蒼天5 趙孔


朝です。軍師殿。



ん・・・・と声をもらしながら、目を開けた。
目を開ける前から眼前に居るのが誰だか分かった。

深みのある声音、そして呼び名。

軍師殿などと呼ばれるのは人生ではじめてであるし、いま現在そんな呼称で呼びかけるのは、この世にただ1人だけだ。

趙将軍

声に出さずにつぶやくと、悪寒が走った。顔色が失せ、急いで身を起こして辺りを見回す。
ようやく見慣れてきた景色が、常と変わらず朝日の中にしん・・・・・と存在していた。

ほっとすると同時に、不可解で無様な様子を見られていたかと、おずおずと目を上げると、武人は孔明のほうには目もくれず、夜の間窓を塞いでいた板の戸を上げようとしていた。
建て付けが悪く、がたがたと無粋な音を立ててやっと上がるのは、もう毎朝恒例のことだ。

「・・・・・・趙将軍」

「は」

振り向いた武人は、簡易ではあるが帷子をつけた隙のない軍装をしていた。城内にある時、彼はほとんどこの格好でいる。
自軍の城であっても武装しなければならない時代なのだ。
孔明は、朝日を受けてにぶく光る灰銀から目をそらした。

最初、なぜ朝自分を起こすなどというくだらない仕事を、この武人が行っているか分からなかった。従者か小間使いにやらせれば済むものを。
疑問を投げかけたところ、早く自分という護衛に慣れていただきたいので、とこともなげに返された。

彼はいちばん最初に一度、諸葛殿、と呼んだ以外は、軍師殿と呼び、徹頭徹尾、孔明を敬う態度を貫いている。
年上の人だと思うと、身のおきどころがない。
それも趙子龍といえば、劉軍の若き蒼龍とまで言われる歴戦の武人だ。

「申し訳ございません・・・・毎朝、起こしていただくなどと、お手数を・・・・」

仕官した士大夫ともあろうものが朝、人に起こされなければ目覚めないなんて子どもじみている。まして召使でもなく武将として名高い偉丈夫に毎朝起こしてもらうとは、ばつの悪いことであった。

板戸を上げて眠りたいものだと思う。
そうすれば朝日が差し込んで明るくなった室内で、自然に心地よく目覚めることができるだろうに。隆中ではそうして起きていたのだ。

そうできない理由は分かっている。警護の意味で、安全ではないのだろう。

「板戸を上げて眠れば、朝、自然に目覚めると思うのですが・・・・」

「別に構いませんが」

「、え?」

あきらめ半分の口にしたことを呆気なく承諾されて孔明はつい声を上げた。

「戸を上げて眠りたければ、そうしても構いません」

意外さについ、下げていた目線を上げて朝陽を背に立つ姿の良い長身をまともに見てしまった。
武人は表情を変えずに淡々とつぶやく。

「ただ、夜、板戸を上げておくのなら、私は同じ部屋で眠り、警護します」

冗談であるのかと一瞬思ったが、瞬きのうちに本気であるということが分かった。
寝所の格子を上げておくのは良いが、だとしたら同じ部屋で警護するというのは、まったく道理に叶っている。

板戸を閉めていれば、外から破られたとしても、隣室から駆けつければ間に合う。
だが戸を開けて眠れば、侵入者があった場合に隣室にいては間に合わぬ可能性があるということなのだろう。だから同じ部屋で眠る、と。


「――・・・・・・、」

孔明は朝の自然なる目覚めを諦めた。武人が同じ部屋にいて眠れるとは、とうてい思えない。


それでいて少し明るい気分になった。

窓も開けて眠れないというのは、乱世で、物騒な世であるからだ。
だとしたらそれを終わらせてしまえば良いのだ。
戦闘もなく、豊かで平和で、夜盗なども出没しない治安のよい時代でなら、窓も戸も思いっきり開けて眠り、そして朝陽で爽やかに目覚めるのだ。

想像して孔明は小さく笑った。

戦乱を、終わらせる。
それは悲願だ。そのためだけに劉備を選び、居心地の良い草廬を出てきた。

寝衣の上から厚い着物を重ねて寝台を降りた孔明は洗顔し、髪を梳いた。
くせのない髪は、都合の良いことに寝癖がつかない。櫛で梳くと、寝乱れたことなど無かったようにまっすぐにまとまるのを良いことに、いつもように横髪を頭頂でまとめて巾で包み、あとは背に流した。

