藍は青より-初見  趙孔(私設)

 


その日、私、諸葛孔明はバタバタと自宅を片付けていた。
仕官することになり、自宅が不要になってしまったのだ。

自邸を取っておくことも考えた。村の長と若い衆に金子を渡して頼めば、簡単な掃除と屋根が落ちないくらいの維持はしてくれるだろう。そうすれば私は好きな時に、この愛する自邸に戻って来ることができる。

だけどそれでは丹精した田畑は駄目になるし、なにより私は自分の中に逃げ道を作ってしまうことになる。
私がお仕えすると決めた主君は難しい立場の方だ。戦乱の世で国を興したいと願う英雄のうちで最も弱小で、最も高い志を持っておられる。
私は主君に付いてゆく、どこまでも。だから私に逃げ道はあってはならない。だから私には、この自邸はもう必要のないものなのだ。


「それにしても兄上の家は、物がえらく多いなあ」
手伝いに来ている弟が、しみじみとぼやいた。
何年か前まで弟もこの家にともに住んでいたのだが、嫁御をもらってからは嫁と共に別の家に住んでいる。

弟の家にも、我が家と同様のさまざまな仕掛けを施し、快適に暮らせるようにしてやっている。
たとえば、床暖房。
冬は囲炉裏の煙が床を這い、床があたたかく感じるような仕掛けにしてある。熱は上方へと逃げるので、床が暖かいと家中がじんわりとぬくもるのだ。

とまあこのように便利な仕掛けが随所にほどこしてあるため、その工作をする為の材料やら大工道具やらを貯め込んでいる。
それで我が家には物が多い。

重ねて、保存食なども非常にたくさん保管してある。
塩漬け、酢漬け、酒漬け、干物に燻製と種類豊富だ。
それぞれの手法に対して最も味が良く、腐敗せずに保存できる方法の実験を繰り返しているので、やたらと数がある。

住環境と食糧事情、また田畑や作物に関しても実験を繰り返し、絶えず新しい創意工夫を繰り返す私は、たぶん村人から変人だと思われている。
だけど便利な道具や方法を発見し、惜しげもなく人にあげたり教えたりしているから、尊敬もされているし重宝もされている。

以前は兄弟3人で住み、今は私一人で暮らしている家は大きくも豪華でもないが、そこらの豪族の屋敷よりも便利で住み心地が良いと断言できる。
その家を人に譲ることにしたので、こうして掃除と片づけをしているわけだ。

しばらくすると弟が柱の合間から叫んだ。
「じゃあ私はそろそろ帰りますからね。明日また手伝いにきます」
私は埃よけの布を頭と口元に巻いた姿のまま、物置の奥から返事した。
「ああ、ありがとう。明日は応援がくるはずだから一気に片付くだろう。よろしく頼む、均」

明日はわが師である水鏡先生の弟子仲間が来てくれることになっている。
片づけを手伝ってもらって、書物を引き取ってもらう予定だ。もっともうちには書物は少ない。
私は一度読んだ書物の内容は覚えてしまうので、二度は読まないし、書き写すこともない。
読んだらすぐに手放してしまうので、手元には残らないのだ。

「均、嫁御が待っているだろうから早くお帰り。これとこれくらいは担げるな?」
均はもう少し街のほうに住んでいるので、ここから半刻はかかる。
暗くなる前に着くようにと、屋敷の整理ついでに弟に譲る衣服やら道具やらを詰めた箱を背負わせて送り出した。

まだ西の空も明るく、日が暮れるまでは時がある。
囲炉裏に薪をくべ、吊るした鍋に米と水を放り込んだ。こうしておけば、程よき頃に粥になっているだろう。
手塩をかけて製作した保存食糧の大半は均に持ち帰らせるにしても、半端なものは食べてしまわなければ。

さてもう少し作業をと立ち上がった所で、ほとほとと戸が叩かれる音がした。
やれやれ出仕するとなると来客も多くなるものだ。

「はいどちら様」
村人の誰かだろうと気安く扉を開けたのだが、そこに立っていたのは、隆中というほのぼのとした田舎の里では見かけない種類の男だった。
武装していたのだ。
にぶい灰銀の帷子は本格的な戦装束ではなくて簡易なものであったが、一般人が着るものではない。
長身で眉目が整い、まず誰が見ても偉丈夫だと断ずるいでたちであった。若々しい面貌は英雄芝居に出てくる役者のように整っていたが、それにしては年季の入った武装束も腰の長剣もしっくりと馴染み、熟練の武をうかがわせる。

