冬のはなし  趙孔短編

 



1 うなじ  無双


夏の間、たまに髪を結い上げていたのは暑さのゆえだったのか。
幾巻かの書簡を抱えて回廊を歩む彼の横顔を覆う髪状を見ていて、思い至った。
今は、横の髪をすこし結わい上げて髷をつくっているほかは、肩と背に流れ落ちている。頭頂に挿した華奢な簪が銀色に揺れていた。
すれ違いざまに正面から見たときだけ、首が見えた。

互いにかるく礼を取ってすれ違い、逆の方向へと歩んだ。


夜になって、趙雲は軍師の居室を訪れた。
書を読んでいる彼のまっすぐ背に流れ落ちる髪状に目をやり、背後から話しかける。
「孔明殿」
「・・なんでしょうか」
「爾後は、髪を下ろしてください。夏でも、常に」
「何故?」
書から目を離さずに軍師が問う。
「どうしてそのようなことを?子龍」

この人のうなじは隠されているのが良いと、趙雲はおもう。
何故?
問われて、考える。そして思い至る。
「あなたの美しい部分を、誰にも見せたくない、ので」



まっすぐ流れ落ちるひとふさを、手に掬い取る。
黒絹のように艶やかなそれを指先でかき分けると、やがて現れる、うなじ。

「孔明殿」
隠していて欲しい。
とても細くて白い。自分の力ではあっさり折ってしまえるようなうなじに、趙雲はゆっくりと唇を落とす。
同時に、隠されているところを暴いてみたいとも、おもう。
隠されているところを暴くのは、己だけでいい、とも。おもうのだ。





2 帰城  *藍色趙孔


雲はいよいよ厚く垂れこめ、日没を前にして既に薄暗い。
しっとりと湿り気を帯びた風が頬をかすめる。しばらくすると純白の雪華が舞いはじめた。

趙雲は馬を寄せた。
「寒くは、ないか、孔明」
「・・・・・ええ」
返答にしばらくの間があった。何事かを考え込んでいるのだろう。彼はたいていの場合黙って考えに耽っている。思考を妨げぬようにそれ以上の会話は控えた。

寒さは厳しくはないが、雪模様である。
馬を駆けさせれば当然ながら城に着くのが早まる。そうすべきな気がするのだが、書庫に篭ったり卓に向かい座してばかりいる彼に、少しでも長く外の空気を吸わせたくもあった。

静かな雪が舞い落ちる、葉を落とした樹々がまばらに並ぶ原野を、結局、急ぐことはせずに進んだ。


「城の明かりが」
彼がぽつりとつぶやいたので、趙雲もそれに目を向けた。
堅牢な城の城郭に沿って、明かりが浮かんでいた。日暮れは先だが濃い雲が立ち込め、ちらつく雪と相まって視界はひどく悪かった。薄暗さを嫌って早めに篝火を焚いたのだろう。
「よいものですね」
「そうか」
「ええ・・」
何気なく返答した趙雲は、彼が次に発した言葉に目を見張り、思わず横で馬を歩ませる軍師を凝視した。
「・・・帰りついたという気に、なります」

灰色の景色の中に浮かぶ、砂色の城壁。味気ない景色の中に、朱色と橙色が混じった火が灯って揺れている様は、味方が焚いていると分かっているだけに、ぬくもりを感じるものだった。

劉軍が駐屯する城は軍事用の要塞で、居住するのに快適とはいえない。
隆中という丘にあった孔明の住まいの居心地の良さとは、比べるべくもない。
それでも城の明かりは、帰り着いたと、安堵を誘うものになっているのか。

「主公のおられるところが、我らの帰る場所だ」

城門をくぐって厩舎の当番の者に馬を預け、劉備に帰城のあいさつをして私室まで送ると、そこは炉に火が入っていた。
あたためられた居室。
これも主公、劉備の心尽くしであろう。

ほぅ、と安堵の吐息をつきながら外套を脱ぎ、軍師は振り向いた。
少し、すねたような表情をしている。
「主公がおられる処が我らの帰る場所。それは重々承知しておりますが・・・子龍殿」
「なんだ」
「私が帰る場所には、子龍殿もいてもらわなくてはなりません」


