星の消えた夜に・冬支度  趙孔(私設)








成都城の西側は商業の盛んな地区で、多くの商家が軒を連ねている。
いったん城内に入って馬車を降り、徒歩にて晩秋の風が吹き抜ける市場の通りに足を踏み入れた諸葛亮は、行き交う人の多さと賑わいに目を見張った。
「このように活気が…」
立派な商店もあれば簡素な露店もある。さまざまな品が並び、民が行き交って賑やかな声が響いている。
隣に寄り添う趙雲も活気あふれる様子を見渡し、声を上げた。
「ええ。これは、襄陽にも劣らない」
要衝として栄え、学問と文化の一大拠点でもあった襄陽に比べると洗練された優雅さには欠けるであろうが、物資の豊かさと活気では劣らない。
成都を包囲していたさなかも、入城後にも市場を視察したことはあったが、護衛兵に囲まれた諸葛亮を民衆は不安そうに遠巻きにしており、けして近付いてはこなかった。
賑わいが民心が安定している証拠のようでいいようのない安堵を感じるとともに、生き生きとした民の様子を見ていると心が弾んでくる。
成都の賑わいのただ中に分け入るのは初めてのことで、またこれほどの大都市の市場に私用で訪れるのはずいぶん久しぶりでもある。

病み上がりの身である諸葛亮は人混みに少しひるんでしまい、民で混み合う区域は今回は避けて、やや高級なものを扱う通りに入っていった。
錦の産地であるというとおりに絹布の品揃えが多種さまざまに豊富で、染めも刺繍も南方の趣味がはいった色鮮やかな色彩がことさら目を惹く。
西域渡来の金銀細工や宝飾品も華麗で珍しい。
茶は華北では金を積んでも買えない鮮度の良いものが並び、茶舗からは茶を煎じる芳香が漂っている。

並んだ品の物珍しさと多彩さに諸葛亮はすっかり魅了され、目を輝かせた。
その様子に趙雲は微笑した。だがやはり長く寝込んでいた諸葛亮の身が心配で、諸葛亮の歩調に合わせて殊更にゆったりと歩き、ぴったりと寄り添う。

「疲れたら、言ってください。無理はされませんように」
「ええ。ありがとうございます、趙、……子龍殿」
情を通わせたからにはあざなで呼んでくださいと乞われてそのようにしているが、呼び慣れない呼称を口にするのは気恥ずかしく、同時に喜びがわいてくる。
子龍、と彼のあざなを口にするたび、胸の奥底にあたたかな炎がともるような気がする。
「孔明殿」
そして、彼におのれのあざなを呼ばれると、乾いた心に水が満ちて潤うような心地がするのだ。



以前であれば商業地区を見ることも政務の一部だという意識があって常に緊迫していたが、いまは趙雲と共に在るときは完全に私事であると割り切って心をほどくことができ、純粋に楽しい。
弱っていた心身がこうして出歩けるまでに回復している事への喜びもあった。

「まずは冬支度を整えましょう」
趙雲の私邸は新造したばかりで、それも造成中に急遽諸葛亮が療養することになり、細々とした道具が足りていない。それらを買い揃えるために市場にやってきた。
「うれしいものですね」
「え?」
「私邸はあってもなくても、どちらでも良いと思っておりましたが。ですが、貴方と一緒に屋敷を整えていくのは本当に楽しい」
「私の方こそ…」
あまりに趙雲が優しげな表情をするので、諸葛亮はたじろいで言葉がとぎれる。
「それに、あの家は居心地がよいですが、それも、貴方がいてこそです…孔明殿」
真心をもって自分を受け入れてくれ、自分という存在を欲してくれる言葉に胸が熱くなる。はにかみつつ、諸葛亮もおのれの心情をゆっくりと言葉にかえていった。
「それも、私のほうこそ、です…子龍殿。あの家にはあなたがいらっしゃいますので、それであのように心地よいのだと…おもいます」
風光明媚な景色を間近に望み、暮らしやすく工夫したあの家は、確かに住み心地がよい。
だがそれも趙雲がいてこそだ。諸葛亮がいっときでも心の重荷を下ろして安堵のうちに療養できたのは、趙雲がいてくれたから…。

諸葛亮が設計して随所に創意工夫を凝らした屋敷は、隆中で住んだ家に似たところもあるが、かつての気楽な晴耕雨読の暮らしを懐かしむ為のものではない。
昔の思い出にひたるためのものではなく。情を通い合わせた趙雲との新しい未来をはぐくんでいく為の巣のような場所なのだという気がする。


大判の布を積み上げた店先で諸葛亮は足を止めた。ただの布ではなく、中に綿や麻を詰めて、寝床で使う布団である。
まさに探していたものの一つめだった。
「子龍殿はどのような寝具を好まれますか?」
「私はどうでも。貴方が安らいであたたかく過ごせる物を選んでください」
知ってはいたが、趙雲は本当に武具と馬に関するもの以外にこだわりはないようだ。

