趙諸(無双)/蜀

 


ほのしろい手が、酒甕をとりあげる。
切れの長い漆黒の双眸に、ながい睫毛が翳を落とす。夜も更けた時刻であるせいか、常には厳粛なほど乱れなく結わえられた黒髪がすこしだけほつれ、しろい頬にひとすじふたすじ線を描いている。
彼が着ているあわい…これ以上はないほど淡いうすみどりの衣の袖から、白磁の手がそっと差し出されて、しずかに酒が注がれる。
文官の衣は不便が多いのだろうな、と趙雲はおもう。
そのかわりに、えもいわれぬ風情があることも確かだ。
酒を注ぐさい、あわい色の衣から覗く繊手が片方の袂を押さえている所作のなまめかしさは、同じような衣を着ていても、武具を扱う邪魔にならぬよう袖を紐でくくりつけてしまう武官にはけして見られない。
無論、誰が着ても高雅、誰がしても清雅というわけではないのだろうが…。
「あぁ…」
吐きだされるためいきが、夜に漂う。
ほっと息をつき、あとにほのかに微笑が浮かび…
わずかに震えた瞼が、ゆっくりと閉ざされた。
底知れぬ叡智をやどした眸がまぶたに隠れると、ほのぼのと酒精をのぼらせた白面は、もろい花びらのように儚い。
「すこし…酔ったようです…」
つぶやきに対して趙雲は、そうですか、とちいさくいらえる。
酔うために来たのだろうということは、さいしょから見当がついている。
夜の浅い時間に発した、なにかありましたか、という問いはうすい微笑にはぐらかされた。
なにか胸につかえているときほど、この人はなにも言わなくなる。
軍師としての習性なのか、それとももともとの性分なのか、分かりかねるが…


今夜は趙雲の邸で飲んでいる。
本当はというと、私邸に他人を入れるのはいやなのだ。
苦手なのだといってもいい。
どうとでもない相手ならばどうとでもなる。
どうとでもなくない相手の場合は、なかなかに困る。
趙雲のことを、たいていの人間が人当たりの良い男だという。武勇の誉れに似合わず、公正で沈着であると。
自分の性分がかならずしも世評通りでないことを趙雲は知っている。
本来の我の強さを、すくなからぬ自制によって押さえている。
趙雲の自制は、融通の利かぬほど強固である。……のであるが、己の私邸で、己の私室で、想い人に酔われてしまうと、さしもの自制心が揺らぎそうになる。
奪いたくなるのだ。
それは体のことでもあるし、そうでもないものでもある。
性急に体を求めたいわけではない。
しかしながら体の触れ合いがもたらす効果というものも、軽視できないとおもっている。
要するに趙雲は、こうして向かい合っていながら心中の一端も覗かせない、酔っているといって無防備に目を閉じ、そのくせ少しの乱れも見せようとしない相手との、透明であっても鉄壁ともみえる隔てを、壊したい。
「なにか、考えておられますか」
気づくと、ふわりと目をほそめた白面が此の方をみている。
わずかな間をおいて、趙雲は答えた。
「貴方のことですよ。軍師殿」
当然でしょう、というような挑発をこめて。
「それはそれは………どのようなことでしょうか」
すこし驚いた。
乗ってくるつもりか。はぐらかされるものと思っていた。
趙雲はいちど酒杯に目を落としたが、軽く息を吸い込んで目を上げ、艶やかに微笑んだ。
「そろそろ私のものになってくださればいいのに、と思いまして」
「…あなたの、ものに…!?」
軍師があんまり吃驚した顔をするから、趙雲も吃驚した。
「それほど驚くことですか?」
「あなたの…、如何なる意味で…」
「如何なる、と言われても。お分かりになりませんか。…孔明殿」
いやな間があった。
酒精をのぼらせてほのぼのと潤んでいた軍師の瞳が、キラリと知性を宿す。
些かの罪も赦さない、それはそれは恐ろしい、黒曜石で出来た刃のような視線だった。
「趙雲殿。…天下を、狙っておられますか。玄徳様が三顧までされて私を求めてくださったように。あなたも、私を…」
「、、違います!!」
血相を変えて趙雲は立ち上がった。何か言わんと口を開いたものの絶句してしまい、どさりと椅子に腰を落とす。しばし天井を睨んだ。なんの変哲もない木目が、とんでもない迷路に見えていた。

「…話を整理しましょう、軍師殿」
「はい」
呆然と天井を見上げていた趙雲は渾身の努力で我に返り、真剣な顔で切り出した。
神妙に頷く軍師を確認して、趙雲は語りだす。
「私は天下など狙っておりませんし、無論、劉備様を裏切ったりするような気持ちは微塵たりとも持ち合わせていません。それは、宜しいですか?」
「…はい」
趙雲は噛んで含めるような言い方をしたし、軍師もまたゆっくりと咀嚼するように趙雲の言を聞き、静かに、しかしはっきりと頷いたので、趙雲は安堵した。
「それにしてもなんて発想をするんです。私が天下などと、少し考えてもあり得ないでしょう」
「思い出したものですから。玄徳様も、仰ってくださった。諸葛亮よ、そなたが欲しいのだ、と」
「あなたの知略のことでしょう。それは、欲しいに決まっています」
「今でも玄徳様がそうおもっていて下さると良いのですが…。それはそれとして、それでは…」
切れの長い瞳が、ちらりと趙雲をうかがう。
――では、…あなたは?
そんな声を聞いた錯覚をして、趙雲はうろたえる。
「私も、あなたが欲しいのです。もちろん殿とは違う意味で…」
「……」
まるで得体の知れぬものを見るような目で見られて、趙雲は顔をしかめた。
だから、それはどういう意味で?と、声なき声に詰問された気がした。
「私の気持ちなど、とうに気付いているでしょう?」
「あなたの…気持ち………」
深刻な表情で考え込まれてしまったので、呆然としてしまった。
「私はあなたが、好きなのです。そんなことは、とうに…知っているでしょうに」
語尾がだんだん小さくなった。あまりにも相手が驚いた顔をしたので。
「――気付いてなかったのですか…!?」
あれほどあからさまな態度に示していたのに?
だれよりも聡いこの人が?
「それは、少しは、その、そうかもしれない…と思うこともない訳ではありませんでしたが…」
なにしろ言葉で言われたわけでは、ありませんでしたので…

迷路は、まだ終わってないらしかった。












鈍感な相手に恋を伝えたい5つのお題
04:言葉で伝えるのを忘れてはいけないよ? ←←←…しまった。まだ言ってなかったか!?



(2008/8/31)

≪ 一覧に戻る