炉の火の上で、外套についた雪片を払っていた趙雲は、しばし沈黙した後、「当たり前だ」とつぶやいた。
「主公のおわす処に、俺は居て、お前も――」
言葉を重ねようとしたが、上手く紡げない。
言葉のかわりに外套を放り出した将は軍師に近寄り、その肢体を強い力をこめて掻き抱いた。言葉にならぬ想いを込めて細身に両腕をまわして引き寄せる。
「一緒にいてくださいますか。ずっと」
「ああ」
さいしょに額が合わさり、ついで唇が合わさった。





3 初雪  *できてない趙孔


――この寒ぃのに表情も姿勢も変わんねえよな趙将軍て
――さっすが北方出身だよな。こんくらいの寒さなら寒いって感じないんじゃねえの

主君の気安さが全軍に行きわたっている劉軍の兵卒は、口が軽いものが多い。
ことに若く機転の利くものを選りすぐっている騎馬軍の兵士は、少々軽率なまで軽口を好む。

(寒さを感じていないわけではないのだがな・・・)
内心でひとりごちる趙雲が吐き出す息は白い。
しとしとと降る雨が運んでくる湿気が余計に寒さを助長する。
吹きつける雨まじりの風が外套を濡らして体温を奪い、兵卒たちは時折背を丸めてかじかんだ手にこすり、身震いをしながら馬を進ませている。

「城が見えた!」
冷たい雨にけぶる闇夜の先に帰還すべき城壁が見えると、どっと歓声が沸き、自然と騎馬の足運びが速くなる。

帰城し、馬の世話などは明日に回すことにして軍を解散させた。
「あ~~~寝床が恋しい」
「ははは」
「確かに!」
誰かがいうと次々と笑いが起こった。もう夜も更けようかという時刻だったのだ。


たしかに、寝床が恋しいな、と趙雲はおもう。
自分のではなく。
この時節、体温が高くなく冷えを生じやすい細身の文官の寝床には、特別に厚い綿入りの布団がしつらえてある。
そこに押し入り、あたたかな布団にくるまるあたたかな肢体を抱き寄せれば、いかばかり心地良い事だろうか。
いや、このように冷え切った躰で寝具にもぐりこんだら、叩き出されてしまうかもな。そうなったらなったで、力づくで押さえつけるだけだが。
そんなことを考えながら城の廊下を歩いた。

と思ったのに、目指す部屋の扉からは明かりが漏れている。
まだ起きているのか。夜更かしをするな、と何度言わせれば気が済むのだ、あの、仕事中毒者め。
あたたかい布団にあたたかい肢体というわけにはいかないのか。
失望した趙雲は鼻を鳴らした。

よし、説教してやる。
趙雲の足運びは、ますます早まる。

「おかえりなさい、将軍」
この文官は美しいと、朴念仁の趙雲でさえ認めざるをえない美貌が、やわらかく笑んだ。
煌々とした灯かりの下で書を読んでいる。
居室は滅茶苦茶に寒い。外と変わらない。窓が全開に開いているのだ。
趙雲の眉が吊りあがった。
「あなたは本当に、俺を怒らせるのがうまい」
「なぜ、あなたが怒るのでしょうか?」
「何故、窓を開けている」
凍死まではするまいが。正気の沙汰ではない。
「初雪でしたので」
ちらりと窓の外を見ると、雪が降っていた。行軍中は雨だったのが、夜の寒気で雪に変わったのであろう。

「雪の音を聞いておりました、将軍。・・・ああ、それから」
本格的に説教せんと将が口を開く直前の絶妙な間合いで、軍師はおっとりと悪戯っぽく首をかしげた。

「先ほど従者が寝所に温めた石を入れに来てくれました。今頃は、ほっかほかですよ」
軍師の従者は護衛を兼ねている。よって全て趙雲の部下である。
初雪の寒さに気を利かせたのか。良い心掛けだ。

「お疲れでしょう、将軍。お先にどうぞ。わたしはこの書を読み終えてから休みます」
「なんの冗談です。あなたも寝るに決まってるでしょう」
その書を読み終えたら次の書を、となるに決まっている。
当初の予想と少々違ったかたちで、もう少しだけとぐずる軍師を力づくで共寝することになった。

指先こそ冷えていたが、肢体はあたたかい。
そして寝所の布団の中は本当にほっかほかだった。
外は初雪。布団のなかは天上の春のよう。
書の続きが気になるとぐずっていたくせに布団のぬくもりにほぅと吐息をつき、趙雲の胸に顔を埋めてくぅくぅと寝入った軍師を、そっと抱き寄せて、将は目を閉じた。





