湖に行こう4 趙孔(私設)

 


諸葛亮はふところから布を取り出し、湖に近づいた。
湖というよりは山よりの小川が集まってできた泉だった。
深山から湧き出た清水が泉に流れ込むのに小さな滝になっていて、さやさやという音が、泉の静謐をさらに深めているようだった。
岩石があり、下草が茂り、すこし近づきにくい。
布を水に浸そうと、水辺に寄り、身を乗り出したところ、後ろからぐいと力がかかり引き寄せられた。
「・・・将軍?」
振り向くと、まだ動けずにいたはずの主騎だった。
「動いてはいけません。いま、布を水にひたしてお持ちしますから」
「――自分でいたします」
「・・・それは何故でしょうか」
「いえ、別に」
「気になるのですけど」
趙雲は仏頂面で息を吐いた。
「――落ちそうなんですよ、水に。あなたは」
「は?」
諸葛亮は主騎と水を見比べる。
「・・・落ちないと、思いますが」
「可能性として、です。今水になど落ちられたら、勿論、助けはしますが。俺も万全ではないので」
「・・・分かりました。おとなしくしています・・・いえ、すこし遠いですが、あちらの浅瀬に行ってきます。ですから、どうか将軍こそおとなしくしていてください」

ぱしゃん・・と水音がして、白い手が水の中に吸い込まれる。
 
「本当に、怪我はないのですか?あなたこそ、頭は打っていないのですか」
心配そうに差し出された濡らした手ぬぐいを受け取り、趙雲は眼前の白面をまじまじと見た。
「なにか?」
「背が伸びる呪文とは、なんです?」
「は?」
諸葛亮はぽかんとした。 
「え?背の伸びる呪文・・って。アレのことですか?趙将軍も使っていたのですか!?じゃ、アレはやはり信憑性がないわけでは・・・・」
「ひとりで納得しないでください。使っているわけないでしょう、知らないんですから。わけが分からないから聞いているのですが」
「あっそうですか・・・馬上で背を伸ばせって云われて、ついアレが思い浮かんだのです。わたしもたいがい、動揺したものですね」 
なぜか無念そうに顔をしかめる。
「たいしたことではありません。わたしは子供のころ、身体が小さくて、弱かったもので」
「病弱だった?」
「いえ。喧嘩に勝てなかったのです」
「喧嘩、・・」
諸葛亮の上から下までちらっと視線を走らせた趙雲はなんとなく納得できないようだったが何も云わず、続きをうながす。
「わたしの生家は地方官吏の家ですが、代々書物好きだったようで、屋敷にはなかなか立派な書庫がありました。いちおうすべて目を通したのですが、その中に・・・いかがわしい本があって」
趙雲が眉を寄せたので、軍師はあわてて弁明した。
「いかがわしいといってもソッチ関係ではないですよ。アッチです、その、怪神乱魔を語らず、というほうです」
「いえ・・・・『なかなか立派な書庫』の書物を『すべて読んだ』と云いますが、幾つだったのです」
「7、8歳までには読破していたおもいますが。・・・へんなことを聞きますね」
「――――」
 また趙雲がちらっと見たが、今度はすこし納得できたようだったので、孔明は続ける。 
「・・・その書物は、仙術やら占いやらの、いかにもあやしげな術が書いてあるものだったのです。そのなかにあったのが」
「背が伸びる呪文、ですか」
「そんな生易しいものではありません。『巨大化する呪文』です」
「・・・・」
「何でそんなものを信じたのか今となっては謎ですが、子供の頃は純真だったのでしょう。どうしても喧嘩で勝てない年上の悪餓鬼を踏み潰すことを夢見て、わたしは日夜その呪文を唱えていたものです。・・・それだけなら他愛のない子供の遊びごと、で済むのですが、このとおり人並み以上に背が伸びてしまったもので。あの書物に書いてあったのは実は世に知られざる秘術であったのではと・・・今でも時折気にかかります。・・・・貴方に背を伸ばせ、と大喝されて、つい思わず、あの呪文を唱えてしまいました」

