羊の夢  趙孔短編

 



1 非日常  


自らが出征しない戦時中、孔明は丞相府の奥の部屋で眠っている。
いつなんどき何が起こっても対処できるように。有事の際に最高司令官の行方が分からない事態になれば軍も政治も混乱する。
南方の反乱が平定されたと知らせが届いた夕刻、虚空に向かってほっと息をついた直後に、執務室にはいってきた一将が手を差し伸べてきた。
連れ出されて、彼の私邸へと向かう。


城での孔明の執務室や郊外に構えた私邸もたいがいに一国の重鎮としては質素だといわれているが、ここはそれすら云うものがいないほどの陋屋である。
だが不思議と居心地がいい。
自邸とはまた別の、くつろぎがある。
「丞相様、いらせられませ」
「じょーしょー?」
「これこれ」
「きゃー」
使用人は親子孫の三世代の家族が仕えているのだが、知らないあいだに曾孫ができていてちょっとびっくりした。
きゃっきゃっとはしゃぐ童を老爺が鷹揚に抱きとめ、皺くちゃの顔をほころばせる。
かたくるしい礼儀は無く、いつでもあたたかく迎えてくれる。
「どうぞ、おくつろぎくださいませ」
心づくしの夕餉をいただき、用意されていた湯につかると、強張っていた指先に湯の熱が染みた。
心と体がほどけていくようだった。



湯を使ってぐっすりと眠ったせいか、翌朝の目覚めが良かった。
起き出して、厨房に向かう。
先に起き出していた老爺は、孔明を見て目を細め、竈に火を熾してくれた。

米を椀にふたすくい、水を注ぐ。粥を煮ることにした。
もうすこし滋養のあるものを足そうかとも思った。食材は用意されていた。だけど、これで良いような気もする。
しばらくして鉄鍋の蓋をあけると、ほどよく煮えた粥のよい匂いが漂った。



寝室へと戻った。
うすく射し込む朝日に、居室が見渡せた。
あまり物が多くはない部屋。
自分の邸とはまるで様子が異なる。
たとえば書物はないし、発明の道具もなく、茶を煮る用具もなく、書画も楽器もなく囲碁などの盤上遊戯もない。

それでいて、つまらない部屋ではない。
好もしい人の部屋であるので、この部屋はたいそう好もしい。


彼は雄偉な長身を牀台のうえで横向きにゆったりと伸ばして、しずかに目を閉じていた。
寝たふりをしている?と一瞬おもったが、呼吸が深い。
無造作に投げ出さている腕にはなんの力も篭っていないようにみえた。
寝ていようとも鍛えた全身から武威は放たれている。
それでも寝顔は穏やかだった。




孔明が早起きしてなにかしている。
音を忍ばせているので、俺に起きて欲しくは無いのだろうと微睡みに身をまかせていると。

「子龍殿、朝ですよ。朝餉ができておりますので、起きてはくださいませんか・・?」
やわらかい声に、心地よい眠りから呼び覚まされた。

通常の朝餉よりはいささか早い。
「あなたがつくったのですか」
「粥しかありませんが。ほどよく煮えておりますので、さっそくいただきませんか」
「ああ。よいですな」

肌寒さを感じる朝に、熱い粥はよく染みた。
湯気の向こうにある、くつろいだ顔。

「うまい」

ただの白粥です、と孔明はいうが。
宴席で並ぶ豪奢な料理よりも、なにもはいっていない白粥がなによりの馳走に感じる。

戦争をして、勝つなり負けるなりして引き上げて、次の戦に備える。
それが我らの日常だ。
そのことに不満は無い。ふたりとも、自ら選んだのだ。
ことに孔明は小競り合い程度に乱であっても必ず城にいる。
だから時々は私邸に攫い、湯を使わせて眠らせる。
常に取り巻く文官も武官もこのあばら家にはやってこない。


「今日はなにをしますか?」
「あなたはなにをしたい」
「そうですねえ・・湖で釣りをして、森をすこし散歩して、もどったら昼寝して」

秋のはじめの、この上もなく非日常で平和な一日のはじまりだった。





2 狩猟  


「将軍、ずいぶんと賑やかですが、今日は何の調練を?」
「山で、狩猟を。兵の訓練と冬にむけての食糧の調達を兼ねて、毎年やっている事です」
「秋の狩猟」
軍師の目がぱっと虹のような光彩を放った。
多忙な趙雲はそのまま通り過ぎようとしたのだが。軍師が宣言する方が早かった。
「わたしも行きます」