4 約會  *夏空趙孔


ご趣味はなんですか、と問うたところ、たいそう長い時間沈黙した将軍は、鍛錬、とちいさな声で応えた。
流石、戦乱の世を武で渡ってきた人は違う、と孔明は感嘆したのだが、彼は黙りこくってしまって、とても「その他のご趣味は」と聞くことができない雰囲気になった。
こういう場合は「そういうあなたのご趣味は?」と聞き返されるものではなかろうか?
孔明は常識にとらわれない、むしろ常識などぶったぎる性質だけど、ここは会話のつなぎとして聞き返して欲しいところで、黙っている相手にそわそわしてしまう。


お付き合いしている、のだから、相手のことをもっと知りたい。
しかしたとえば生まれ育ちを根掘り葉掘り問いただすのは嫌なことだし、孔明自身も昔のことをそれほど語りたいわけではないし、向かい合っている現在が大事なのであって過去はどうでも良いような気がする。

ほてほてと並んで歩きながら、相手が沈黙しているので孔明は自分の趣味を語った。



空は澄み渡って晴れていた。
冬は、静かだ。ほかの時季にくらべて。
樹々の葉が落ちて見晴らしがよい。開けた視界に加えて、生きものの気配が少なく雑音があまり無い分、護衛としてはやりやすい。

いや、現在。
厳密にいうと護衛ではない。
勿論いざという時は何としてでも護るが、今日は私事での外出なのだった。
私的に出掛けたいのですが、と軍師に誘われた。軍師とはお付き合い、している。つまりこれは初めての約會(デート)ということになる。
趙雲は状況に呆然としている。
約會(デート)っていったい、何をしたらいいんだ。
「ご趣味はなんですか」
は?趣味?―――趣味。趙雲は考え、また唖然とした。趣味など、無いに等しい。戦ってしかこなかった。かろうじて「鍛錬」という答えを絞り出す。事実趙雲は、非番の日でも城を見回ったり若手の稽古をつけたりしていて、趣味にいそしむ事なぞついぞない。

黙り込む趙雲といても面白くも何ともないだろうに、軍師は楽し気に語らった。
趣味すなわち好きなこと、そして得意なこと。
好きなのは読書、思索、散歩、釣り、昼寝。
得意なものは工作、発明、医術、農学、手慰みに盤上遊戯や琴も嗜む。実は調理も得意で、食糧の保存法には一家言あるという。
「そう、薬草の採取や調整も一時期、はまっておりまして。将軍もお風邪を召された時や怪我をされた時はご一報を。たいそう効き目のある薬を煎じて差し上げます」

ほがらかに笑う白皙の容貌が、晴れた冬日に映えて美しい。
なんと博学、博識、そして多才なのだろうか。

いつまでも黙っていてはおかしいだろう。
約會(デート)なのだから相手を楽しませたり喜ばせたり、するべきだ。
楽しませたり、喜ばせたり・・・・趙雲はまた呆然とした。
なんとすればよいか、全く分からない。
助けてください、主公。
趙雲は口をつぐんだまま、黙々と歩いた。


気の向くままに語り歩むうちに、孔明は趙雲と歩調が合っていることに気付いた。歩む速度がまったく同じなのだった。
趙雲が、合わせてくれている。間違いない。
孔明は普段通りののんびりとした歩調で歩んでいるのだが、趙雲の普段はもっとずっと速くきびきびと歩く。
(優しい、のだな)
嬉しくなり、孔明は口の端で微笑んだ。
そうだ。
黙っていても。過去やなにやらを根ほり葉ほり問いただしたりしなくても、分かることはあるのだ。
道はながく続いている。焦るまい。でも、このくらいは。

「では、ひとつだけ、あなたのお好きなものを教えてくださいませんか。趙将軍」

問われて趙雲は、目を見張る。
どうして、そのような分かり切ったことを聞くのだろうか、この多才博識な天下の才人は。
趙雲が好きなものなど、本当にごくわずかしかない。