「唱えてたのですか、あの状態で。その呪文とやらを」

思い出したように濡れ布巾を取り上げて土がついた顔やら手やらを拭き始めた趙雲であったが、その様子が深く脱力したようだったので、諸葛亮はなんとなく立ち上がった。
汚れた布を受け取って浅瀬でゆすぎ、また渡す。

「でも効きましたよ、あの呪文。あのまま馬にしがみついてたら、止まらなかったのでしょう?唱えた瞬間、背を伸ばす勇気がでたんです」

ぷっと趙雲が噴き出す。
いろいろと思い出したのだ。
緊迫感あふれる必死の顔も。悲壮な顔で目を閉じて背を伸ばしていた姿も。
泣きそうな顔で手を伸ばしてきたことも。

くつくつと笑いながら立ち上がると湖水のほとりに近付き、頭部でまとめていた髪を解いた。てきとうに振って土埃を払い落としたあと、首の後ろで無造作にまとめる。
ついでに上着を脱ぎ、背全体にくっきりと残る落馬のあとを払い落としてから元通りに着直した。
微細な埃が舞ったものか、湖面にはいくつもの波紋が浮かんだ。







   

帰りはお互いによくしゃべった。
といっても主に話すのは諸葛亮だが、薫風のようにかろやかな声を聞くのは心地よかった。
趙雲は鐙の踏み方や手綱の持ち方などひととおり教え直す。諸葛亮はより慎重に言いつけは守り、こればかりは変わらないおぼつかない手つきで馬を進ませた。
無事新野に帰城したときには夕暮れになっていた。
門前に、農民ときさくに話し込む劉備のすがたが見える。劉備の姿を認めて、何かを思い出したように急ぎ馬から下りようとする軍師を、趙雲は軽い仕草で止めた。馬を寄せてささやく。

「手綱を固定してからです」
「ぁ・・・分かりました」
自分の馬を止めてすらりと下馬した趙雲は、軍師の馬の左側に回った。
「片足を鐙から抜いて、手の力で鞍の上に身体をすこし持ち上げるようにして、こちら側に」 
軍師の身体がぎこちなく、指示とおりに動く。ひそかに懸念したとおり、軍師の己の身体を支えきれず、ずるりと馬上からすべり落ちる。趙雲は腕を伸ばし、軍師の腕と腰を支えた。
・・・・・・ちゃんと食っているのか?
そういえば警護についてから、この軍師がものを食っているところを見たことが無い。
おもわず趙雲は軍師の腰から背に手を滑らせ、その肉付きを確かめた。
案の定、細い。

「・・・ただいま帰城致しました。半日近くも不在にしまして申し訳ありません。作成中の戸籍簿については、今夜中にも仕上がるかと存じますゆえ、明朝に伺候いたします」
劉備に向いて、軍師は几帳面な拱手をとる。
劉備はにこにことまるで慈父の如き笑みを浮かべていた。
「楽しかったか?」
「はい、とても。でも少し、あやまちがございまして・・・」
笑みを浮かべた諸葛亮だが、落馬したことを思い出してすこし頬を染めた。

「な、何があったのだ」
劉備がひどく上擦った声を上げた。
「それは・・・・」
よく考えたら、疾走していて落馬するならともかく、止まっている馬から落ちたところでたいした怪我などしなかったのではないか。あんなに必死で将に手を差し伸べて、彼こそを大怪我させてしまうところだったのだ。
そう考えると、申し訳なく恥ずかしい。
羞恥を感じるが、でも得がたいものを得ることができた気もする。

含羞を浮かべ、諸葛亮は確たるこたえはごまかし、幸せげな笑みを浮かべた。
「・・・・・・でも、そのおかげでいっそう将軍と分かり合えた気がいたします」

ついで趙雲に向き直り、申し訳なさそうに頭を下げた。
「趙将軍、先程はどうもありがとうございました。本来なら厩舎にて馬の世話をすべきなのでしょうが、急ぎの政務を思い出してしまって。申し訳ありませんが、馬の世話を頼めますか」
「承知しました」
諸葛亮が一歩近寄り、趙雲にだけ聞こえるようにささやいた。
「砂糖は、わたしがやりますから。あとで厩舎に行っていいですか」
「もちろん。菓子は持ってこないように」
諸葛亮はちいさく噴きだして、
「分かりました。砂糖も、ほんのぽっちりにいたしますので、ご安心を」
彼の執務室に向かって去っていった。



