ひどく暑かった一日が、終わろうとしていた。

酷暑をもたらす西日も山の端に姿を消し、日暮れより吹き始めた風が帳を揺らす、ようやく人心地がつける頃合いになった。

趙雲は読んでいた書から目を上げた。
窓辺には黒絹の髪を簡素に結った文官が椅子に座し、同じく書に目を通している。
違うところいえば、趙雲の読んでいるのが、急ぎでも必須でもない趣味教養のもので、文官が目で追っているのは急ぎであり国の大事を決する、政務の書簡であることだ。

室に慕わしい存在が居るというのは、良いものだった。
目を上げて清雅なる姿を目に入れるたび、汐のように寄せては返し満ちていくものがある。

真摯な表情を浮かべて一心に書を追う横顔を眺めて、趙雲はそんなことを思った。
城内にある趙雲の私室である。
十数巻の書簡を持参して、彼がこの室に逃げ込んできたのは、夕刻に開かれた閣議が終わってすぐのことだ。

閣議からそのまま来たのか、官服を着たまま無言で、所在なさそうにたたずむ表情を見て、趙雲は一瞬目を見開き、無言で室に入れた。
おそらくまた法正あたりとやりあったのだろう。

室に通された彼は炎暑を避けた窓辺に陣取り、黙々と書を読んでいる。
まだ読んでいない書は左側、読んでしまったものは右側に。書を開いては目を通して巻き直す、という機械的に繰り返されていた動作が完了し、左側の書がなくなった。

驚異的な速さだ。
趙雲は遅々として進まず、いまだひと巻の途中であるのだが、その間に十数巻が読破されていた。真剣味が違うとはいえ。

最後の書簡が閉じられ、ながいながいため息が吐かれた。
「子龍殿・・・・すみません。いちばん心地よい場所を占領してしまって」

突然の訪問を、しかも執務を持ち込むという無粋なやりようを恥じているのか、遠慮がちに言うのに、趙雲はかるく苦笑する。
そのようなことで機嫌を損ねるような度量の狭い男と思われているなら、心外だ。
どだい、惚れているのは趙雲のほうなのだ。
慕わしいひとが室に現れること自体が僥倖である。なにをしていようが、かまわない。

「終わったか」
「私の執務に終わりがあるような気がしませんが。今日のところは、ひとまず」
「顔色が悪い」
「そうですね・・・・すこし疲れたかもしれません」
目に疲労を感じたのか、細い指先を眉間に当てた。

肉体のより精神の疲労が濃そうな、憔悴した顔色を見て、趙雲は書を置いて立ち上がった。
「甘やかしてやろうか」
文官が顔を上げる。意外そうに眼を見張ったが、面白そうな笑みを浮かべた。
「是非」
「来い」
おどけように腕を広げて見せると、本当に来た。まぁ、此の方も来ないとは思ってなかったのだが。
自分と変わらぬ身長の、しかし半分ほどの薄さしかない躰を抱き留めた。
額にかすめるだけの口づけをし、まぶたやこめかみにも同じものを落とす。

獣同士が親愛を示すような、甘やかすだけの愛撫に強張っていた軍師の頬がゆるみ、くすぐったいとくすくす笑う瞳には、彼本来のしなやかな靭さが戻りはじめていた。

唇のそばにやわらかく撫でるだけの口づけをすると、深いところから明るさを放つような黒眸が笑みの形に細まって見上げてきたので、誘われるままに唇を重ねる。
合わさると唇が開き、かわりに眸が閉ざされる。目を閉じた白皙の容貌を見ながら、趙雲はゆっくりと軍師の唇を味わった。





ゆるやかな口づけを堪能し、華奢な肩から腕を撫でていると、ふと孔明が趙雲の置いた書に目を落とした。

「史記・・・?衛将軍驃騎列伝ですね」
ちらりと字面に目を落としただけで、なんの書のどこの部分であるかをさらりと言い当てる秀才ぶりに、趙雲はやや渋面をつくる。

「書を読むのも悪くはないのだが。時間がかかってしようがない。俺に学は向いておらぬと痛感するな」

「私も子龍殿と比べると、私に武芸は向いていないと痛感します。皆にそれを言うと、比べる相手が間違っていると、嘆息されますが」
「俺とて、誰かに言ったとしたら同じ反応だろう。軍師と比べるのが間違っている、と」
「そうですよ・・・・・子龍殿。私と学を競うなんて愚の骨頂」
「軍師殿こそ。俺と武で張り合おうなど、百年早い」

夏の宵の藍より涼やかに甘い笑声を上げ、軍師は趙雲を見上げた。

「私が貴方のことをこんなに好きなのは、私たちがこんなに違っているからでしょうか」

軽やかにもたらされた軍師の言は、肝の太さで定評のある趙雲ですら黙らせる威力があった。
反則だ、とさえ思う。

どうしてくれようか。
都合のよいことに自室である。むろん寝台もある。
不埒な思案をしはじめ趙雲をよそに、一歩離れた軍師は、すがすがしい表情でぅうんと伸びをした。

「ひと仕事終えたらおなかがすきました。夕餉を摂りに行きましょう」

趙雲の脳裏でなにをされているかも知らず、のんきなことを言う。
あまりのほがらかさに、趙雲は嘆息し、不埒な思案を打ち切った。

ここで組み伏せたところで、食い気に頭が占領された軍師は、色気もへったくれもない悲鳴を上げて抗うだけだろう。
ここは、エサを与えてからゆっくり、というほうがいいか。

「行くか」
「暑いから、魚の甘酢あんかけとか、食べたいですね。夏はやっぱり酢が疲労回復に利きますよね」
「酒でも飲みたい気分だな。お前、酒を冷やす装置だか機械だかを、発明できないのか」
「まぁた、無理難題をおっしゃるものですね。そんな自然の摂理に反すること・・・・・・そういえば益州って、氷室あるのかな。あるような気もしますね。見つけたら、こっそり子龍殿にも横流ししますよ。酒でも何でもがんがん冷やしてください」
「法正殿に聞けば、すぐ分かるんじゃないか」
「・・・・・・・自力で見つけます。期待して待っていてください」

夜の帳がおりてすっかり涼しくなった夏宵、将と軍師は肩を並べて歩き出した。

 










(2014/7/16)

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