「あなたが、好きです」

今度は軍師が目を見張った。何を驚いているのか。趙雲には分からない。

「あなたに惚れています。お慕いしている、俺は。軍師。孔明殿」

「え、あ、」

まったく途切れなくとうとうと言葉をつむいでいた軍師が口ごもり、―――やがてじわりじわりと赤くなる。
そばに咲いている薄紅色の椿のような色になった。

手を伸ばしかけて趙雲は一旦動きを止めた。
自分は彼の主騎だ。護衛対象に手を出すなどとんでもない。
しかし、と思い直す。
今日は私事だ。私的な外出・・・約會なのだ。
引っ込めかけた手を、趙雲はふたたび伸ばした。
主騎ではなく。恋人として。彼に、触れるために。





5 川魚  無双


夜も更けた。
久方ぶりの逢瀬だが、床入りの前にすることがあった。
この軍師を護衛する者が必ずせねばならぬ重大任務である。普段は部下に厳命を下してやらせている趙雲だが、今宵は自ら行っている。
すなわち、軍師に飯を食わせるということを。

自身はとうに夕餉を済ませているので、張飛から貰った酒を舐めるように含みながらゆったりとした姿勢で、食事の終わるのを待っていた。
軍師の口が品よく食い物をついばむ。やんわりとした灯かりに白面が映えるさまが優雅であった。

ある皿に箸をつけた軍師の眉が寄った。
この軍師は実のところ料理にうるさい。自身は食うことに情熱をまったくそそがない癖に。
眉が寄ったことで趙雲は胸中でひそかに危惧したとおり軍師は箸を置いた。
「この魚の調理法、いえ、保存法からして全くなっておりません。・・・ちょっと厨に行って」
「孔明殿」
かたんと椅子を鳴らして立ち上がるので趙雲は声を上げる。
「それは、久方ぶりの私との逢瀬をふいにして行かねばならぬ用事ですか?」
「、―――・・・」
「私といながら他のことに気を取られるのですか・・・?」
精悍な蒼将が濃い睫毛を翳らせて浮かべてみせた笑みにかるく目を見張った軍師は、かたん、とちいさな音が立てて椅子に戻った。
目を伏せて箸を取り上げ、食事を再開させる。

彼が食にこだわり、調理法やら保存方法にまで精通しているのは、戦乱の中で親と別れ、弟妹を飢えさせぬように苦心を重ねた結果だということを知っている。
その才知で今は弟妹どころか数万の兵を養っているのだから、多才に感服するほかない。

静かに夕餉を食し終えた軍師は筆を取って布帛にさらさらとなにかを書きつけ、食膳を下げに侍者に授けた。


少し会話をし互いにくつろぎ、いよいよ床に入ろうとして、その高雅なる白袍を肩から滑り落とし、細い肩を抱き寄せたまさにその時。
趙雲はふと疑問を口にした。
「魚の保存方法って、なんですか」
軍師が眉を寄せた料理は、川魚の塩漬け。魚を保存する方法としてはごく一般的な手法である。
魚を保存する方法としては、塩漬けか酢漬けか干すかくらいしか思いつかないが。この軍師がそんな普通の方法を提案するわけがないと気になった。

「燻製ですよ」
「え?」
「木を燃やす煙でいぶすのが、あの川魚の最善の保存法かつ調理法です。美味を求めるなら二刻、長らく保存するのなら一日半かけて燻製するのが良いのです。・・・が、子龍殿」
「はい」
「それは、久方ぶりの私との逢瀬をふいにして聞かねばならぬ事でしょうか」
「、―――・・・」
「私といながら他のことに気を取られるのですか・・・?」
清雅な軍師が濃い睫毛を翳らせて浮かべてみせた笑みに大きく目を見張った蒼将は、いえ、とちいさく笑って黒髪の頭部を引き寄せて、淡い色のくちびるに己がそれを重ねた。





6 狩り  私設・晩年趙孔


冬の狩りは、軍事訓練と食糧の調達を兼ねる重要な行事だ。
「なるべく多くの獲物を。ただし狩り尽くさぬように。采配は、任せます、姜維」
「承知いたしました」
若い将校が颯爽とした拱手をする。

「どっちが多く獲物を狩れるか、競争だぜ!」
「承知した!負けるか」
関家と張家の若者たちがまっさきに飛び出していった。
「張り切っておるな」
彼らの若さに苦笑しながら王平、鄧芝ら熟練の将はゆっくりと馬を出す。
かつては狩りともなれば張飛がまっさきに馬を駆けさせていったものだが。
張飛も関羽も劉備も、狩りは上手かった。


狩りを行う山のふもとには館がある。以前からも蜀の太守や豪族が狩りをする際に使っていたという城館の設備は、なかなか整っていた。
なかでも石で囲った湯殿は、天然の温泉なのだという。