「どうして付いてこられたのです、軍師」
「知りたいから」
「なにを?」
「いろいろです。兵の訓練と狩猟って、どう兼ね合うのかとか。集団での狩りとはどう行うのか、兵はどう動くのか、将軍は兵をどう動かすのか、一人の個人と兵団とはどう異なるのか、獲物はなにか、どう追うのか、この山の動植物はどういう生態であるのか、この季節の天候は、地形は、地質は、――と」
「なるほど」

「智者ってこういうものなのですね、趙雲様・・・」
若い従者がえらく感激している。

「たとえば、そこにある小さな石一つにしましても、どこからか運ばれたのか、いつからそこに在るのか、なぜ存在するのか、・・・考えれば考えるほど深遠な存在理由と価値があるような気がいたしませんか?将軍」
「しません」
智者ではあるが変人である。そこは間違いのない事実だ。



「せっかく軍師がおられるのだ。あなたが仕切りますか」
「よろしいのですか」
「ええ」
この風変わりな軍師の采配に興味があった。
なにか、おもしろいことをするのではないかと。

「では、」
軍師はまったく考えるそぶりも見せずに、即座に命を出した。
兵を組に分けて、競争させるのだという。
組み分け自体は戦時と変わらないので、少々のざわつきはすぐに収まる。

「上位の組には、ご褒美を出します。とってもよいものを、ね」

おお、と兵が一斉にどよめいた。
褒美が具体的になんなのか示されていないのが、興味をそそられるようだ。提案したのが軍師であることもまた展開が読めないのだろう。

「褒美って何だろ」
「分からねえけど狙うしかないよな」
「軍師様のことだから、難しい書物とかだったりして」
「勘弁してくれ!」
「軍師様ぁ、ほんとに良いものにしてくださいよ」
どっと笑いが起こる。


「趙将軍は、審判役です。狩はされないか、されても兵らとは別のところでどうぞ。あ、あと、勝敗があるとはいっても、他の組の妨害は禁止ですよ。冬の食糧を確保するのだという目的は、忘れないで下さいね。備蓄は多い方がいいですよ。あなた方のがんばりで、あなた達の家族や街に住む方々が、冬の間飢えずに済むように」


軍師のこういうやわらかい心持ちが美しいと趙雲はおもう。
劉軍の兵は陽気だが、獣を狩ると残虐性が刺激されるせいなのか、また人より良い獲物を得たいという我欲が出るせいなのか、狩猟の場ではよく喧嘩が起こる。

兵が確保する冬の食糧が、自分と家族、また街に住む弱きものの飢えを救うというのなら、獲物や狩り場を争っての殺伐とした争いごとは起きにくいだろう。

兵たちは早速、組の中で隊長を決め、副長を決め、合図には笛を鳴らして、などと決めごとをしている。
武勇に自信のある隊は奥山へ分け入り、新兵はふもと近くに陣取るということも兵たちが自ら決めた。
斥候を出そうなどと作戦会議までしているのに、感心した。


「よい兵たちですね。心持ちがまっすぐで、やさしい。機転も利くようで、さすがは趙将軍が育てた兵だと感服いたします」

普段はあまり表情を変えない趙雲も、軍師の評価にはさすがに目を細めて微笑した。

「かたじけない、軍師。よい兵だ。私も、そう思います」

紅葉しはじめた山の空は遥かに澄んで青く美しいものだった。





3 狩猟・続 2の続きをできてない趙孔で 少々下ネタです


兵を動員しての狩猟の成果は、素晴らしいものだった。

「将軍、できましたよ」

軍師は秋の空よりも涼やかな笑みを浮かべている。

「はあ。――なんです、それは」
「これはですね」

美味そうな匂いがあたりに立ち込めて、口中に唾をためた兵たちが身を乗り出している。

「精のつくキノコと精のつく野菜と精のつく木の実と精のつく獣肉および肝と精のつく川魚を、たっぷりと投入しまして煮込んだ特製スープなのです。隠し味に、精のつく薬草を細かく刻んで入れております」

軍師は満面の笑顔であった。


美味そうな食い物に身を乗り出していた兵たちは一旦さがり、目配せをしあった。ごくごく小さな声で話し合う。

――軍師様、精がつくって何回言った?
――どんだけ精つけて欲しいんだよ・・
――えっと、なあ、まさか、趙将軍とのアレに、ご満足しておられないのか・・?
――ぶッ!ありえねえだろ、趙将軍だぞ・・
――アッチもお強いとしか思えねえよな・・
――じゃあなんだろ・・
――ほらあれだ、戦の前とか後とかに精をつけて、って・・
――戦、あったっけ、さいきん・・
――ねえな・・