「いらっしゃいませ。どのようなものをお探しでいらっしゃいますか」
あれこれ見ていると、店の者が丁寧な口調で声を掛けてきた。店主と思しきよい身なりの者である。
目立たぬ平服をまとっていようとも、二人は容姿も立ち居振る舞いも庶民には見えないのだろう。
丁重に座敷に通され茶まで出され、出てきた茶の美味さに諸葛亮は感心している中で商談がはじまった。
「屋敷を新築したばかりで冬の支度がないので、誂えにきた。こちらの方が安らいで休める寝具を、見繕ってもらいたい」
「あなたの寝間にも必要ですよ」
「では、同じものを揃いで」
ものを欲しがらない趙雲はもののことをあまり知らない。ゆえに丸投げである。
南方の水鳥の羽を詰めたという軽くやわらかい布団に諸葛亮がひと目ぼれ、いやひと撫で惚れ、ひと抱き惚れをしてしまったのでそれで即決であった。
「…これは…離れたくないです…」
見本の布団に抱きついて離れず、こっそり頬ずりをしている諸葛亮の執着ぶりを可愛らしく思い、しかしそれほどまでに愛でられる布団に少々嫉妬のような感情までいだいてしまい、趙雲は苦笑した。
「それほど気に入ったのなら、城内の貴方の寝所にもお置きになりますか?」
「……」
表具の布地の見本を取りに行った店主が場を外したすきに趙雲が云うと、ひとりで浮かれていたことに気恥ずかしくなった諸葛亮は口を開きかけて黙り、布団を手放し、きれいにたたんで置いた。
趙雲が声をひそめてつぶやく。
「本音は、…政務に戻ってからも、夜は我が屋敷にお戻りいただきたい」
「…よろしいのですか」
「毎夜、私の寝間に貴方をお迎えしたいのです」
ただでさえ慕わしいというのに、身体さえ知ってしまったのだ。
このように軽くなよやかな布団を使って一人寝などしたら、さぞかし諸葛亮が恋しくなることだろう。
趙雲の手が伸びてきて、諸葛亮の頬にかかる髪をそっと払いのける。
何気ないその仕草にすら深い情が込められているように思われて、趙雲の指先がほんの少し肌に触れると、諸葛亮の胸はひそかに高鳴った。
近付いた体温が切なくもいとおしい。
無骨な指先は、諸葛亮の髪についていた白い羽毛を摘み上げる。
羽毛を払った趙雲の体温が遠ざかると同時に、布や刺繍の見本をどっさりと抱えた店主が戻ってきた。
表の布地は絹か綿か、染めはどうするか刺繍はいれるかいれないか。
冬の間、自分も趙雲もくつろいで、安らげるように。
趙雲との接触にすこし浮わついていた諸葛亮も、また真剣になって考えて決めていった。
寝具を扱う店の中は綿や羊毛の毛玉があちこちにふよふよと浮いていて、見ているとくすぐったい。
あたたかな冬の到来を期待させる光景だった。

注文した布団を後日従者が取りに来るという段取りをつけたあとは、すこし高級な部類の道具類を売る店が立ち並ぶあたりをゆっくり見て回った。
「お身体は辛くありませんか?」
「ええ。大丈夫です」
西域から渡来した新しい技術で作られた珍しい玻璃(ガラス)を商う店では、驚くほど高価な値がついている紫や乳白色の玻璃の器を眺めつつ、まだ手が出る値段である青玻璃の酒器を求めた。
器の店では土の風合いが残る素朴な茶器と、白の釉薬が美しい食器を一揃い買い、西方山岳地帯の工芸品を商う店では精緻な手織りの織物や刺繍に感嘆し、冬のあいだそれぞれの居室に敷いておくための羊の毛織りの敷き物を色違いの揃いで購入する。
全てが二つずつの揃いであるのは、秘かに心が弾んだ。

「これは、よいものでしょうか」
それまで見ているだけで口を出さなかった趙雲がそっと手に取ったのは香炉だった。
とうてい趙雲が興味を惹かれる物ではない気がして意外だったが、その銀製の香炉が睡蓮の意匠であることで、納得する。
丁寧に作られた品であることが一目でわかる、繊細な細工の美しくも可憐なものだった。
「これも、二つ買いましょうか」
趙雲が考え込みながらそう口にしたので、諸葛亮は首をかしげた。
「それぞれの居室に置くということですか?」
「いえ。ひとつは、我が家の居間に。もうひとつは、城の、貴方の政務の間に置かれてはどうかと」
「子龍…殿」
胸の奥に切なさと痛みが生じ、諸葛亮は目を伏せた。気遣われている、想われている……、政務に追われ疲れ果てていた諸葛亮に対してこの人がどれだけ心を痛めていたのかと思うと、切なくなる。
「そうですね…そうします」
目にするたび、あの屋敷を思い出すだろう。香を焚けば、守られている心地になるだろう。

「子龍殿……もう、帰りましょうか」
「疲れましたか。ええ、すぐに」
「いいえ、疲れたのではなく」
確かに疲れてはいた。少しはしゃぎすぎた。でも、そうではなくて。
「…あなたと二人きりになりたいのです」
軽く息を飲んだ趙雲に見詰められ、諸葛亮は目を伏せたのだが、趙雲が片手の指を口にあてようとするのではっとして留めた。
「馬を呼んではいけませんよ」
趙雲もまたはっとして我に返り手を下ろす。
二人ともに少し動転していた。
愛馬は伴っていないのに、趙雲はいつものように指笛で馬を呼ぼうとしていたし、諸葛亮も呼んだら馬が即座に駆けてくるような気がしていた。

「抱き上げても、いけません…」
肩に手を置かれて諸葛亮は困って軽く身を引いた。趙雲に抱き上げられることにすでに慣れてしまっているが、人前では宜しくない。
「歩けますから…」

購入した物はまとめて屋敷に運んでもらうことにしているが、香炉は大事に持って帰ることにした。
まだそれほど速く歩けない諸葛亮をもちろん趙雲は急かしたりはしないが、人目が途切れた途端、路地の物陰でそっと肩がいだかれる。
「家が、遠くて…待てません」
いつもは穏やかで優しい瞳に情が浮かんでこぼれだしているようで。片手で頬を包まれて、近付く唇に目を閉じた。

 







(2024/10/28)

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