相思5 趙孔(私設)

 


背後からの気配に気付かなかったのが第一の失敗だった。
考え事をしていたのが油断だったかもしれないが、目が覚めているあいだ考え事をしていないことはあまりない。
気配を察すると同時に右手を翻したが、固い音がして弾き飛ばされる。手首が痺れ、一撃を繰り出すはずだった羽扇は空を切って飛び、手すりの向こう側に落ちていった。
斬りつけられるのかと反射的に身をしずめて身構えたが、横合いから突き飛ばされる。意表をつかれ、無様にも飛んでしまった。背中から倒れこんだ先は地面で、衝撃のため目がくらみでもしたのか、先程まで立っていた回廊がはるか遠くに霞んでみえた。
斬るのではなくのしかかってきたので首でも絞めるかと思ったのだが、衣の襟に手が掛かって左右に押し開かれた。
…趣味の悪いことだ。
おまけに、頭が悪い。
怒りが沸騰しそうになって、拳を握り締める。だがそれも一瞬のことで、手を地面におろした。
善後策を考えた。
襲われたのが奥宮の中庭というのは、良いことが悪いことか。――どちらともいえない。
武官か。身奇麗な、二の腕をむきだしにした武装束を着ている。ずいぶんと必死の表情をしているが、顔立ち粗野ではない。
奥宮という場所が場所だけに雑兵ではないだろう。かといって見覚えがないから将校クラスではないとおもうが、それも確かにはわからない。実は兵の中では名のあるものなのかもしれない。優秀な頭脳だと他者からはいわれるが、その実、興味のないことには全くといっていいほど反応しないのだ。このことがあまり知られていないのはおそらく、興味をいだく対象と範囲が常人より少しばかり広くて深いからだろう。
武官とか武人とかいう存在にまったく興味がないわけではない。職務からいうと非常に重要な存在である。だが、好きではない。
そう。好きではないのだ。
物理的に腕力の強いという意味で強いもののなかで頭の悪いものは、壊すしかできない。奪うしかできない。ちょうどこの男のように。
かつて、兵とは、武将とは、全員が全員とも壊すしかできない、奪うしかできないものだと認識していた。
幼少より連綿とつづく記憶と経験が、兵とは、壊し、焼き、奪うものだという認識が烙印のごとく焼け付けられていた。
そうではない武将の話を噂として聞いても現実感はかんじなかったものだ。
武将とは壊し奪うこともできるが、守りはぐくむこともできる、と実感として思えたのは劉備と遭ってからだ。
劉備も驚異であったが、その周りに集う武将たちにも驚いた。劉備は間違っても文人ではないが、戦闘力という点ではいささか線が細い。だが取り巻くものたちは武将の中の武将ともいうべき豪傑で、その武人たちのありようが、認識をくつがえすものだった。
理想と信念と志、そして慈愛さえ持つ武人が存在するということはひどく新鮮な驚きで、はからずとも彼らを好きになった。口にも態度にも出したことはないが、尊敬している。
壊すこと奪うことも安易さにくらべて、造ること守ることのなんと困難なことか。
難しくも面倒であるはずのそれを、強面の漢たちは疑問もなくおこなっている。強いものが弱いものを虐げないことだけでも稀であるのに、できる限り民を守護しようという姿勢は稀有といっていい…。