「湖に行ったのだろ?あやまちって何だ、こら」
二頭の馬を引いて厩舎に向う趙雲に、なぜか劉備がついてくる。
「何事もありませんでした」
追いついて追い越した劉備がくるりと振り返る。にこにことした温顔・・・・はいつものことだが、何か裏があるように思えて、趙雲は足を速める。
「孔明の、髪、やけに乱れておったなぁ・・・」
「・・・・・・」
黒絹のような髪は、たしかに乱れるととても目立つ。
「んん〜?おぬしの髪も、出て行ったときと結び方が違うよな?よく見ればなにやら服も着直した跡があるぞ、おい」
にこにこが、にやにやに見えた。
というか、出て行った所を、どこから見ていたんだ?
「―――」
落馬、それも止まっている馬から転げ落ちたという軍師の不名誉を、告げるつもりはなかった。

劉備は、ばんっと趙雲の背を叩く。遠慮もへったくれもない叩き方に、趙雲は驚いた。何事だというのだ。落馬させたのは過失ではあるだろうが、かすり傷ひとつ負わせていない。
 
(責められてる謂れなどない)

見返した趙雲に、劉備が破顔した。
きょろきょろと辺りを見回し、誰もいないのに、声をひそめる。

「あれとできたのか、趙雲?おぬしがこれほど手の早い男とは思わなかったな・・・・今まで浮いた噂ひとつ無かったのは、おぬしの好みがアレだったせいか。なるほど、あれほどの玉はなかなかあるもんじゃない。しかし、なあ―――」
「・・・・・・・・」
「あれは、苦労するぞ、趙雲。うんうん、あれは苦労する!しかしその苦労は男の甲斐性やもしれん!頑張れよ」

まったく無意味な激励と、はっはっはっと頼もしいのか胡散臭いのかよく分からない豪快な笑いを発して、劉備がぽんぽんと趙雲の肩を叩く。

「できておりません、主公」

趙雲は実に平坦な声を発したが、「いかん翼徳と飯を食うんだった。時間だな」とつぶやいた劉備の背がせわしなく遠ざかる。
たったと小走りであった劉備が、さっと振り返った。
「恋愛相談ならいつでものるぞ!けどなぁ〜あーわしのそっちの武勇伝ときたらおそまつでな。あんまり無いんだがなぁこれが!でもむろんわしはおぬしを見捨てるような真似はせんぞ。相談があるならばいつでも来るがよい!しかし実にところ役に立てるかどうかはなーソッチ方面はどうもなあハハハ」

ドンと来い!と胸を叩いたかと思うと、こりゃいかんというふうに頭を掻いたり、照れくさそうに両手を広げて笑ったりと劉備は忙しい。もちろん趙雲ははるか彼方に置いていかれており、せわしなく動く劉備の手やら口やら表情やらを眺めているしかできない。
 
こればかりはわしも雲長も翼徳も誉めれたもんじゃないんだ、そっちの方面はどうもなあ、いや自慢にもならんがからっきし。はははは・・・・と困ったような本気で照れくさそうな劉備の笑いがこだまする夕暮れに、沈黙したままで取り残された趙雲がふたたび動き出すのは、いいかげん待ちくたびれた愛馬が、3度ほどいなないたあとだった。

 







このあと、砂糖を持ってきた軍師どのが、厩舎で関羽と張飛のお馬さんに髪とか咥えられていじめられてすっころびそうになり、趙雲と抱き合って飼い葉の積みわらの中にぼっふんとダイブする、というオチ。
そしてそれを馬番に見られて「あの二人はできている」と大騒ぎされるという二次オチ。

(2014/6/21)

≪ 一覧に戻る