「………」
珍客の襲来にぱちぱちと瞬いたが、すぐに合点した。
これこそが水鏡先生の言っていた男であろう。

私の家はこの後、水鏡先生の紹介で人手に渡る手はずになっている。
そこそこの武将であったが、戦で負傷したのをきっかけに軍務を退き、所帯を持って農業に励むということなのだ。
引退した武人というのは都合が良かった。ありきたりの農家とはかなり異なる我が家の様式を維持するのは、ただの農民には荷が重い。
武人というのは陣地を築いたり城の普請を行うので、意外と土木・木工の作業に慣れているものなのだ。
工夫を凝らした我が家の維持方法を説明したかったので、その引退武人に、私が在宅中に一度屋敷を見に来てほしいと、水鏡先生を通して頼んでいたのだった。


「これは、――ようこそ」
私はとりあえず埃よけにかぶっていた頭巾と、口元を覆っていた布を外し、軽い礼を取った。
男は私の顔に驚いたようだったが、私の顔は少々常人とは異なっているようなので、その反応は慣れていた。
男の立ち直りは常人よりも早かった。一呼吸の間でもとのきりりとした表情に戻ると、礼を取った。拱手ではあるが、通常のとは異なる軍礼だ。
「それがし、趙雲と申す。奥方であられるか。御主人――諸葛孔明殿は在宅であろうか」
「・・・私」
「は?」
「いやだから、・・・諸葛孔明は私なのですが」

戦で負傷した引退軍人だというわりにやけにピンシャンしているなと思ったが、気の毒に、損なったのは視力であったのか・・。
私は身の丈8尺、普通の男子よりかなり高めの身長である。髪の結い方も衣服の仕様ももちろん男子のものだ。当たり前の視力を持っていれば、私が奥方・・女性に見えようはずはない。
今日は掃除と片づけでボロ服を着るからといって、私が女性に見えるのは乱視か弱視としか言いようがなかった。

それに、・・・隠しておいてもしょうがないので白状するが、奥方なんていない・・・。
私はまったく女性にモテないのだ・・・。ぼんやりした弟にさえ嫁取りに関しては遅れを取っている。

目の前の男は、ひどく女性にモテそうな面構えであった。眉目がきりりと引き締まって整っているばかりか、顔つきに力強さがある。
だがやはり視力に障害があるのだろう。穴が開きそうなほどまじまじとこちらを見ている。

「まあ、上がられよ。案内いたしましょう」
ぶしつけな視線と態度に少々苛立ったが、激昂するのも大人げないと思い直し、私はだいたい他人に対していつも向けている微笑を浮かべ、おだやかにうながしたのだった。



「このあたりなど、嫁御が喜ばれるでしょう」
私がまず案内したのは、床下を掘って地下に作った食料備蓄庫である。
農家では納屋に、豪族の屋敷では土蔵などに食糧を保存するが、私は湿度・温度が安定する地下にそれを作ったのである。

「嫁御・・」
おとなしく付いてきていた引退武人がつぶやいた。
無口な男であるらしいが、娶る嫁の顔でも思い出したのだろうか、少し視線をさまよわせている。

「今のお住まいは?」
「新野、ですが」
「新野なのですか」
「はあ」
ほぉ何という偶然!新野といえば劉備様の本拠地ではないか。いろいろ聞いておきたくなった、新野でコメとか野菜が安い市場とか最新の書が読める場所とか。といっても井戸に着いたので後回しだ。

「これが井戸です。使い方にコツがありますので伝授いたしましょう」
「これが井戸ですと?」

武人が驚くのも無理はない。うちは、井戸から水を引くやり方も工夫を凝らしているし、まず井戸そのものが変わっているのだ。

室内の間取りや収納をひととおり説明した後、裏庭に出ていた。
ここからが我が家の快適生活の秘訣がずらりなのだ。

井戸と言ったら地面に直径3尺以上の穴が開いているのが普通だ。そして井戸の底にたまった水を、桶でくみ上げる。

我が家の井戸は、屋敷にほど近い地面に一本の竹が突き刺さっているだけである。地面から生えた竹にはいろいろと細工をしてあるが、これを井戸と見抜ける者はおらぬだろう。
案の定武人は、正気を疑う、といった目で見ている。