いやな音がして布が裂けた。
華美は好まないが、一国を領有する君主の側近の立場ゆえそれなりに重厚な衣をかさねている。
粗野な男が、文官服の上品な肌蹴けかたなど知ろうはずもない。
諸葛亮は目を半眼にした。
目を開けていればいやでも顔が目に入ろうし、開けていれば感覚が鋭くなりすぎて嫌だ。
国の中枢に位置する軍師を陵辱して、この男はこの後どうするつもりなのだろう。奥宮の内部にはいれるのだから一般兵ではないとして、もはや軍内にはいられまい。出奔するつもりか。
動機はなにか。
冷酷だと評される己の軍略に不満を持っての凶行か。冷厳だと非難の多い瑣末な犯罪にまで厳しい法律に対する反発か。その線で考えると、果たしてこの男の単独行なのかという疑いがわく。
諸葛亮には敵が多い。自国の中にも諸葛亮の政策に不平をもつもの、軍略に不安をいだくものはいくらでもいる。そのなかの強硬派の誰かが奥宮を警護する兵を雇ったとも考えられる。なんのために?それはいくつか考えられる。単なる腹いせ、嫌がらせ。或いは弱みを握るためか。
下劣だ。どうしようもなく。
だがそれなら、襲った者がひとりだということがすこし解せない。確実を期すなら、数人は用意するのではないだろうか。
それともまさか。別の意味があるのだろうか。まさか、たとえば、この男は己に道ならぬ恋情を抱いて、やむにやまれぬ激情にかられて城の茂みに引きずり込むという愚挙に出たとか。
それは妙な発想で、諸葛亮をしてしばし考えさせた。
なぜそんなことを思いついたのか。
破られた衣の内側を這う手の存在を忘れたいがためか。しかし諸葛亮は既に一切の感覚を意識的に遮断している。なにも感じないよう、意識を奥へ奥へと沈み込ませているのだ。覚醒しているのは脳のはるか奥側の一片だけで、そこで善後策を含めて思考している。
男が男に対していだく恋情。
なにかが琴線に触れて諸葛亮は眉をひそめた。
自分にとって最も遠い部類に分類されるたぐいの事象であるはずだが、なぜにこう気になるのか。
すこし混乱する。混乱に乗じて沈め込んでいた意識が不用意に浮かび上がり、諸葛亮はふと現実を認識してしまった。
太い手が裾を割ろうとしている。もう片方の手は口を塞いでいる。ふいに鳥肌が立った。
現実と、脳裏の奥で考えていた虚構が交じり合う。いままさに陵辱を加んとする男の吐く荒い息にまじって隆中の庵を訪れた劉備の顔が浮かび、その周りをかためる猛者たちの顔ぶれがみえる。そのなかでひときわあざやかにひとつの面影が浮かんだ。誠実でいて、鮮やかな眼差し。穏やかなことも多いが縫い止める様な鋭い眼光を向けられることもある。危険に対して不用意な行動は容赦なく咎められる。有能な護衛であるのだ。厳しいが、笑顔は優しい。声は、落ち着いていて颯々としていて時折、ほんとうに時々、…甘くなる。
短い悲鳴を上げた。無意識にせりでた悲鳴は自分でも意外なほど突然で止めようがなかった。口を塞がれているのでたいした音にはならなかったが、男を逆上させるだけのものではあったらしい。
諸葛亮は冷ややかな視線で男を睨んだ。男がカッと顔を歪ませて手を振り上げたその時、茂みが大きく動き、裂帛の気合とともに蒼風が吹き荒れた。
たった一撃。
背後からの爆風を全身に浴びた男の身体は壊れた人形のように吹き飛び、地面に倒れ伏す。

視線が突き刺さるようだった。
鬼神そのもののような荒い表情は、乱れた衣服をたどってなおさら険しく引き締まる。
しばらくして手を差し出されたときは、殴られるのかとおもったくらい、表情もしぐさも荒々しい。
助け起こされて、諸葛亮は支えてくれている長身を振り仰ぐ。
「…趙雲殿。もしかして背後があるかもしれません。できれば吐かせてください」
「もう死んでおります」
武将は、振り返りもしなかった。










抵抗しなかったためか衣服の損傷はさほどひどくなかったが、そのままにしておけるものでもない。
私室は近かった。
宮城の内部の奥深くであるためにかえって警備はなく、人目がない。出会ったとしても夜目には衣服の乱れはさほど目立たないだろうが、誰とも出会わずに私室に帰ることができたのは幸甚だった。
着替えてきますから、と小さく言って衝立の向こうに消えようとする肩を、趙雲は掴んだ。
「抵抗しなかったのは、なぜですか」
手すりの脇に白いものが落ちているのに気付いたのは、ほんの偶然だった。目に留めてみればその白羽扇を見誤ろうはずないが、日も暮れた頃のことだ。見逃したとしても何の不思議もない。
「なぜ叫ばなかったのですか」
羽扇を拾い上げたものの、あたりは静かだった。
その静かさにぞっとした。
何かが起こった…起こっているのに間違いがないのに、何事もないようなあたりの静けさに心臓が凍りついた。
憑かれたようにあたりを見回し、離れた茂みから短い悲鳴が聞こえたのはちょうどそのときだった。
聞けば、諸葛亮が声を上げたのはそのときが最初で最後だという。
聞き落としていたら…と思うと身体中の血が逆流しそうだ。
「なぜ叫ばなかったですか!声を上げていれば、もっと早く」
気付いただろうに。

