藍は青より-遊山  趙孔(私設)

 


特に早朝に目覚めるというわけではなく、朝起きると身体が重いだの、痛いだのということもない。
体躯は頑健でいまだ衰えを感じていない。

年を取った、なんて。思ってはいない、が。

「山間の村では珍しい作物を食べていると耳にしまして。私の知らない植物のようですので、見に行ってきます」
どことなくうきうきとした様子で身支度を整える愛人を、趙雲は寝台から見ていた。
夜明け前であるので、あたりはまだ暗い。

自分が年を取ったなとは思っておらぬが、しかしながら、新しい事を見つけにうきうきと早起きするなんてことは、もう無いような気がする。

「‥‥道中は、気をつけろよ」
我ながら陳腐な言葉がこぼれ出たものだ。不機嫌でさえある声だった。
さして重要な地位を拝命していないといっても、年齢を重ねるごとに率いる兵の数は増え、配下は多くなるばかり。軍を率いての遠出や重要な外交の局面ならともかく、地方の視察といった小用で、以前のように護衛として付いて行くことは無くなった。

「護りにつく兵を、選んでくる」
今度は張りのある声で言った趙雲は寝台を降り、軍衣に袖を通し、きりりと帯を強く結んだ。
軍師につく衛兵は趙雲の隊から出す。これだけは昔も今も変わらない。

髪を結い終えた孔明が振り返り、あきらめまじりに苦笑した。
「子龍どのに来ていただけると良いのですが」
「そうだな‥‥」
趙雲も苦く、口端を下げた。

孔明は高い地位を得ても、どこへでも自分で行きたがり、あらゆるものを自分の目で見たがる。
行って見て考え創意工夫をこらし、常人が考えもしない奇策を為し、突拍子もないことをやり出したかとおもうと妙な発明品をつくりあげ、それがとても役に立ったりもする。
なにをするのか目が離せない。
好奇心が強く知識欲が旺盛なままにあちこちに出向くが、また一方では気難しい。
守ってやりたい――ものだが・・


しばし見つめ合い、唇を重ねた。
しばらくして離し、目を見つめ、また重ねあう。
静かに離したあとは、ゆるやかに抱擁した。

誰よりも近くにいた時間は、過ぎてしまった。
それでも死ぬまで寄り添う事に、なんら変わりはない。

どんどん、と扉を叩く音がした。
応対するまでもなく、扉の外から大音声が響いた。
「趙将軍に申し上げます!主公のご都合にて本日の調練は、中止!」
それから、声をひそめて、もう一言。
「・・・趙将軍は本日、休養日となさってくださいって、主公からのご伝言です」

口付けのあとの抱擁のままの距離で、ふたりは扉を見詰め、しばし驚き、伝令の足音が遠ざかってから、また見詰めあい、軍師は面映ゆそうにしながら、少々いたずらっぽくもある微笑を浮かべた。
「‥‥私の視察は公務ですが。休養日の将軍のご同行を願っては、いけないでしょうか?」


趙雲は手早く髪を結った。一度着た軍衣を脱ぎ、下に帷子を着込んでから着直す。軍靴を履いたのち麻布を幾重にも巻いて足元を固め、革づくりに帯の合間にいくつかの武器をはさみこんだのち、剣帯を付ける。

「雑草のように丈夫で生育が早くて、味も良い作物なのだそうですよ。新芽も、茎も葉も根も食べられて、花もきれいに咲くそうで――」
文官の支度は、護衛の武将よりずっと早い。
窓辺にてのんびりと待ちながら涼やかな声音でたのしそうに語ることばを聞くうち、情緒に欠ける趙雲でも、どことなく楽しくなってくる。

久しぶりの共に遠出することに弾むおのれの心を、若いな、と趙雲はひそかに感動した。

愛用の剣を取り上げて、腰に佩く。

「行くか」
声を掛けると、先ほどまでしゃべっていた孔明が黙っていて、返答がない。
どうした、と問うと、照れたように愛人は笑った。
「見惚れていました」
子龍どのの武者振りといいますか、男振りに。
「見飽きているだろう」
「いいえ。少しも」
即時に否定して、見上げてくる。
趙雲のかたい指が、しろい頬にかすめるように触れた。

そうだな。
俺もおまえを見飽きるなどということはない――

音にもならない微かな音でつぶやいて、唇を合わせた。


城内の自室から出ていくと、中庭にはすでに馬の用意が整っていた。
孔明の馬はもちろん、趙雲の馬までもが。
長い付き合いの部下が手綱を渡してくる。
「鞍のわきに弁当をくくりつけておきました。もちろん水も。あと本日の天気は終日、良好のようです」
ひそひそと言って、片目をつむってみせる。

気を利かせすぎだ、公用であるぞ、遊山ではない・・と思ったが、趙雲は無言のままひとつ頷いて手綱を受け取った。
軍師が危なげなく乗馬するのを見届けてから、趙雲も愛馬にまたがる。

日が昇っていた。青い空に白い雲がうすくたなびいている。
晴天になるだろう。秋めいた涼風が心地よい。



珍しい植物をわざわざ孔明が視察に出向くのは、実は、好奇心を満たす為ではない。
生育が早く栄養価の高い作物であるならば、軍の糧食に使うことが出来る。
遠からず、大軍を動かすのであろう。

「では、子龍どの。よろしく頼みます」
「承知」

戦の行軍であろうとも、視察の伴であろうとも、遊山であろうとも。
自分の為すべきこと、為したいことは、それほどの違いはない、という気がした。


 











(2019/10/5)

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