「井戸ですとも」
竹細工で作った仕掛けが動かすと、竹から水があふれた。
「――!?」
無表情の美男面が驚きを示し、おののいたようにさっと数歩下がりまでしたのが可笑しく、調子づいた私が腕まくりをしてキコキコと軽快に仕掛けを作動させた。水があふれ、清冽な水の香があたりに漂う。

竹の器に汲んで差し出すと、趙武人は一瞬変なものでも見るような顔をしたが拒否はせずに受取り、意外にためらいもなくひと息に流し込み、喉を鳴らした。
まがうことなき透明な水である。他所に自慢できる美味しい清水だ。

「なんなのです、この仕掛けは・・・」
「ふふ。これはですね」

まず地面の水が流れている地層まで穴を掘る。水の層に行き当たったら節を抜いた竹を突っ込む。それから、抜いた節を細工して、竹をぴたりと塞ぐ大きさのものを2枚作る。私はこれを弁と呼んでいる。
その弁をうまく開閉させると、力を使わずとも地中からするするすると水が上がってくるのだ。
「うまく開閉させる」のがなかなか難しい。丈夫な紐や動物の骨を組み合わせて工作しているのだが、調整が難儀なのだ。
調整は難しいが、上手くいくと非力でも簡単に水を汲めるようになる。

ちなみに井戸も自分で掘った。村の共同の井戸は遠かったから、家の裏に掘ったのだ。
自力で井戸を掘ったというと村の者にはびっくりされるが、実は井戸を掘るための道具も開発した。
井戸の掘り方や道具を村の者に伝授した結果、隆中の里で水に困る家は無くなった。

「どうぞ、やってみてください」
ここに住むならこの井戸の仕掛けを維持できなければならない。とりあえず水を汲むことからと場所を譲ったが。
「あっと、水が抜けてしまった・・ちょっとお待ちを、今」

この仕掛けは原理上、竹の中が空気のない状態になっていないと作動しない。方法は簡単で水を満たして空気のない状態にするだけ。つまり上から水を流し込むだけだ。
水を溜めた桶を取るために私が井戸から離れたのと、半信半疑の表情の趙武人が井戸に近寄るのが同時だった。

低い驚きの声が聞こえたので振り返ると、筒から勢いよく水が吹きあがっていた。
井戸の仕掛けである竹細工は見事なまでに壊れている。武人は硬直したように突っ立っており、頭っから盛大に水をかぶっていた。

「馬鹿力」
私はつぶやき、「あはははは」と腹をかかえて笑った。
頭から水をかぶった姿と、呆然とした表情がおかしかったのだ。
男前が台無しだ。いや、水もしたたる良い男とでも言うべきか。

「―――壊して、申し訳ない。それがしが修理いたす」
「もちろん修理してもらいます。終わったら、風呂を馳走して差し上げましょう。趙殿」
乾いた布を渡しながら、私はまだ笑い続けていた。

「これは、どういう仕掛けなのです?それがしには、方術のように見える」
「方術って、道士の使う仙術の事ですか?そんなもの使えませんよ」

二人で井戸の仕掛けを修復した。武人――趙雲はとても器用な男だった。手先が器用で物分かりがよく、教えることに対する対応が早い。

「普通は、水は高い所から低い所へ流れていきます。ですが、水――というか液体は、何かの管が空気のない状態でその液体によって満たされていれば、低い所から高い所に誘引することが可能なのですよ。その『管』の役目をしているのが、この竹というわけです」

趙雲という武人は首を振った。
「まったく、分からん」
「分かる必要はありません。方術ではないので、同じ仕組みを作れば、誰がやっても同じことは可能です。ただ調整と細工が難しいので。あまり普及はできないでしょうね」

言いながら斧で薪を割ろうとすると、ぎょっとしたように怒鳴られた。
「――何をなさるか!」
「何って、薪割りですけど。風呂を沸かしたいので」
「それがしがやります。どいていてください」
どいていろと言われても、ここは我が家なんだが。いやでも、もうすぐこの人の家になるのか。
だったら風呂の焚き方も教えておいたほうが良いか。