「孔明。出て行った将どもが戻ったら大騒ぎで風呂だろう。先に浸かったらどうだ」
「なんとも魅力的な申し出をなさるものですね、子龍殿」
「護りに俺がつく。久しぶりにゆっくりしろ」
まことにもって魅力的な申し出である。
「では、一緒に入りますか、子龍殿」
そうだな、とゆったりとした動作で頷きかけた勇将は動きを止め、ぎらりとした目で振り向いた。

「何の、つもりだ」
腹の底から出たというような低い恫喝に孔明は息を呑む。振り返ってみた光景に立ちすくんだ。
「姜、維・・?」
魏から降った青年将校が、弓に矢をつがえて、此のほうを向けていた。尖った矢の先端が向く先は、長年の愛人である武将なのである。

謀反―――
いやでも、そのような。
武装した将兵らがひしめく狩り場で謀反など馬鹿げている。
蜀に仇なす気であるならば、政庁で誰より近く侍らせている諸葛亮の首をこそまっさきに掻きに来るはずだった。

「趙将軍に、申し上げる」
矢を向けられていても、趙雲は腰に佩いた剣に手を掛けることはしなかった。どっしりと構え、冷ややかな怒気をみなぎらせて若者を睨み据えている。
「言うてみろ」
「勝負を、所望いたします」
「またか。しつこいな」
え?
「剣でも槍でも、お前は私に勝てたことはあるまい」
「此度は狩りにて、勝負を」
諸葛亮は目を見張った。
何度も、勝負を?調練にてたびたび手合わせしているとは聞いていたが。それぞれがずば抜けた武技を持つ将だけに、対等以上に相手がつとまる者が少なく、自然とそうなるのだろうと思っていた、のだが。
これは、一体。
何故、互いに殺気を向け合っているのか。

困惑し無意識に下がろうとして、とん、と肩に何かが触れた。
「おっと」
「・・馬岱殿」
肩越しに見上げると、蜀取りの際に西から加わった壮将と目が合った。
「またか、しつこいと趙将軍が言っておりますが。あれは、その、何度もある事なのですか」
趙雲と同様に馬岱にも動揺や驚きがない。それどころか、またか、と呆れるような風情なのである。
「うん。貴方が見出した麒麟児は、やたらと虎の尾を踏みたがる困った子でねえ。虎威将軍が何度叩きのめしても全く諦める気配がない」


「私が勝てば、その方との“夜”を」
「夜を得て、どうするのだ」
「なにも。なにも、いたしません。ただ、お傍に」
「昼は誰より近くに侍っておるくせに、夜までも望むのは強欲と思わぬか」
「すべてを得たいとおもう性分ゆえ」

ふん、とうとましげに鼻を鳴らした趙雲は腕組みを解き、馬を引け、と従者に命じた。

「馬岱殿。丞相と城館の守りを、頼めるか」
「おや、出ますか。趙将軍」
「老いたるものは去り後進に譲るが世の道理。だが、譲れぬものもある」


趙雲は此の方には目もくれず不機嫌そうに馬を出し、姜維は諸葛亮に向かってことさらに丁寧な拱手をほどこしてから乗馬し、冬枯れの森へと駆け去った。


「どちらが、勝つのでしょうか」
駿馬が立てる土煙を呆然と見送り、隣の将を見上げた。淡い色彩の双眸を持つ西方出身の将は、分かり切ったように意味ありげに微笑した。
「野生の動物は臆病かつ果敢で、力まかせに攻めれば良いというものではありませんからねえ。姜維殿は殺気が強すぎる」
つまり子龍に分があるということなのだろうか。


「さて、丞相はお湯殿にどうぞ」
「姜維は、いったい何がしたいのでしょうか」
「あなたの”夜”が欲しいと、言うておりましたねえ」
「同牀したいと?それくらい、構いませんが」
諸葛亮自身、劉備と出会った若い頃は毎夜のように劉備と同牀し、夜を徹して熱い議論を交わしたものだったが。
一瞬目を見開いた馬岱は、肩を揺すって笑い出してしまった。黙って、というように自分の口の前に人差し指を立て、悪戯っぽく片方の目をつむって見せた。
「諸葛亮殿。それは趙雲殿の前では言っちゃ駄目なやつですからね?」


 









(2021/5/1)

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