「その、趙将軍、がんばってください」
軍師特製のスープの配給された兵らに声を掛けられて、趙雲はすこし眉を上げた。

「うめえ・・・ッ」
「なんだこれ、うまい・・!」

「川魚の皮と骨を炙り焼きにして、出汁をとっております。香ばしい旨味を味わっていただけるとうれしいですね」

確かに美味かった。
具だくさんのスープの、滋養あふれる奥深い味わいが格別である。


「そして、本日の、狩りのご褒美は、これです」

軍師が高々と掲げたのは、大きなキノコであった。
兵たちは飲みかけの汁を噴き出す。
古今のいずれの絵よりも美しい軍師のたおやかな白い手にやさしく握られたキノコは、男のアレと酷似していた。

「これは幻のキノコでありまして、男性の精力増強にたいへんな抜群の効果があるものです。大きな妓楼に持っていって売れば、なんと金百銭両の値がつきます」

「ひゃ、百銭両!!」

狩猟でよい成果を出した組には、褒美が出るとは聞いていたが。
兵たちははっきりいって軍師のご褒美を舐めていた。
狩りの獲物を現物支給とか、金が出るとしてもせいぜい、狩りでつくった組で酒を飲みに行けるくらいの褒賞だろうと思っていたのだ。

それがなんと。
百銭両といえば半年は遊んで暮らせる大金である。

軍師の手に持たれているそれはどう見ても採れたてなので、兵らが狩りをしている間に、軍師が採取したのであろう。
天才だ、この人。


兵らはまた一歩下がり、集まった。
――趙将軍に使わなくていいのか?
――百銭両をか
――もうその話題から離れようぜ、さすがに



かつてないほどに大収穫であった狩りから戻り、主君からお褒めの言葉を賜った趙雲と諸葛亮は、それぞれに湯浴みを終えた後で落ち合った。
趙雲の居室の寝台で布団にもぐりこむ。

「楽しかったですね、将軍」
「あの精がつくスープの意味は?」
「山は寒かったですから、将軍にも兵にも温まって欲しかったのです。兵たちはずいぶんとがんばっていたので、報いたかったですしね」
「そうですか」
「山野を出歩くのって気持ちいいものですね。ではおやすみなさい」


数日後にまた同じ寝台で、

「ねえ、将軍。聞きましたか。あのキノコを売ったお金で、あの日狩りにいった兵全員で一杯ずつ酒を飲んで、残りは、民が飢えないよう冬の備蓄に回してくれと、主公に申し出たそうですよ。主公は感極まって、泣いておられました」

諸葛亮は、秋の月のように明るく笑った。





4 あたたかい夢


早朝からの軍務を済ませて一度部屋に戻ると、従者が布団を運んできたところだった。
朝晩めっきり冷え込むようになったゆえ、冬に向けての寝具である。
ずっしりと厚く綿がはいり、みるからにあたたかそうだ。

「劉備様からだそうです」
「ほう」
「とてもあたたかそうですよ、趙雲様。干して陽に当てておきますから、どうぞ今夜からお使いください」

主君の元に出向いて心遣いに礼を言うと、
「孔明に与えたのだが。あれは脂肪が薄いゆえ寒さが染みるのではないかと心配でな。だが、なんでもよい布団をすでに持っておるそうだ。其方が、使うとよい」


夕方になって、軍師に行き会った。
「軍師。布団が、俺の部屋に届いておりますが」
「ええ、軍務で冷えることもございましょうから。お風邪など召しませんように、使っていただければと思います」
「しかし、主公は、軍師に与えたのだと」
「わたしの布団は、妹の手作りなのです。お布団があたたかいと良い夢がみられるような気がしませんか、兄上、って、ね。たいそうふかふかとしておりまして、表布にかわいらしい花の刺繍がしてあるのですよ」

軍師がやさしく笑うので、趙雲も目元をほころばせた。
「よい妹御でいらっしゃる」
「ええ、ほんとうに。というわけで、わたしはこれ以上ないよい布団を持っておりますので、新しいお布団は将軍にお譲りいたします」
「ありがたく、使わせていただく」


夜になると格別に冷え込んだ。
一日の軍務を終えた趙雲は、寝具にはいって驚いた。
あまりにあたたかかったので。
武具や馬具は別として、世のたいていのことに興味の薄い趙雲は、寝具にこだわりなどはない。
だけど、これは。


お布団があたたかいと良い夢がみられるような気がしませんか?


