考えでも、あるのか?」
「うむ、・・・」
「じらすな、馬超」
趙雲は片足でだんと床を鳴らした。
「岱」
「は、従兄上」
何枚かの小皿に色よく盛り付けた肴を持ってきた従弟を彼は呼びとめた。
「こまこましたつまみは性に合わん。羊肉を炙ったのを持ってきてくれ。塩をよく利かせてくれよ」
「料理人に言ってみましょう」
「野菜などはいらんぞ」
「また従兄上は。好き嫌いは良くないと何度も申し上げているでしょう」
「ふん」
趙雲は礼儀正しく従兄弟間の会話が終わるのを、そして自分の問いに関する返答が帰ってくるのを待っていた。
しかし次の瞬間キレた。
「それで、だな。この男がヘビのナマ・・・うぅむナマの丸焼きとかなんとか言ってるんだが―――できればそれも用意してやってくれぬか。俺の趣味ではないがな。軍師もこいつも好きらしいのだ、ヘビが。まったくなんてものを好むんだ。理解できんわ」
趙雲は非常に忍耐強い性分である。冷静でもある。
そうでなければ馬邸の主の居間に置いてあるこの卓を、酒と肴ごと、脚で吹っ飛ばしていただろう。


「む、それではなにか。ヘビのナマゴロシとは、生きも死にもしない、半端な状態で放置されているということか。しかし、ヘビが獲物を放置するものか?さっさと食っているところしか知らぬがな。ああ?あ、そうか。人間がヘビを殺すときのいうのだと?ヘビは生命力がまなじっか強いから、なかなか死なぬから?そういうことか」
従弟との会話を終了させて、馬超はようやく趙雲に相対し、晴れやかにのたまった。
「おまえがヘビだったのだな。ヘビは執念深いともいうからな、似合いだぞ、趙雲。なにしろおまえとの調練ときたらねちこくてたまらん。爽やかな見てくれと正反対だな」
「喧嘩を売るならば買うぞ、馬超」
「それでは、軍師殿がカエルか」
趙雲はだん、と酒盃をおいた。
「なにを聞いている。あの人のどこがカエルか。おまえ、馬岱殿の説明を聞いてなかったな。ヘビを生殺しするのは、人間なんだ」
「あ、ああ。そうか・・・」
趙雲の剣幕に、馬超もやや驚いたようだった。しかしその口から出るのは、やはりロクでもないせりふだったが。
「おまえ、生殺しにされているのか、趙雲。全身キモのおまえをそんな目にあわせるなんて、どれだけ豪胆なんだ、あの軍師」
趙子龍、理性を一時放棄しかけた瞬間だった。