あざがつくほど強く掴んでいるにも関わらず、諸葛亮は眉ひとつう動かさない。
「…ひと息に殺さんとされたなら、恥もなく死に物狂いで抵抗したでしょうね。ですがどうやらあの方はまず乱暴をすることが目的だったようですから。隙を見ておりました。暴れて手足を折られたりしてはどうしようもない。そうまでしなくても縛られでもしたら、反撃の機会はないでしょう」
「機会とは、いつのことです?」
押し殺した声で趙雲は言う。聞かなくても答えは分かったし、現に諸葛亮が答えたのはまさにそういうことだった。
「乱暴が終わったその時、です。あなたも男ならば分かるでしょう。非力な文官に反撃の機会があるとしたら、おそらくその瞬間だけです」
理屈は分かる。諸葛亮は男が果てた時、行動を起こすつもりだったのだ。
容赦はないだろう。喉を切り裂くくらいならば、竹や木の書簡の添削するために文官が持つ小刀で事が足りる。
だから、無抵抗で時を待っていた。理屈は分かるのだ、が。
納得できるわけもなく、趙雲は拳を握り締めた。
「では…あなたに心を懸ける男は、一度だけならば無抵抗のあなたを抱けるということですか」
「ええ…いえ。いえ、…そういうことにはなりません。現に私は耐えられなくなった。私は…ほんとうに耐えられそうになかったのです」
諸葛亮はくるしげに眉を寄せた。怜悧な表情がくずれて、趙雲の怒りを揺らがせた。
「孔明、殿」
責めたのは只のやつあたりだ。軍師に過失があるはずもない。
「…着替えてきます」
沈んだ声で言って、諸葛亮は衝立の向こう側に消えた。





着替えは必要以上にながい時間をかけて行われ、趙雲はある程度気持ちの整理をつけることができたが、諸葛亮の表情は物憂い。
憂鬱というよりはなにかに心を奪われているようで、しばらくはじっと様子を見ている趙雲の視線に反応がない。諸葛亮はゆっくりとした動きで乾いた布を水差しの水で湿らせ、顔や手についた泥を落としはじめた。
神経質な感じがするほど丁寧にぬぐい取っていくのが諸葛亮らしかったが、白い容貌にいつもの鋭さは戻ってこない。
趙雲は無言で立ち上げると布を譲り受け、諸葛亮のうしろに回った。
奇妙な表情をする諸葛亮を無視して、髪についた埃をはらってゆく。髪に触れると、諸葛亮は身じろいだ。振り払うことはなかったが、落ち着かない様子で背後の気配に神経を集めているのがわかった。
「人に髪を触られるのは、お嫌な性質でしたか」
「いえ。…たしかにあまり人に梳いてもらうことはありませんが。そうではなく、…おそらく、相手があなただということが問題なのだとおもわれます」
「――私に、触れられるのはそれほど嫌ですか…!」
趙雲は手巾を卓にたたきつけた。
凄い音がして卓が揺れ諸葛亮は趙雲を振り仰ぐ。
「嫌ではありません。落ち着かないのです。それは私が…」
言葉は途切れ、途方にくれたようなため息がもれた。
「…なんと、いいましょうか」
こめかみを押さえる。
考えるのが仕事のような人だが、これほど懊悩した様子の諸葛亮は珍しい。趙雲は息を吐いた。
「疲れているのですね」
「…ええ。考えても、結論が…出てこない。私としたことが、これはいったい」
「なにを考えているのです」
言下に、もう考えずに今夜はもう休むといいという意味を込めて趙雲は言ったのだが、
「私は、どうして今夜あんなに動揺したんでしょうか」
趙雲はあきれた。
「動揺しないほうがおかしいと思いますが」
「いいえ。私は動揺しないと思いますよ。ほかの方のことはよく分かりませんが。私は…しかし」
諸葛亮は半眼に目を伏せる。
「しかし、動揺したのですか」
「…動揺したのですよ、これが」
「それが当たり前のことです」
「いいえ?私は完璧にやり過ごせると、自分を分析しておりました。すくなくとも途中までは何も感じておりませんでしたよ。ところが途中で…」
白い指がすいと上がって、額を押さえる。
「あらぬことを考えてしまって。いや、考えるという能動的なものではなく、もっと受動的な…そう、思いついたというほうが適切でしょうが…、わたしはあなたのことを思いついてしまったのです」
「え?」
まわりくどい文官の言い草に適当に相槌を打っていた趙雲は動きを止めた。
「ええ。あなたのことです」
「…、…護衛として助けを求めたということですか」
声がすこし喉にからんだ。
「護衛。いえ。とくに助けを求めたわけではありませんでした。ただ浮かんだだけです。あなたの表情や、眼差しや。しぐさ。それから声も…ですね。そうしたら、不思議やことになんだか嫌になってしまって。あなたのことを思いつくまでは不快ではあっても耐えられると思った狼藉が、耐えられなくなりそうになりまして、私としたことがずいぶんと動揺してしまったものです」
最後はまるで人ごとのように言って、諸葛亮は考え深げに目を細める。
「不思議な心の動きです。我が心情ながら、なかなか計りがたい。お待ちください。すこし、論理的に考えてみますから」
「軍師殿」
「はい?」
「論理的に考えなくていいです」
「なぜ?」