「では薪割りもお願いするとして、浴室を先にご案内しましょう」

―――浴室!これは我が家最大の傑作と言っていい。

普通は豪族の屋敷でもない限り浴室など無いものだが、我が家には立派なのがある。
それも通常は囲炉裏で沸かした湯を浴槽に運ぶという面倒くさい方法で風呂を作るのだが、我が家の浴槽はかまどと直結した方式にしてある。かまどは屋根の下の半屋外で、ここで薪を燃やすと風呂釜の水が熱せられて湯になるという画期的な仕掛けなのである。

浴槽へは水も引けるようになっている。重い桶を持って、風呂まで何往復もせずに済む素晴らしいやり方だ。


趙殿はたいそうな力持ちで、片手で軽々と斧を振るってばっかんばっかんと小気味よく薪を作ってくれた。
量産される薪を運ぼうと「よいしょ」と待ちあげると、肩に手を置かれた。
「それがしが、いたそう」
「なぜ?」
「このように木くずだらけのものを素手で触るなど。木片が刺さったら痛みましょう」
「えっと」
いつもやっているのだが。
人には素手で触るなと言いつつ、趙殿は素手で、私が持ち上げようとしていた三倍の量の薪を一気に持ち上げ、さっさと運んで行ってしまった。


風呂から出るころには、どっぷりと日が暮れていた。
湯を使い、衣を改めて居間に戻ると、先に囲炉裏端に座していた趙殿が顔を上げた。彼は一瞬目をすがめた。やはり、目が悪いのだろうか。そしてなぜか目をそらした。

粥はほどよく煮えていた。
厨房から保存食を出した。山菜、野菜、木の実、果実の酢漬けや、干して塩に漬けたもの。
「置いておいてもしょうがないので。食べて頂けると助かります」
「かたじけない。馳走になりましょう」
獣肉の塩漬け、川魚の干物を、囲炉裏の炎でかるく炙る。酒も出した。
粥をすすって先に小腹を満たし、あとは炙った干物や酢漬けを肴に、酒を注ぎ合った。

ぱちぱちと火が燃える。
火とはなんと神秘的で心安らぐものなのだろうか。
向かいの武人も、くつろいだ様相をしている。脇には長剣を置いているけれども。



劉備様に御仕えすると決めたのだが、実をいうとそれだけしか決まっていない。
どこに住むのかとか。どういう仕事をするのかとか。

私の得意は、工作と発明。それに書に書かれていることを記憶することと、書から得た知識を現実に応用することも得意だ。
字も綺麗だし、本気になれば、わりと弁も立つ。
だからまあ、文官として使われるのだと思う。土地の開墾なんかも任されるかもしれない。
武将は豪傑が揃っているが、文官は少ないと劉備様本人がおっしゃっていたことだし。

どういう暮らしになるのだろう。
揚州の呉侯に仕えている兄上はそれなりの地位につき、屋敷を構えて使用人を使っている。
私も少々出世すれば、そういうことになるんだろうか。

しかしまあ劉備様は、劉表殿に新野を間借りしているだけの実質領地なしの流浪の将であるから、私の住まいは宿舎とかそんなものだろう。
ご飯とか、自分で作るのかな。

「趙殿。新野は、物価は高いですか安いですか普通ですか」
「物価」
「そう、野菜とか米の値段とか特に」
自給自足を捨てる以上、重要な問題だ。
給料はいったい幾らなんだろうか。
劉備様の口ぶりだと、あまり豊かではなさそうだった。戦争とは金がかかるものだ、兵を養い馬を調達して武器を揃えるなんて、いくら金があっても足りないだろう。

一介の文官になるのであろう私の給料が、高いはずがない。
いかに困窮しようが劉備様にお仕えする決意に変わりはないが、ちょっと心配ではある。

武人がすこし考えるそぶりをした。
「比較対象にもよりますな。華北との比較でなら、物価は安い。新野は農村地帯ゆえ、米も野菜も取れる。雨が少ないのが難点だが」
ふむ、そりゃそうだ。新野の地形なら私も知っている。地図上の知識だが。

