初色12 魏孔(私設)

 


4月:そして春が来る



護衛に口付けされた。護衛に口付けされた。護衛に口、――・・・・・
どうやって戻ってきたのか覚えていないが、諸葛亮は気が付くと城内の私室でぼぅっと庭を眺めていた。貴人を訪問するにふさわしい端麗な白の長衣を着たままで、髪は船上でほどけてしまったままである。
髪を流したままで主公に合うのは非礼だからと、一旦私室に戻ったのだった気がする。
『よい、軍師。殿の元へは俺が行く』――と、護衛が言っていたような気がする。
『私室で、待っていてくだされ』――と、護衛が言って、するりと手の平で頬を撫でていった、気がする。
・・・護衛め。あやつめ、どうして口付けなんてしたのか。

周瑜との別離も、凌統に呪術を疑われ矢を射かけられたことも、胸が痛み、心が揺れ動く出来事だったが。あの男によってなされた口付けと抱擁にすべて持って行かれた気がする。
現在も続いて諸葛亮の胸は痛んでおり、心は揺れ動いている。

居ても立ってもいられなくなった諸葛亮は沓を履き、庭に降り立った。梅はもう終わって爽やかな緑の葉を茂らせている。葉が茂ってしまえば、魏延が容赦もなくばっきり折った枝はもう目立たない。
『軍師殿。俺は貴殿を喜ばせたかったのだ。美しい花を軍師殿に渡したかった。まったくそれが本心で、それ以上でもそれ以下でもない』
胸がきゅうと締め付けられる。
(―――護衛の任を、解くべきか)
理性がささやく。あれの言動には私情を混じりすぎている。それに諸葛亮自身がもう、どうあっても冷静でいられそうにない。
しかし、護衛の任を解いてしまえば。室にあれが居なくなる。あれが居なくなったらどれほど心が安らぐことだろうかと思いたいのに、すこしも安堵の念が湧いてこない。
夜更かしをする共犯者としてあの男は実に適した相手であるのだ。
熱く甘い酒が喉を通り過ぎた感覚がよみがえる。難しい政務の案件を馬鹿げた会話と酔いに溶かしてしまって、温まった身体を布団にもぐりこませ、手足をゆるませて寝入るあの心地良さ。
寝室の扉を閉じてしまえば、互いの動向は分からない。それでもあの獰猛な上に抜け目のない男が自分勝手にくつろいでいる気配には、不思議と安堵して朝まで眠れた。
あの男は自分の気ままにふるまっていたのだろうが、その傍若無人さがいつしか心地よいものになっていた。
それに、魏延が傍に付いているときは、瑣末な用件で諸葛亮の知恵を借りに来る者が激減する。どうやら勝手に追い返しているようだが、さほど重要ではない案件の解決にわずらわされずに重要な政務に没頭できるのは単純に貴重であるし、なにより、自分の時間や知恵を絞り取られて奪われているような理不尽さに心がすり減ることが少なくなった。

守られている。彼の武力によっては勿論のこと、それ以上に、なんだろう。彼の守り方は野放図で自分勝手で、けして万人に好かれるようなものではなく、事実文官には嫌われ恐れられてもいるが、それでいて諸葛亮には心地よい。
困らせられていて、時には振り回されているのに、あの図太い存在が心地よい。ああ、重症だ。

白い樹花の下に立った諸葛亮は、その花弁に指先を伸ばした。
「それはなんの花だ、軍師。欲しいのなら、折るが」
「梨の花――――・・・・・・魏延・・」
「おう」
背後から伸びた野太い手が枝に掛かり、そのままひと思いに折ってしまうかと思ったが、そうはしなかった。
「これが梨花か、古来より美人の代名詞の。白い桃花が脂粉の装いを凝らした南方の豊麗な美女だとすると、これは、北方の美人だな、光ににじむように白く細身で清廉な、どこかのお人のような」
光に透ける白い花弁を指先で摘まむように撫でたあとで、にっと笑った彼は無遠慮に諸葛亮の頬に触れた。
「触り心地もよう似ておる」
「そなたは、」
次の言葉が出なかった。
「軍師殿。室に、入らぬか。あらたまった話がある」
「・・・わかった」
諸葛亮が背を向けて数歩を歩むと、背後で枝がしなう気配がした。
振り向くと魏延が枝を折ろうとしていて、だがやわらかい枝はしなって折れずにいた。折らなくていいと言ったところで聞かぬであろうな、と諦観していると、腰後ろに下げた大刀を引き抜いてばっさりと叩き切った。
古来より美人にたとえられる梨花の一枝は、当たり前のように諸葛亮に渡された。



梨を水に挿してから、端座して向かい合う。
着付けてやった淡黄の着物はみっしりとした体躯をふわりと覆って風雅であり、髪もまたきちりと結った堂々たる男振りである。
「主君に申し上げた」
当然、兄との素っ気ない会見と、周瑜とのいささか波乱のあった別離と、凌統の狼藉の顛末であろう。諸葛亮からも改めて報告しなければならない。
「軍師は、殿を――劉備様を、当然、慕っておろうな?」
「・・・無論」
「主君として慕う以外に、特別な恋情はおありではないのだな?」
れんじょ・・・恋情?
「・・・無い」
「それを聞いて安堵いたした」
うむ、うむ、と頷いている。魏延との会話は、着地がまるで見えないことが時々あるが、まさに今がそうだった。

