夏空~虹の向こう側 趙孔(私設) |
05:あなたへの気持ち ~あの虹の向こう側へ 軍師の、簡素な袍の袖が夜風に揺れていた。 彼がたいていつけている白い袍だが、内衣としているすがすがしい水色がはっと目を惹き、胸苦しくなった趙雲はにがく息を吐き出す。 ゆったりとくつろいでうちとけた風情も、心を乱すばかりだった。 いったい彼の何が、こうも自分をかき乱すのだろう。 もう何度したか分からない問いを繰り返す。 答えはいくつもあるような気もするし、ひとつもない気もした。 ただ惹かれている。苦しいほどに焦がれている。 手に入るはずもないのに。叶うはずもないのに。 「俺には、時間がない。黙っていようかとも思いましたが。・・・死ぬ前に、ひと言、想いだけは告げておこうと。そう決意しました」 「、な――」 驚いた顔をした軍師がするどく息を呑みこんだ。 「死、・・・まさか、そんな。・・・貴殿は病なのですか」 自身の死という言葉に驚愕とあからさまな狼狽を示すのがなにか嬉しく、とち狂っているなと内心で自嘲しながら趙雲は苦く笑った。 「まさか、病などではありません」 「ではなぜ」 「曹操が、来るからです」 「、・・・・」 趙雲はその無骨な手をそっと伸ばし、軍師の頬に触れた。 夜風が、ざわざわと樹々をゆらしている。 「曹操軍は、二十万を超えるといいます。華北を掌握したからには誇張のある数字ではありますまい」 軍師は無言で否定はしなかった。趙雲は続けた。 「迎え討つはあまりに大軍です。劉表殿が重病で、頼りにならないとなれば。・・・・なんとしても主公には逃げ延びてもらわねば、なりません。殿(しんがり)となる部隊は全滅するでしょう。それを指揮する将が生き延びることもまた難しい。・・・関羽殿、張飛殿は主公の義兄弟で同じ日に死ぬと誓った仲でありますれば、――死ぬのは、俺しかおりますまい」 沈黙が落ちた。 趙雲はもうやるべきことはやり遂げたという気分だった。胸中は苦しかったが、一方ではすがすがしくさえあった。 十代の前半から戦乱に呑まれて生きてきた。生と死が隣り合わせの戦場で、手を数多の血で濡らしながらも生き延びた。 仕えるべき主君を得たことはこの上も無い僥倖だった。大望をいだきながらも弱小の兵力しか持たなかった主君は、このたび行く道を導くたぐいまれなる軍師を迎えた。 この先、この中華の大陸で勇躍するだろう。 その礎として戦場で散ることに悔いはない。 なによりも。最期をむかえる前に想い人を得た。 思えば遅い初恋だ。生きるのに必死で人を恋うるなど考える暇もなかったのだ。 願わくは、その征く道を、武将として共にゆきたかった。 光のように主公の行き着くべき道を照らし、知略により主公の征く道を拓いてゆく彼と、ともに。 ともに、虹の、向こう側へ。その先の、未来へと。 どこまでも、ともに戦いたかった。 曹操軍が10万を越えるとさえ聞かなければ今でもそう願っていただろう。それが、蓋を開けてみれば20万だという。 趙雲も劉備たちも、曹操と袁尚との対決はもうすこし長引くと思っていたし、その間に劉表を説得して何らかの対策を打てると考えていた。 しかし肝心の劉表が病に倒れ、後継者の争いが起きようとしている中にあって、荊州豪族の間では曹操へ降伏しようとする動きが有力だ。 とても頼りにはならない。 荊州の助力なしに20万の兵馬と交戦することなど、いかに軍師が奇策を出そうと、不可能だ。 とすれば、主公には逃げていただかなくてはならない。 そして、誰かが新野の民を守らなくては。 主公を慕う民たちが、数十万もの兵馬に踏みにじられるなど、見捨てておけるものか。 「好機、と思っています、俺は。俺は、――あなたを、あきらめられない。あなたに焦がれ、欲しいと思っている。あなたは、天が主公に遣わされたような、かけがえのない軍師であるのに――」 護るべき人を奪いたいとおもう。 主騎としても将としてもあるまじき想いが高じて、とまらない。 だから、この地に埋めてしまえばよい。主公を慕う民を守って。 想いと情と、我が身を。 「・・・・・勝手なことを、――――!」 喉の奥からしぼりだすように叫びを発した想い人は、一歩下がった。 離れがたい、と思わず手を伸ばしそうになった趙雲は。 次の瞬間。 彼に、思いっきり、ぶん殴られていた。 痛みは、感じなかった。 張飛にぼこぼこに叩きのめされた経験さえある趙雲にとって、それは実際のところ、たいした痛手ではなかった。 だが驚きによる衝撃は尋常ではなく、張飛の拳をもはるかに上回った。 「誰が、天人だ。私を、ちゃんと見てください。私は、人間だ。迷い、惑い、地上であがく、只人のひとりだ――!!」 あっけにとられた趙雲は、無意識に殴られた頬に手をやった。 