趙雲の朝は、早い。
夜明け前に起き出して槍を振るう。

趙雲の恋人の朝は、遅い。
日が昇るぎりぎりまで夢をみる。

過ぎるほどに勤勉であるので、惰眠をむさぼることはない。
趙雲がひと汗流して居室に戻るころには起きていて、朝日よりもうるわしく微笑むのが常だった

ところが。
槍を振るい終え、井戸の水で汗を流した趙雲は、私邸の奥から発された異音を聞いた。
いつもはそっけないほど静かな邸だ。家人もほとんど置いていない。
ものが壊れる音だった。それから、あるかなきかの小さな悲鳴。

「――――孔明・・・・!?」

立てかけた槍を引っ掴み、ささやかな邸の回廊を囲む柵をひらりと越えた。
それこそ夜盗のような振る舞いだが、余裕がない。戸を蹴破るような勢いで開け、居室へと飛び込む。

ぞっとするほど、しんとしていた。

扉は閉まっていた。窓も開いていない。

居室には居間があり、さらに奥の間に寝所がしつらえてある。物音ひとつ聞こえない。

「軍師・・・・・・・」

心臓が冷え込むほどの喪失感と焦燥に駆られ、趙雲は居間を斜めに横切る。軍靴を履いた足裏で固いものが砕ける感触がした。力まかせに寝所へと続く扉を押し開ける。

視力は良いのだが、旭日のもとで鍛錬をしたあとであるせいか、ものがよく見えなかった。
帳が下りている。
居間を通り抜け寝室にはいっても、清げな長身は見当たらない。
趙雲が肩を震わせたとき、視界でなにかが動いた。
薄暗い中でなお光の届かぬ閨中に、どうやらその気配はあるようだった。


果たしてその存在は、寝台の隅にわだかまっていた。

「・・・・・・軍師・・・?」
おそるおそるというふうに趙雲は声を振り絞る。

寝具を頭からかぶり、これ以上は小さくなれぬというほど身を潜ませている。まるで隠れ鬼の最中の童のようであるが、その人物は朝っぱらからそんな真似をしてみせるほど暇ではない。
常ならぬなにかが起こっているのだ。

ごそりと掛け布が動いて、白い容貌がすこしだけ覗いた。

「す・・・いません。・・・か、鏡を、割ってしまいました」

頭からかぶった布を通しているので聞き取りにくい、弱弱しい口調であった。

「ご無事ですか―――」

無事なら、もう何でもいい
万軍の中を突破するより肝が冷えた。

趙雲はひとつ息を吐くと、持っていた長槍を壁に立て、ゆっくりと寝台に近づいた。

「具合でも、お悪いのですか」

居間のほうで足下に踏んだのは、割れた鏡だったのか。
だが、軍師のこの様子はどうしたことなのか。

趙雲の宅にあるものなど、たいした品ではない、実用本位のものだ。
この場合に大事なのは、なぜ鏡が割れたのかということであり、言い換えれば、鏡を落として割ってしまうほど何に対して動揺したのか、ということである。

近寄ると、軍師は掛け布をかぶったまま、じりじりと後退した。
趙雲は眉をしかめる。

「軍師・・・・?」

自分は何かをしたのだろうか。
これほど軍師に避けられるほどのことを。

分からない。
夕べは、抱かなかった。

あの顔、髪、肢体が目の前にあっても抱かないというのは、自制の強い趙雲であっても、容易ではない。
しかし、軍師があまりに疲労していたようだったので。
ただ腕に囲うだけにして眠らせたのだ。

細い肩が、壁際まで下がって止まる。その肩が震えているような気がするのは、気のせいではあるまい。

趙雲はますます眉を寄せた。

よほど具合が悪いのだろうか。
それとも―――趙雲のことが不快であるのか・・・・・・もう、顔も見たくない、顔を見せたくない、というほどに・・・・・・?

そうであるなら、どうすればいいのか。
・・・・・・・どうにか、しようがあるのだろうか。

真っ暗な穴のような絶望感にとらわれ、趙雲はごくりと唾を呑みこむ。
自分の思考が、先走ったものであることを、頭の隅では理解していた。

趙雲を不快に思ったのなら、さっさと寝台を降りて帰ってしまえばいいだけのことだ。寝台に隠れている意味はない。なにかに腹を立てたのなら、口に出すだろう。そのくらいには遠慮のない仲であるはずだ。

だからこの軍師の様子は、おそらく、そういうことではない。
ただ、趙雲にとってこの軍師は特別な人でありすぎて。
唯一の存在であるゆえに・・・・・趙雲から冷静な思考と行動を奪ってしまう。


やっぱり、身体の具合がよくないのだろうか。
それならば、隠れる意味が分からない。
身体が良くないのなら、無理に引きずり出すことなんて、するはずがない。

趙雲はおずおずと声をかけた。

「軍師殿・・・・・・どう、されたのですか。具合がお悪いのなら、このままお休みになっても結構ですから・・・・・どうか、ひと目、顔をお見せください」

こちらもおずおずと、顔と思われる部分が上がった。
頭からひきかぶった掛け布がすこしずれて、白珠を刻んだような顔の半分があらわになる。

宝玉にもまさる黒い眸が、ふいに潤んで滲んだ。
途方に暮れたような表情で眸を潤ませるのが頼りなげで、趙雲は思わず手を伸ばし、その肩を抱いた。

ようやく、――――触れられた。
寝具であたためられた肢体のぬくもりがひどく切ない。

驚かせないよう、強く引き寄せることはせずに、少しずつ、少しずつ、抱き寄せて身体の触れ合う部分を多くしていく。

やがて完全に抱き寄せた時、細身の身体が、ふるりと震えた。

趙雲はすこし動きを止める。いま、なにかおかしなことがあった、気がする。
震えたのは、身体だった。妙なことはない。

しかし――――頭からかぶった布もまた、なにかふるりと揺れたような気が・・・・

「軍師・・・・・」

つぶやくと、恋人は叱られた子供のようにびくりと身をすくめた。

そして――――今度こそはっきりと、頭の上で、びくびくと布が揺れた。頭の上で、だ。

「――――」

趙雲が布に手を伸ばすのと、孔明が布を手で押さえるのと、殆ど同時だった。
布への距離は孔明のほうが近かった。しかし機敏さと腕力が趙雲のほうが格段に上だった。寝具の布が宙に舞う。

「―――――――・・・・・・・!」

さすがの冷静な趙雲も、これには唖然とせざるをえなかった。
恋人の頭には、なにかふさふさとした・・・・、耳のようなものが生えていた。

どう見ても、ウサギの耳にしか見えないようなものが。

 










(2014/7/13)

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