「同じものでも襄陽のほうが安い。あちらのほうが土地は格段に豊かだ」
あっそうか。
劉表殿が新野を借地してくださったのは、重要な農業生産地帯ではないからか。

「雨が少なくて生産量が落ちているのなら、灌漑(人工的な給排水)で克服できるでしょう」
「灌漑は、どうだろうな。山野が多く、起伏が荒いぞ」
「残念。んん、じゃあ、牧畜ならどうでしょうか?・・・雨が少ないならそのほうがいいかもしれません。牛か豚を放牧すればいい。費用対効果が大きいのは、牛かな。よし決めた、山野で牛を飼ってひと儲けしましょう」
「―――――」

頭の中で荊州の地図を広げる。
「あのあたりの山野に生えているのは広葉樹ですよね。牛にどんぐりを食べさせましょう。タダだし。それで『山のどんぐりを食べてのびのび育った高級・新野牛』とかうまいこと 商標 ブランド 化すれば、がっつり儲けられるかも」
「―――――」

ああ、なんだか武人どのが黙ってしまった。
・・・私のこういうところが何か人には理解できないらしく、『変人』と呼ばれるのだ・・女性にもモテないし・・・。


「ええと・・・では、新野で書が読める場所などはあるのでしょうか?」
ごほっと咳払いで停滞した空気を吹き飛ばし、文官(未定)らしく、まっとうな質問をしてみた。

「――ありません」
「えっ!」

私は師である水鏡先生もビックリの知識欲のかたまりなのだ。
人の話を聞くのも好きだが、なにより書を読むのが大好きだ。なので武人の答えにはびっくりした。

「な、ないのですか?」
「そうだな・・、いえ、そうですね。まともな書などは、襄陽か南陽にいかねば」

がーーん。
劉備様・・・そういえばあの人、書とか読みそうにない。実践あるのみ!派だ。

「ところで、趙殿。別に私に敬語を使っていただかなくとも結構ですよ。貴殿のほうが年上でしょう?」
「諸葛殿、生まれは」
「光和4年」
「では俺のほうがだいぶ上だな」
先ほどまで「それがし」とか言ってたのに「俺」に変わった。こちらのほうが素であるのだろう。

「私のことは、孔明と呼んでいただければ。諸葛の二字姓を呼ぶのは面倒でありましょう」
「諸葛と孔明では、呼び方の面倒さは変わらんだろう」
私はぷっと吹き出した。
「違いない。でも私は諸葛より孔明のほうが好きなのです、音の響きとかいろいろ。敬称も不要です。『諸葛殿』と『孔明』なら、『孔明』のほうが呼ぶのが面倒くさくないでしょう?」

「孔明・・・」

武人は、音の響きを確かめるように私の字を舌の上で転がした。
私は人見知りする性格にも関わらず、この武人に好意を抱き始めていた。

「孔明」
今度ははっきりと私のほうを見ながら呼ばれた時、私は目を細めて返答した。
「はい」
うん、『諸葛殿』よりずっと良い。
顔の良い武人は声も良くて、彼の声で呼ばれる自身のあざなは、とても心地よく私の耳に響いた。





泊まる泊まらないのやり取りがあったが、結局趙殿は泊っていかれ――むかし均が使っていた部屋に寝ていただいた。
翌朝、朝餉を取ってからの趙殿は、それはもうよく働いてくれた。

出仕に持っていくものはわずかな着るものくらい。あとは処分するか、人に譲る。
私が仕分けると、譲るものは持ち運びができるように木箱に梱包し、処分する物は、田畑の横に穴を掘って埋めた。
力も体力もあるし気が利くし、なんとも手際が良い。
言っては悪いが均の10倍くらいの戦力である。
さすがは元そこそこの武将。気は優しくて力持ちとはこういう男をいうのだろう。

住居が空になり、運び出すものもすぐに持ち出せるような状態になったころ、旧友たちがやってきた。
久々の再会に手を取り合って喜んでいると、見知らぬ男を紹介された。

「孔明。こちらは祝殿だ。劉表殿のもとで部隊長をしておられたが、脚に傷を負ったため、引退して農を営まれるとのこと。お前の家を買って、先ごろ祝言を上げた嫁御と住むそうだ。水鏡先生から話は聞いているだろう」