それらの作業を孔明は考え事をしながら行った。
目が覚めている間、なにかを考えていないということはほとんど無い。
劉軍に加わってからはなおさらだった。考えるべきことが多すぎるといっていい。

今朝の思考はなぜか明るい展望に満ちていた。

「・・・・・軍師殿」

呼ばれたが、孔明は最初自分のことだとは思えなかった。軍師などと呼ばれたことは生涯にあるはずも無く、こう呼ぶのはまだただ一人だけだ。

声に含まれる困惑と気遣いを不思議に思って顔を上げると、武人の帷子が目に入った。
眼前が赤い炎に包まれかけたが、それより早くゆるやかに腕を取られ、彼のほうを向かされる。手甲をつけた手が、ためらうように頬に触れた。


「ぁ・・・・・・・・」
孔明は、自分の目が涙を溜めていることに気付いた。

「―――なにに、泣かれているのですか」
問いかける武人の声はかすれ、差し出された手さえためらいがちのものだった。
表情も口調も常にきりりとした武人が、まるで童子が急に泣き出してしまったのでどうしようかと困惑しきったような。

炎を見たのは、夜だった。今は朝だ。
闇にうかぶ紅蓮と、静かな朝の光がせめぎあう。過去の記憶と、いま生きている現実とがせめぎあい、一度またたくと、透明な雫がぽとりと頬に流れもせずに床に落ちた。

「・・・・・・・・国が欲しいと、心から思います。戦乱を収め、国をつくりたい・・・・・・殺されもせず、焼かれもせず・・・・・戦に怯えなくともよい国を。窓を開けて寝て、朝日で目覚めるという国を・・・・つくりたいのです」

きっと自分は、この国のゆくすえなど、どうでもいいのだ。
地図をみれば、行くべき道筋がはっきりと見えた。領主、武力、地勢、産物、すべてがからまりあって土地の勢力が明らかに見える。学問の書を一読して理解できなかったり、記憶できなかったことは一度もない。議論をして論破されたことも無い。

大局は見えるのに、人が見えない。
きっと自分が救いたいのは、天下の万人なのではない。ただひとり、あの日の自分だ。
そして、天下の万人を救うことができれば、きっと、あの日の自分を救える。




「――主公を呼んでまいりましょうか」
言われて孔明は、いまだ涙が詰まったような喉の奥を思わぬ笑いに震わせた。

「なんと言うのです?軍師が泣いているから、ですか?」
家臣の私室に主君を呼びつけるなんて出来るわけがない。

「主公は来ると思いますが。泣いているのが軍師殿でも、あるいは私であっても」
「・・・あなたが、泣く?」
まったく恥ずかしげもない表情で精悍な武人はうなづいた。

「主公の前で泣いたことは、ありますよ。殿は言われた。
――『泣くことは恥ずべきことではない。泣けるうちはな、子龍、人は正気でいられるのだ』と。
そして・・・『まして涙をぬぐってやる他者がいるならもっと良い』・・・って」

さし伸べられた手が、濡れたまなじりをそっと辿った。
男子が朝っぱらから意味もなく涙することに何の非難も蔑みもなかった。
涙をぬぐう指先は、人としての心情からあふれ出るそのあたたかな水滴を慈しむようにやさしく触れていた。

この偉丈夫も劉備の前で泣くことがあったのだ。そして今の自分のように、あふれる雫をぬぐってもらったのか。

孔明は視線を上げた。
孔明が趙子龍を真っ直ぐに見たのは、劉軍に加わって7日目、趙子龍が主騎についてから4日目の、この時が初めてだった。

武人はおそろしいものだ。人のくせに人を虐げる獣のような輩。
だけど・・・武人も人なのだ。涙を流す人間であるのだ。



いまや東の山から完全に顔を出した旭日が室内に燦々とした光を振りまいていた。
夜明けである。

窓の外には晴れやかな空が広がっていた。
まごうことない蒼天。
孔明は窓のそばに立ち、何処までも広がる天を仰いだ。

「・・・殺されもせず、焼かれもせず。戦に怯えなくともよい国。私も見たくなりました」

吸い込まれそうな青い空に孔明は目を閉じ、背後からのつぶやきを聞いた。
涙は止めなくても良いのだ。
だけど、もう二度と自分を憐れんで泣くことはしない。人が人であるために涙が必要なものであるのなら、私は万民のために泣こう。

明けない夜がないように。終わらない乱世もないのだ、と。
信じたかった。


 










(2017/12/4)

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