なぜ。
たとえ子どもでも10をすこし過ぎていたら、そんな問いは発しないと思われた。
文官装束を脱いだ諸葛亮はゆったりとした部屋着をまとっていた。潔癖な白で、襟や袖にごく淡い銀糸で刺繍が刺してある。泥と埃を落とした姿は美しかった。
趙雲は真剣な表情で、その肩にそっと手を置いた。
「…お嫌でしたか。見知らぬ男の狼藉にあうのは」
諸葛亮はすこし考えて、ふかく息をついた。
「…嫌、でしたね…本当に。…本当に、…嫌でした」
沈着な声が、わずかに揺らぐ。
「では、わたしがこうするのは…?」
そっと、ほんとうにそっと、頬に手を添える趙雲の声も、揺らいでいた。
趙雲の言葉の意味をさぐるように視線を上げた軍師は、言葉の意味をそのままのかたちで考えるように、目を閉じた。
「嫌では、ありませんね…」
不思議なことに。
吐息だけで答える。
「軍師殿。考えないで答えてください」
「…は、い」
「…嫌ですか?」
頬におかれていた手で顔の稜線をなぞって、もう片方の手で、そっと…背に沿わせた。
「いえ…」
趙雲は静かに、力を込めて抱きしめた。
「私が好きですか」
されるままになりながら、諸葛亮はすっと、目を閉じたまま眉を寄せた。
生真面目な表情がいかにも沈思黙考するというような感じで、考えるなと言ったのにと、趙雲はおもったが、そのしぐさがいかにも諸葛亮らしかったので苦笑しかける。
次の言葉を聞くまでは。
「…はい」
吃驚した。声を上げなかったのが不思議なくらいだ。その言葉が先の問いに対する答えだということを理解するのに、しばしの間を必要とした。
「…本当、ですか?」
つい疑ったような声を出してしまったのは、無理からぬことだ。あんまり意外で、思いがけなかったので。
諸葛亮は苦悩するように指で額を押さえた。
「考えて、よいですか?」
「は?」
「…あなたが考えるなと言うから、考えないように必死なのです。ですがそんなことを聞かれると、ああ…考えてしまいそうだ…」
「考えなくていいです」
趙雲は慌てて言った。
「考えなくてもいいです、軍師…孔明殿」
二度目は、すこしだけ笑った。
研ぎ澄まされた白刃をおもわせる膚は、触れてみるとあたたかかった。趙雲は目を細め、頬の線をたどる。それからゆっくりと、顔を近づけた。
信頼できる護衛であり有能な武将から、今夜、恋人に昇格するために。













鈍感な相手に恋を伝えたい5つのお題
005:当たって砕けろ! →→→



(2008/9/10)

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