「字を呼ぶところまでこぎつけるのに、どれだけ時間がかかったと思う?」
趙雲のペースが速いと見るや、馬超は秘蔵だと酒盃を出してきた。西方異民族の宴会用だという大きくて深い杯に、なみなみ酒を満たして趙雲に勧める。
「だいたい、居間でふたりきりで酒を飲むに至るまでどれだけ苦労したとおもう。あの人は他人になかなか心を許さない。軍師という職務柄もあるだろうが、警戒心が強いんだ」
「ふむ。しかし、そういう者ほど一度心を許したら恐ろしく深くまで許すかもしれんぞ」
「夜の送り迎えだってそうだ。今では私が迎えに行かなければ、深夜までずっと仕事をやめない。私のことを時計代わりにしていると臆面もなく言うのだぞ、あの人は」
「結構なことではないか」
「ところが、私以外の者が行くと追い返すというのだ。仕事をやめぬ口実を穏やかにせつせつと訴えるらしい。知恵と口であの人に適うものなんかいるものか。任務で私が行けぬときは副官を使わすのだが、毎回うまく丸め込まれてまんまと追い返されている。仕事熱心な軍師をもって劉軍としては喜ばしいと言いたいところだが、ああも休みなしでは長くはもたない」
「趙雲、ちょっと待て」
「なんだ」
「するとなにか、軍師殿は、おまえが行かなければいつまでも仕事をやめぬ、と?おまえが行けばさっさと仕事をやめる、と?なんだそれは」
「なんだとは、何だ。それにさっさとではないぞ?なだめすかしてやっとやめさせるのだ」
「おまえ、さりげなくノロケておらんか?」
「のろけているさ」
開き直りやがったな、と馬超は大杯をぐいと干した。
「字で呼ぶのを許されている。これは私の知る限りご主君・・劉備様以外には、私だけだ」
「ふぅん」
劉備とデキているんじゃないのか?と、馬超は言いかけたが、やめておいた。自室での酒宴に乱闘さわぎが起きるのは面倒だ。
「武将として誰よりも頼りになる、と面と向かって言われた」
「それは、事実だからだろうな」
武将として趙雲より豪勇を誇るものはいる。では優秀さはどうかというと、これは他の追随を許さないところがある。
卓越した武勇に加えて頭がよく冷静、状況判断の的確さ。
そのあたりは趙雲も自負している。信頼されているという自覚もある。
だが、それは当然のことながらあくまで軍師と武将としての関係にとどまっている。
夜、仕事を終えさせるために執務の部屋をおとなう。自室まで送り届ける。そのさい、すこしだけ酒を飲む。
数少ない休日まで書物にかじりつこうとするのを強引に連れ出し、野外を遊山させる。
間近で、身長差ゆえ少しだけ見おろす清雅な美貌。いつでも、ほんのすこし手を伸ばせば肩を抱ける位置。髪も手も顔も、一歩だけ踏み出せば触れられる―――
よく理性がもっているものだ。趙雲は自身を誉めてやりたい。
「押し倒してみたら、どうだ?」
かちゃん、と杯は倒れたが、幸い飲み干されていたので、中身はこぼれずにすんだ。向かいから馬超が手を伸ばし、それを元に戻した。
「押して駄目なら押してみろ。それが馬家の家訓だ。俺はいつでもそうしているぞ」
「偉そうに言うな」
趙雲は卓に肘をついた。
「・・・優しさが犯罪的、とはどういう意味なのだろう」
「ああ?」
「あの人にそう言われたのだ」
「それは、優しすぎるということではないでしょうか」
答えたのは馬岱だった。
手にした大皿では羊肉が湯気をたてている。料理法はどうやら塩茹でらしい。塊肉を炙り焼きにするのは時間がかかるから無理もない。
「私は、人が言うほど優しい人間ではないのだが」
趙雲は息を吐く。優しいとか誠実だとか、たまに言われる。それは間違いである。自身がひどく我がままで身勝手な一面を持っていることを趙雲は自覚している。
馬岱が注いでくれた酒を、趙雲は一息に飲み干した。
「私は優しいとか誠実だとか言われることがあるが、そうでもない。それは自分がよく分かっている。本当は自我の強い自侭な人間だ。しかし、あの人に対しては何処までも優しく、誠実でありたいと思っている」
「――――」
「――――」
唇についた雫を指先でぬぐっていると、静寂が落ちていることに気づいた。
馬家の従兄弟は、そろって度肝を抜かれたという顔で沈黙していた。
「―――聞いたか」
やがて馬超がうなるように言った。
「―――聞きましたとも」
馬岱が答える。
「趙雲、おまえ、やはり押し倒せ。それしかない。大丈夫だ、俺が保証してやるぞ。おまえの思いが通じない筈はない。なにしろ俺はこれほど感動したのは久しぶりだ。なんなら俺が軍師殿を押さえつけていてやっても良いぞ。俺はなんとしてもおまえの思いを遂げさせたくなった」
「いいえ、押し倒してはなりませんよ趙雲殿。従兄上の保証など戦場ではもちろん恋愛上ではクソの役にも立ちません。ああ、でもわたしも感動いたしました。つか、それやったら犯罪です従兄上。押して駄目ならば引いてみるのです、趙雲殿」
ぐっと身を乗り出す二人に、馬家の、西涼の男の友情とは暑苦しいものだな、と北方生まれの趙雲は閉口した。
しかし怒涛の勢いで発される言葉がまったく琴線に触れないでもない。
「それは一理あるかもしれないな・・」
「そうか。良し、決行はいつにする!?軍師が逃げ出さぬよう網を張らねばならんな。人払いも入念にせねば」
「―――なんの、話だ。馬超!?」
「無論、俺とおまえで軍師殿を犯す話―――」
顔面を狙った趙雲の拳が到達する前に、馬超は卓の下に沈んだ。
趙雲の拳よりも一瞬だけはやく馬岱の手刀がみぞおちを強打したからである。
馬岱の手の早いこと、まるで雷光のようであった。あらためて彼の実力を見直したが、なんとしても自分の手で床に沈めたかった趙雲は、無念であった。


無念を押し殺して、卓に戻る。何事もなかったように馬岱が羊肉を勧めてくる。
「押して駄目ならば、引いてみろ、と仰いましたか、馬岱殿」
「言いましたとも、趙雲殿」
趙雲は心ここにあらずという風情で大きな塊を手に取り、噛り付いた。
「しかしひとつ問題があるような気がするのだが・・・」
「なんでしょうか、趙雲殿」
「押しても気付かない鈍感な人が、引いて、気付くでしょうか」
「―――――ああ、見事な食べっぷりです。惚れ惚れします、趙雲殿」
馬家の年若い美青年はにっこり笑った。