祝殿は、中肉中背。すなわち私より身長が低い。だがさすがに武将だっただけあり、体つきはがっちりとしていた。容貌・体躯ともに際立って優れた趙殿とは、比べようもないが。

私は、右後ろに立っていた男のほうに振り向いた。
「趙殿」
「はい」
「あなたは、誰です?」
「昨日も言ったが。姓は趙、名は雲。あざなは子龍。常山真定の産で、劉備様から騎馬隊を預かっている」

あ――・・・
それは昨日聞いた。けど、あざな聞いてない・・・
子龍。ああうん、聞き覚えがある。
劉備様が「雲長の歩兵が4千、翼徳の騎兵が千、子龍の騎兵が8百が主力だ」と言っておられた・・・。

「ちなみに」
引退したそこそこの武将じゃなくて、ばりばり現役で多分とってもお強いのであろう武将は目の端で笑った。
そういえば劉備様は、言っておられた。「軍団で一番モテるのは子龍」って。いらんわそんな情報、って思って聞き流していた。

「俺は独身だ」
ああうん、いらないですそんな情報。


「―――趙殿。あなた、気付いてましたね、私が勘違いしてることに」
この人は多分かなり敏い性質だ。気付いていないはずがない。

「話の流れは少々おかしいと思ってはいたが」
非常に冷たい目をしているであろう私に、男は少し顔を近づけた。目の端の笑みはいっそう深くなる。

「ふと、考えたのだ。こういう家に、嫁と住むのも良いかもしれない、と」

「勝手に住めばよいでしょう」
私はぷいっと顔をそらした。
この偉丈夫なら明日にだって嫁御を貰えるはずだ。
「嫁取りしたら知らせてください。何なら私が一軒家を建てて、腕によりをかけて快適に改造して差し上げましょう。費用は勿論出していただきますが」

ぼったくってやる。なにしろ将軍様なのだから、なのに・・・
「金か。金は無いな・・」
「ぷっ」
なんとこの色男は金欠らしい。というか、8百もの兵を率いる騎兵隊長である将軍が金欠って、どうなっているんでしょうか劉備様。

後から知ったのだが、趙雲が金を持っていないのは本当だった。
この将は俸給をほとんどもらっていないのだ。貰ってもすぐ自軍を養う為に使ってしまう。自身の屋敷さえも構えていない、劉備様に身命の全てを捧げているような男だった。

この時それを知らず、顎に手を当てて本気で考えている様子に、無礼とは思いながらも腹を抱えて笑った。
「じゃあ、お金が貯まるまで嫁御はお預けですね」



趙将軍は、劉備様の命によって私を迎えに来てくださったということだった。
ただの文官の迎えに将軍様をよこしてくださるとは、劉備様とはなんとおやさしいのか。
村長の家の厩に預けていた馬に乗って、新野に向かった。


しばらくたって衝撃の事実が発覚した。
私の職務は文官じゃなくて、軍師だった。しかも一人しかいないので、一の軍師――戦場における戦略指揮を一手にになう役職であった。おまけに行政外交からぜんぶ丸投げ・・・





そしてだいぶん経ったころ。
衝撃の告白を聞いた。
趙殿――子龍が、このとき「嫁」として想定していたのは、なんと・・・・・私、だったのらしい。

「つまりは、一目惚れだった」

「いや待って・・・誰が、誰の嫁ですって?」
「まあ、口にすると面映ゆいがな。お前が、俺の、ということになるな」
「いやいやいや・・・・」
偉丈夫 イケメン だからって、なにを言っても許されると思うなよ。
「嫌、なのか、孔明?」
「い、嫌というか・・・、私のほうこそ可愛い嫁が欲しいです」
これはまあ、失言だったのかもしれない。
その夜は、一晩中泣かされて、寝かせてもらえなかった。
つまりはこの時にはもう、私たちはそういう関係になっていたのだ。


 







藍色趙孔は年の差カプです。趙雲は永遠の若武者なので若作りですがコメ様よりひと回り近く年上・・なので結構オッサン・・・若い嫁にメロメロでわりと粘着質に溺愛するものと思われます。
出会いではコメがまったく意識してないので色気もへったくれもない・・・趙雲めちゃくちゃ苦労してオトすんだろうなぁ


(2017/12/14)

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