見知らぬ少女と、軍師のやわらかい笑みが重なる。
今宵はよい夢がみられるかもしれないなとおもいながら、目を閉じた。






5 月と酒


新しく迎えた軍師とともに、月見の小宴を開いていた。
明月の静かな美しさのせいか、張飛も今宵はおとなしい。
主君と軍師が語っている横で、趙雲はふたりの会話を聞くともなく聞いていた。

「そういえば諸葛亮。そなたが酔ったところを、見たことがない」
劉備が言うと、諸葛亮はひそやかに苦笑した。
「強くはありませんもので、自制しております」
「酔うとどうなるのだ。無理強いはせぬが、一度は見てみたいものだ」
「おもしろいことは何もありませんよ、殿。眠ってしまうだけです」
「なるほどなあ」
「酔うと記憶がなくなりますし、何をされても起きないのです」
「え」

息を呑んで絶句した後で劉備はぐるんと趙雲のほうを振り向いた。

「子龍、いまの、聞いたな?」
「は?」
「絶対に、飲ませるな。諸葛亮を酔わせるな。いいか、これは命令だ!」
「はあ・・?」


主君が何を言っているのか、その時は理解できなかった。
だが、護衛に付くようになってみると。
そのあやうさを痛いほどに理解した。

酒に酔わせるだけで、意識のない身体を意のままにできるということなのだ。
かといって会談にも宴席にも酒はつきもので。
酒を勧められるのはごく当たり前のことだし、酒席では飲まないほうがむしろ非礼だ。

よって趙雲は、その生涯でいくどもの宴席において数百回にわたってこういうせりふを言うはめになった。

「我が軍師は酒に弱いのです。その杯、趙子龍が頂戴いたす」

他意のない人間にはにこやかに、うさんくさい下心のありそうな輩には獰猛にうなりながら。



ずいぶんたって、諸葛亮は明月を眺めながら劉備と酒を飲んだ。
「孔明。酔ったことはないのだな?そなたの身は守られておるのだよな?」
「人前で酔ったことはございません、殿」
「おおそうか。それはよかった。まことに子龍はいい男だな」
「ええ、・・・そうですね」

諸葛亮は白羽扇のかげでうっすらと頬を染めた。
子龍殿に飲まされて酔ったことはありますけど・・・






6 錦秋


錦秋。紅葉が錦のように鮮やかに染まる秋だった。
黄と紅に染まった森、枯れ葉が幾重にもやわらかく重なり落ちた天然の褥に、劉軍の軍師が寝転がっている。
顔は白く衣袍も白いので、白い彫像が横たわっているようだった。

足音を控えたかったのだが、秋は無理だ。
幾重にもかさなって地を覆う落ち葉が、軍靴の下で音を立てる。

「趙将軍、ですか」
「ええ」

「人がせっかく気持ちよく昼寝しておりますのに、無粋ですね」
「それは、申し訳ない」

気持ちよく昼寝していたという人の器物のような頬に涙のあとがあるのを、趙雲はじっと見る。

この軍師は、ひとりになりたがる。
ことに将兵とは親しまない。

「軍師殿」
「・・なにか、趙将軍」
「私はあなたの護衛だ。あなたが要らぬといわれてもそばにいるのだから、すこしその身と心を預けてはみては如何か」
「どういう意味でしょうか」
「主君と義兄弟のように、生きるのも死ぬのも共にというまではいわぬが。せめて笑うとき、泣くときはそばにおりますし、倒れそうなときは肩を貸します」

「わたしは、重い。肩を貸すという貴殿を潰してしまうかも、しれませんよ」
「私をお気遣いくださるのか。だが、無用です。鍛えておりますゆえ、あなたがどのように重くとも、お支えすると誓いましょう」

手を差し伸べると手のひらをしばし見つめたあと、軍師も手を伸ばした。
手が、重なる。

繋いだ手に力を込めて引くと、白袍がむくりと起き上がった。



軍師はそれからも自分から趙雲を頼ることはなかった。
趙雲のほうでは、この軍師がひとりになりたがる心の機微がすこしずつ分かるようになり、彼がひとり姿を消しそうなときに先回りすることができるという妙な特技を身につけた。

「軍師」
「・・っ」
軍師府の裏口から忍び出た姿に声を掛けると、一瞬肩がびくりとひきつり、そして複雑な表情になる。

「昼寝ですか、行きましょう」
手を差し伸べる。

手と手が重なった。
手を引いて先を歩んでいると、後ろで嗚咽がした。

趙雲は繋いでいた手を離し、彼の躰に手を回した。
難なく白袍が懐中におさまる。
軍議でも戦時でも平然としていて、冷静にも沈着にもみえる。
迷いも悩みも苦しみも痛みも。人には見せない。