「殿に確かめて参ったのだ。噂によると、殿と軍師は、交わりがおありだと聞くが、事実であるのかと」
交わり・・・水魚とかいうあれか。
「殿は、わしにとって諸葛亮は魚にとっての水であるようなものだが、実際には交わっておらぬぞ、と仰せになられた。そこは重要なところですぞ、この先も交わらんとする情をお持ちではないですな、と問い詰めたが、答えは是であった」
「そなた、主公に何てことを問い詰めているのだ・・・・」
「俺は殿を裏切らぬと、申したであろうが。殿の寵愛する人を想うたら、反逆になるではないか」

なにか今、核心を突かなかったか。
沈黙する諸葛亮に向かって、対する男は核心中の核心を真っ直ぐに伝えてきた。
「軍師殿。俺は、貴殿が好きだ。想うておる。付き合うてくだされ」
言って男はがばりと頭を下げた。




綺麗な姿勢で端座したまま諸葛亮は固まっている。
返答がないことにしびれをきらして頭を上げた魏延からは端正な彫像のように見えた。
しばらくすると諸葛亮はつぶやいた。
「想うて・・いる?そなたが、わたしを・・・?」
「まさしく。想うておらぬ人に口付けたりするものか」
魏延は他者との接触は好きではない。他者の肌や粘膜を口で味わうなぞ、本来ならば虫唾が走る。
だがこの軍師に限っては別だ。
彼のあらゆるところに触れてみたいし、味わいたいとおもう。

そして、対等なものとして共に在りたい。
「俺は、役に立ちますぞ、軍師殿。瑣末な雑事を持ち込んで貴殿を悩ます輩なぞ蹴散らしてやろうし、軍師の策が行き詰まったら一緒に打開策を考えようし、なんなら武力で力押しで突破してくれよう。清廉な軍師殿がためらうような悪辣な策でも、こなして差し上げる」
ああ、しかしこのようなことは、また後のことで。本質ではない。

「恋を、してしまった。貴殿が好きなのだ」
肝心なことは、ただそれだけだ。




兵法書の語句の意味を教えたり、飲食物を分け合ったり、怪我の手当てをしたり、衣を選んで着せてやったり、弟妹にするのと変わらない日々を過ごした。
だけど、恋をしてしまった。そして、恋をされてしまった。

護衛は劉備との仲を念入りに確認して戻ってきた。
主公とあやうい関係になったことはない。本当にないが、一度でも間違いがあったならば、この男は諸葛亮を諦めていたのか。主君を裏切ることは出来ない、と。
間違いが無くて、良かった――と、おもう。それが本心だった。

「主公とそういう関係ではない・・・・良かった」
本心を洩らしてしまうことにためらいはあった。だけど。
人の命には限りがある。
「まさしく、ようござった」

恋をなさいませ―――と、言われた。
人が人として生きるのに、必要なことでありますから、と。


「魏延。恋情は、どこからわいて出てくるのだろう」
「さあて、心、というものからではござらぬか」
「うん」
欠点を持つ諸葛亮が軍師として戦場や政治の駆け引きを行うには、人としてあって当然のやわらかな心持ちを切り捨て去ることが必要だ。非情でなければ乗り切れない大局も多々あろう。それでいて人の心を持っていなければ最早人とは言えない。
諸葛亮を小心な臆病者と臆面もなく罵り、方術なんぞ使えない小者と叫ぶこの男にとって、諸葛亮は人だ。ただの人である諸葛亮を、想うているという。
人を想うことで人の心を保つことができる気がする。人から想われることで人の心をなくさずにすむ気がする。この先も、ずっと。
錯覚であるかもしれないし、互いに若気の至りかもしれない。
だけど、心の内側からこんこんとわいて出てくる想いは、確かに、いまここにあるものだ。