深窓の姫であればよいのにとすら思った文人は、怒気と気迫をみなぎらせ、女々しいところなんて欠片もない。現に彼は立派に男の力を有していて、殴られた頬は腫れはじめていた。 うずく頬から、じぃんと熱さが手に伝わる。 「聞け、趙子龍。そして覚えておけ、一生」 激しい声音に視線を上げると、怜悧な白面を憤怒に染め上げ、物凄い眼光をした軍師と目が合った。 孔明は怒っていた。これほどの怒りを覚えたことはついぞ無い。噛み締めた奥歯からぎしぎしと不穏な音がする。 なにが、「死ぬのは、俺しかおりますまい」だ。 なんとまあ恰好のよすぎる世迷い事を吐いたものだ。 一方的な一方通行の告白といい、死地が決したという自己満足的な確信といい。 この諸葛孔明を、心底から舐めている。 ふざけるな。ふざけるな。ふざけるなよ。 「聞け、趙子龍。そして覚えておけ、一生」 渾身の気迫をこめた一歩を、孔明は踏み出した。 「私は。絶対に。自軍の将が死ぬのを前提とした戦はしない。絶対に、です」 握り締めた拳が激情のために細かく震えた。 「それは、自軍のものが死ぬことをすべて止めることは出来ませんが」 このたびの戦――博望坡でも、勝利であったが犠牲は出た。戦場の規模と敵軍の数からすれば驚くほど少ないものではあったとしても。 「貴殿の云う通り、曹操軍とあたるときは主公には逃げて頂くことになるでしょう。殿軍(しんがり)が貴殿になることもおそらくは間違いない。ですが」 軍師が一歩近づいた。理知的で怜悧な印象から一変して、激情をみなぎらせた様相は、白炎が燃え上がるように激しい。 英知を含んですずやかに整った容貌が憤怒に染まって、虹にも似た極彩色のひかりがぱっときらめいているような錯覚に、趙雲は息を呑む。 「死なせない。絶対に死なせません。死なせるものですか。・・・ここで死ぬ?何が死ぬのは、俺しかおりますまい、ですか。ふざけないでいただけますか」 軍師がまた一歩近づく。趙雲は下がろうとして後ろにあった卓に行き当たり、そこで無様にも立ち尽くした。 おのれの主騎の驚愕と狼狽の様子にふっと鬼気迫る形相をゆるめた軍師は、次の瞬間、切なくも狂おしく顔をゆがめた。 「・・・死ぬなどと言わないで、下さい。死なないで、欲しい。私の策で貴殿が、死ぬ・・・なんてことになったら、私は、・・・私、は」 「ぐ、軍師・・」 あまりの変りように、狼狽の極みに達した趙雲は、思わず目の前の身体に手を伸ばした。 おそるおそる手を伸ばし、抱きしめると、抵抗もなく腕の中におさまる。 ああ、好きだ。 恋しい。慕わしい。 ―――死にたく、ない。 「分かりました。死にません」 目を閉じた趙雲は全身で想い人を感じながら、誓った。 彼にも、おのれにも。 なにがあっても、死ねない。この人を、置いては。一緒に逝くことなど出来ることではないので、生きるしかない。 「将軍。‥‥趙子龍殿」 「はい」 腕の中の軍師が顔を上げた。離せとでも言われるのかと思ったが、軍師の瞳はそうではないものを語っていた。 孔明はまばたきをして趙雲を見上げた。 ああ、好きだ。 恋しい。慕わしい。 ―――死なせたく、ない。 「私も貴方が好きです。恋うております」 軍師であるとか、武将であるとか。恋してはならぬとか、欲してはならぬとか。 もういい、と思った。心をいつわり、隠すのは、もうよい。 私たちは生きている。 生命を持ち、自ら考える頭脳を持ち、感情を生み出す心を持つゆえに、悩み、惑いながら未来を切り拓いてゆく。 互いが乱世の中に生きるちっぽけな駒であり、そして互いが何にもかえがたいかけがえのない存在であるのだ。 想いのたけを込めた孔明の告白に、あからさまな驚きを浮かべ、まさか、と言いかけた趙雲よりも素早く孔明は言った。 「今度、否定をしたら殴りますよ」 「いや、でも。――まさか」 「よい度胸です」 拳を振り上げた孔明に、趙雲は焦って繰り出された拳を受け止め、受け止めたままに握り締めた。 心の臓がうるさいほどに音を高鳴らせている。 見下ろすと、黒々とした双眸が想いをたたえて見上げている。 恋しい。 きっと自分も同じ目をしているに違いない。 そっと腕を回し、抱き寄せる。孔明もまた広い背に腕を回した。 互いの身体が心地よい。 しっくりと重なる。これが必然とでもいうように。 文官の細い肢体をつよく抱き寄せて趙雲は目を閉じた。 武官のかたい体躯をつよく抱き寄せて孔明は目を閉じた。 あなたが、好きです 言ったのは、どちらからだったか。 ともに、生きましょう 惑い、迷い、すれ違っていた想いがようやく重なる。 征くのだ。夜明けの虹の、向こう側へ。 その先の、未来へと。 ともに どこまでも、ともに
(2019/10/19)
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