「あなたはひとりではない。孔明殿」

樹の残っていた真紅の紅葉が一葉、音のなく秋風に散る中で、力をこめて抱き寄せた。






7 羊の夢


雨が降り、行軍はよけいに困難なものになった。
雲海の遥か向こうの山々は白く染まっている。
「今年は雪が早いですな」
「これ以上の行軍は危険だ。ここで野営するぞ」
「はっ」

幕舎のなかで、孔明は震えていた。
寒い。
雨ゆえに火を焚くことができず、暖を取る方法がない。
火を使わないもので食事を済ませ、あとはもう寝るだけなのだが、手足が強張り、布を敷いただけの寝床に横たわっても身体をゆるめることができなかった。

「―――軍師殿。入っても、よろしいか」
「ええ・・」
寝床の中で身を起こすと、長身の武人が入ってきた。
気遣うような表情をしていて、手には毛織りの布を抱えている。
劉備以外で、孔明に関わろうとするはこの武人だけだ。
「あの、なにか」
「お寒いでしょう。お使いください」
「いえ、・・・それは、将軍の分のはずです」
「しかし、お身体を損なわれては、この先――」
毛布は一人に一枚を支給されている。
将も兵たちも、それは同じことだ。

孔明の返答に、武人は考えるようなそぶりをみせる。
「では、こうしますか」
驚いたことに、武人は孔明の寝床までやってくると、まずは孔明の身体を覆っている薄っぺらな毛布の上から、持参した同じものを重ねた。
そして重ねた毛布の中に、入ってきた。
いわゆる同衾なのだが。劉備以外とはしたことがない孔明は少々戸惑った。
「兵たちもこうしているのです。一人一枚の毛布を、重ねて二人で使う。そうすれば暖が取れるので」
「なるほど・・」

孔明の分と、武人の分。
重ねると確かにあたたかい。
「性的な意味は勿論ありません。親愛ですらない。ただ生き延びるために、誰ともなく始めて皆がそうするようになりました」
「そう、ですか・・」

強張っていた手足をやっとゆるめて伸ばすことができた孔明は、寝床のなかでひそかにほっと息をついた。


ひとりで震えていた時よりも、ずっとあたたかかった。
おそらく毛布一枚分よりもずっと。

「趙雲殿。羊を、飼いましょう」
「・・・・羊、ですか」
背中合わせになっている。親愛すらないという野営での二人寝の、それが作法なのだろう。


「決めました。益州を領有しましたら、羊を飼う牧場をつくります。見渡す限りの広大な牧場に、何万もの羊を。主公の兵たちも、主公の民も、寒い思いをしないように。あたたかい毛布が皆に行き渡るように」

趙雲は、吐息だけで笑った。
益州の、領有。
荊州劉家からの借りものの領地さえ失った軍に、それはなんと遥か遠い目標であることだろうか。
益州で羊を飼うだなんて。
夢としては、面白いが。

「夢の話はそこまでに。もう寝ましょう、軍師。明日も、行軍です」




青い青い秋の空のしたに、広大な緑が広がっている。
点々と散らばるもこもこの白い物体はまるで雲のようだ。

「夢は、みるだけではありません。叶えるものだというのが私の持論です」
「軍師・・・いえ、丞相。あなたはほんとうに、たいした方だ」


「ねえ、趙雲殿」
「なにか」
「あの時、あなたはこうおっしゃったと記憶しております。一人一枚の毛布を、重ねて二人で使って暖を取る。性的な意味は勿論なく、親愛ですらない。ただ生き延びるためだ、と」
「は・・・、・・・そのようなことを、言いましたか」
「言いました」
「・・・・・・・」


数万の羊を放し飼いにする広い広い牧場を、散歩している。
手を、つないで。

「あなたとは幾度も互いの毛布を重ね合いました。でも、そう、・・・一度目と、二度目はまだしも、三度目からは性愛も親愛もがっつりとあった気がいたしますねえ」
「それは、―――その、そうかもしれません・・・お許しを」

いまだ頑健な壮将は恥ずかしそうに目を伏せた。
そのさまをみた孔明は声をあげて笑う。
立ち止まった二人の横を、もこもこと毛を生やした羊がのんびりと追い抜いて行った。


 









(2022/11/5)

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