「魏延、わたしも、実は、恋をしているのだ」
「存じておる」
「・・・そうなのか」
さぞかし吃驚して気を揉むかとおもわれた男にあっさりといなされた諸葛亮は拍子抜けした。
「なんだ・・・相手は誰だと怒り出して暴れるかとおもったのに」
怒り狂う魏延をなだめて、相手はおまえだとばらして驚かせてやろうかとおもったのに。
「相手は、俺、であろうが」
すこし距離を開けて対峙していたのに、どうしてだか目の前にいる。
相手が近寄ったのだろうと目で辺りを確認すると、柱などの位置関係から、近寄っていたのは諸葛亮の方らしかった。
「・・・・・・・」
「俺、であるよな、軍師?」
目の前で魏延が笑う。目が笑っていない獰猛な笑顔であっても、すこしも怖くはない。
「よくわかったな」
「俺以外は、ありえぬし、許さぬ」
「うむ、おまえだ」
「―――っ!」
ぱっと、のけぞるように離れた。なんだその反応。まさか嫌なのか。
「・・・まさか、追う時は燃えるが、捕らえた瞬間に興味が失せるとかいうのではあるまいな」
「ち、違う・・っ!」
赤銅色の顔がかぁっと赤くなった。
「――俺は、人に、恋をされたことなんぞないのだ」
う、・・・なんと・・・かわいいことを。
「はじめて、か」
「うむ」
「それで照れている?」
「知らぬ」
ふいっと向こうを向いたのでにやにやしていると、ぎらりと目を光らせて顔の位置がもとに戻ってきて、更に戻ってきて、より近付いた。
「口付けますぞ」
船の上では勝手にしたくせに。と思ったらどうしたことか勝手に身体が動いていて、諸葛亮の方から魏延に口付けた。早い者勝ちというものでもないから、ゆっくりと近づける。
ふに、と重ねると、分厚くて表面がかさついていた。男相手であるのだ、と今更ながらに驚きながら少しだけ深めると、意外にも果実の房のようなやわらかい感触になった。同じ人であるのに、どこか違う質感の唇が触れている。
あ、・・気持ちがいい・・・
何度か触れ合わせてふわりとした気分になった諸葛亮は満足して離れようとしたが、離れる前に重い体躯が重なってきた。覆いかぶさるように押し倒されて、心の臓がどきりと跳ねる。
精悍といえなくもない粗削りな容貌が近づいてきており、見詰めていると、ゆっくりと口が重なった。少し離されて、まるで獣がするように舌で唇を舐められたことに驚き、ちいさく身体が跳ねた。痛いほどに鼓動が高まっている。
「・・・魏、延」
「軍師、殿」
見詰めあって、また唇を触れ合わせる。分厚い手が、衣の上から背をなぞる。ぞくりと何かが身体を走り抜けた。
呆然と見上げていると、背に回った手にぐいと引き寄せられた。
これは少々、まずいのでは・・・

どうしようかと思案していると、ふいに、魏延が首だけを後ろに向けた。
とんとん、と廊下側の扉を叩く軽快な音がする。
魏延はしごく不満そうに軍師の顔を見たが、諸葛亮は助かったと胸を撫でおろして、出ろと頷いて、身体を起こした。
だってまだいろいろと準備ができていない。主に、こころの。展開が速すぎる。

しぶしぶ立ち上がった魏延は扉を開け、外に出て用件を聞いた。
「劉備様が丘の上の桃が盛りだから酒宴を張るとのことです。軍師様も、魏将軍も、お越しください」
「ああ、あの丘の!喜んでうかがうとお伝えしておくれ」
適当に追い返して続きをするつもりであったのに、軍師が嬉々として返答をしたので、無言でじろりとにらんだ。軍師は眉を寄せ、まだ早い、と細くつぶやくので、うぬ、と奥歯を噛んでから魏延は嘆息した。


諸葛亮は手早く髪を結い直して巾に包みこんだ。
結い上がったばかりの髪を崩さぬように首裏に手を当て、白い貌に唇を寄せると、静かに合わさった。
触れ合うだけのうっとりするほど心地良い口付けの合間に、ささやき交わす。
「恋をされるのははじめてというが、恋をするのは?」
「はじめて、ですぞ」
「わたしも、だな」
「付き合うということで、よろしいのですな?」
「うむ。ただし、秘密だ」
唇を離され、そっと手を伸ばして頭部を抱くようにしながら、無意識に後頭部をさわると、やっぱりまだあって諸葛亮は手を止めた。そのでっぱりを手の平で撫でさする。
「さすったら、引っ込むかもしれない」
「本気か」
「いや、実は、すこし減ってきているようにおもう。前はだいぶ遠くから見ても一目で、あ、反骨だ、と分かったのですが。いまは触らないと分からない」
「何度も言うが、目で見ても触っても、それを反骨だと言い張っているのは、貴殿だけだ」
「これがあってよかったのかもしれない。そなたがただの武人であったら、主公も新参者を護衛に付けようなんて思わなかっただろうし」
「反骨に感謝しろとでも抜かすおつもりか」
「わたしにとってはこれも含めて、そなたなのだ」
「ふん」




前の月には蕾であった桃が見事に花開いている。
近くには桜もあって濃淡の異なる薄紅色がそれぞれに愛らしい。
わいわいとすでに盛り上がっている古参の面々に加わって杯を受け、また返杯を繰り返すと、うららかに酔ってきた。
一旦酒席からはなれて、日が暮れる間に花を愛でることにする。

追ってきた魏延が横に並び、低くささやいた。
「軍師。男が情人に着物を選んでやるときは、脱がせることを想定しているものだ。貴殿は違うとはいうまいな?」
「うむ、違う、想定外だ」
「着せたのだから、脱がせるところまでやらせてやろうというに。・・・今夜は、寝室にいれていただきたいのだ」
どきん、と鼓動が跳ねた。

夕方の風が花を揺らす。
いま盛りを迎えんとする花弁は花びらを幾枚か散らしつつも、可憐でいながら凛として咲いている。

「もう・・すこし、ゆっくりと、魏延・・・はじめての恋、であるのだから」



春である。
春がきていた。

   
 









(2023/4/16)

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