「ああ、こうしましょう、趙雲殿!」
「・・・・・なにか」
趙雲の声は、低い。黙々と肉を咀嚼している。ぜひとも答えを聞きたかった難解な問いを見事にはぐらかされた恨みゆえの暗雲をはらんだ声と態度を、馬岱が気に留めている様子はない。
「従兄上に軍師殿を襲わせるのです!!さっきの態度を見たでしょう。あれは本気です。いや我が従兄はいつも本気も本気ですけどね。ひと気のないところで従兄上に軍師を襲わせる。衣は乱れ冠は飛び地面に押さえつけられてもがく軍師殿・・・まさに貞操の危機です。白い足なんかが衣の裾から覗いているかもしれません。そこに従兄上の手が強引に這い、徐々に上に上がっていく・・・絶体絶命です。いかに冷静沈着な軍師殿といえど、ご狼狽されるに相違ありません。助けを呼ばれるでしょう。従兄上はもちろんそこで口を塞ぐわけです。口に口を重ねて・・・ではあとが怖いので手に致しましょう。叫ぶ口を手で押さえて、ここでセリフを。『叫んでも誰も来ないぞ』、と」
趙雲は、無言だった。
「このあたりでしょうね、趙雲殿が白馬に乗って通りかかるのは。黒でも茶でも良さそうなものですが正統はなんといっても白馬でありましょう。あ、たしか普段からご乗馬は白馬でしたよね。まさに御あつらえ向きです、流石は趙雲殿です」
趙雲はまだ無言だった。手は、静かに羊肉を皿に戻していた。卓に置かれていた布巾で、手についた肉汁を綺麗にぬぐった。
「衣の裾が左右に押し開かれ、片足に手がかかります。『あ・・嫌・・っ』『知らぬのか?暴れるほど男をその気にさせるのだぞ』などの応酬が。趙雲殿は、馬を飛び降りられる。間違っても落馬して転んだりなされてはなりません。キメせりふはクサいほうが効果的です。まずは『軍師に何をする!趙子龍が相手だ』――」
「言い残すことは、ないか」
抜き身の直槍を喉に突きつけられた馬岱は、両手を挙げた。
「・・・殺さないでくださいね」
「甘いことを」
「いえ、わたしのことではなくて。従兄上のことを」
「保証はできないな。いまの戯言がたとえひとつでも事実になれば」
趙雲はぐいと白刃を喉に押し付けた。どこまで面の皮が厚いものか、馬岱はその体勢でなおゆるやかな笑みを浮かべてみせた。
「事実には、なりません。軍師殿のおそばにはひどく優秀な護衛の方がついておられますから。・・・そうでしょう?」
あからさまな追従を鼻を鳴らすことで聞き捨てて趙雲は槍を持ち替え、空いた利き手で馬岱を一発殴りつけた。










「さいきん、趙雲殿はよくこちらにいらっしゃるようですが・・・どうか為さいましたか」
黒い麗眸がそっと細まって、清雅の笑みを形づくる。
趙雲もまた凛々しく微笑んだ。
「軍師殿のご身辺を狙う不逞のやからがいる、との情報を耳にはいったもので。ああ、私自身が手を下して災いの芽は摘んでおきましたから、軍師殿のご心配には及びません。こうしておそばにいるのは、・・・そうですね、保険のようなものです」
「心配などしておりませんよ。なにしろわたしの護衛に付いて下さっている武将ときたら、この上なく有能な方ですのでね」
精悍な容貌を趙雲は困ったようにしかめる。
信頼はうれしい。だけどすこし重い。甘くもあり、ほろ苦くもある重さだ。

「そういえば、最近、馬超殿とその従弟君を、お見かけしないのですけど」
羽扇の横に、端麗な容貌。
「ヘビに襲われたとかで、謹慎中です。心配ありません。軍務をおろそかにするようでしたら、私が引きずり出しますから」
「それは頼もしい」
趙雲は穏やかに微笑した。
押して駄目なら押してみる・・・は、論外。
押して駄目なら引いてみる・・・は、駄目だ。そんな余裕がない。
引いているうちにこの人に何かあったらと、いても立ってもいられないだろう。らしくないとは思うのだが。
恋愛は惚れたほうが負け、とはよく言ったものだ。
趙雲は手をすこし伸ばせば届く位置にある肩と髪を目の端に入れながら、軍師に気付かれぬように嘆息した。








鈍感な相手に恋を伝えたい5つのお題
03:押してみて引いてみる ←←←引く余裕があればね


思いが余って暴走してしまうのも好きですが、一段一段のぼっていくようなのもたまにはいいです。
ともあれこれを読んでくださった方は、十人中8、9人までが馬従兄弟が出張りすぎだと思われることでしょう。わたしもそう思います。
   

(2008/5/11)

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