追憶と純愛 ~訪い  姜孔

 







投降後に放り込まれたのは、ひどい部屋だった。魏領では馬小屋のほうがまだましだった。
嫌がらせであろう。
蜀兵の魏軍に対する憎悪は、年長の古参兵ほど大きい。敵襲ならぬ夜討ちがあるかもしれない。
外套にくるまって壁にもたれかかり、剣を抱く。
眠るまでのながい時間、姜維は謀略にて自分を陥れたひとのことを考えた。


成都に移ると、将校用の個室を与えられた。
暗く冷え冷えとし、壁と床は石と木材が剥き出しであり、かろうじて粗末な寝台がある。
これにもまた悪意を感じたが、特にいうこともない。降将のあつかいなどこんなものだろう。
「成都の暮らしはいかがでしょうか。不自由などは、ありませんか」
部屋の選定が、この方の指示によるものではないことは明白だった。
「ありません」
実際、不自由はなかった。


兵舎の中に与えられる私室は、それから幾度か変わった。変わるたびに宮城に近くなり、広くなっていった。
蜀の将軍位を拝命した折に、成都に屋敷を構えるように劉禅に勧められた。
「必要ありません」
「そうなのか・・?」
劉禅は不思議そうに首をかしげるが、屋敷を貰ったところでどうせ帰らない。
問答しているとお妃までが出てきて勧めてくる。妃は、劉禅の味方が欲しいのかもしれない。
結局、小さいが由緒あるという建物を邸宅として賜ることになった。
どうでもよかった。
兵舎の中にある私室の方が、どこに行くにも便利である。
いちおう行ってみると、おもったより小さくはない。
さびれた中庭に常緑の木が一本、堂々とそびえ立っている様子が、気に入らなくもなかった。


「屋敷を構えるそうですね・・・行ってもいいでしょうか」
「え?」

政務の書き物をしている途中の師になにげなく言われて、姜維は硬直した。白い横顔をまじまじと眺める。

丞相が、いらっしゃる・・・?

常になく狼狽し、軍令書を上の空で受け取る。
屋敷はどうでもよいものではなくなってしまった。

ええと――古びてはいたが確か由緒ある邸であったはずだ。手を入れさせればあれは雅な風情になるのだろうか。
城門に近いゆえ治安は問題ない。訪問していただくのに危険はあるまい。
居間と客間はあったのか・・・ない事はない筈だ。それらは広くなくてはならないが。
調度を置かなくてはなるまい。
どのような?
調度などひたすらどうでもいい・・・いや、駄目だ。何とかしなければ。



さびれた居間に一人たたずみ、師を思い浮かべてみる。
目を閉じると、生家の様子が浮かんだ。
天水では名家であったので、客人を応接する居間はきれいに整えていた。
そう、長安でつくられたという高雅な雰囲気の年代物の調度をゆったりと配置し、手道具の幾つかは涼州のさらに西から渡ってきた西域渡来の華やかなものを置いていた。
几帳面な母の手で調度は常に磨き上げられて端正に鎮座し、父亡き後は減ってしまった稀な来客があった折には、高価な茶を煮て供してもてなしていた。
蜀へと投降して、智も武勇も誰よりも優れたものに為りたいと、息つく暇もないような精進の日々のなかに埋没していた記憶が次々と甦る。


姜維は目を開けた。
生家を模した居間にするのは、悪くない考えのように思えた。
郷愁にかられたわけではない。
前漢の首都であった場所でつくられたという古雅な趣の調度を配した居間は、あの御方のもつ静けさと奥ゆかしい雅趣に似合うという気がするのだ。
そしてそこに少々の、西域から渡来した珍しい手道具を置けば。
異彩を放ち、かの人の知的な好奇心をくすぐるのではないか。



長安が都であったころの遺物を成都で入手するのは容易いことではなかったが、急ぐ話でもない。
兵を鍛え軍として統制するための調練、そして諸葛亮の傍近くで軍略を学ぶ姜維の多忙な日々に、家具骨董探しが加わった。

成都の大通りを歩いてこれまで縁のなかった店に立ち寄ってみたり、遠方からやってくる商人をみつけて話をするというのは、世界が広がる感覚があった。
店を構えて商売する者、旅をして物を売り買いする者、どちらの商人たちも見聞が広く、物を見る目も人を見る目も抜け目なく肥えている。
古物を扱う豪商ともなると中華全域の地理はもちろん、史書の知識、古代の故事から当代の政経にも通じており、会話を重ねると目が開かれる思いがした。


やがて、木目が美しい古雅な調度のひとそろいに出会った。
細工の細やかな絶技はえもいわれぬ妙味をかもし、閑雅な趣も申し分ない。本当に長安でつくられたものか真偽はあいまいだったが、構わなかった。

将軍位の俸給はあるが、古い屋敷を修繕させるとそれほど残らない。
よい機会として魏領よりかろうじて持ち出した武具を手放すことにした。
魏領でまとっていた軍装やあちらの様式の武器はもう必要ない。父の形見、母が手縫いしたものだけは残し、魏を思わせるものは全て売って手放した。

「これでも、足りないであろうが」
「構いません、姜将軍」
即答に、姜維は軽く目を見張った。
「構わないのか?」
「奇貨居くべし」
懇意になった古物商は、片方の口端を器用に上げた。
それは、秦国で王に次ぐ権力を持つ相国として権勢をふるった呂不韋が商人であった頃の故事だ。

「貴公を見ているとその言葉が浮かびましてな」
「わたしは、王位には無縁だ」
「王位に就かれるとは思っておりません。だが、将軍としてご出世されるような気がしてならない」
「わたしも、そのつもりだ。わたしは蜀での立身を求めている」
将としての栄達を強く望んでいた。
それしか、あの方の傍に在るための方法がない。

「いずれ大将軍にでもなられたら豪邸にお住まいになることでしょう。その際はどうぞ我が店をご贔屓になさってください、姜将軍」
帝国軍人の最高位か。姜維は思わず笑った。
「気が長いな」
「西域の物もお探しとか。旅商人をご紹介しましょう」
「有り難いことだ。頼む」



調度を居間に運び埃を払ったあと、母がしていたことを真似て、薄く油を含ませた布で丹念に、艶を出るまで磨いてゆく。
流石に今後このようなことは出来まいが、最初だけでもそうしたかった。
落ち着いた色の織物を床に敷き、調度を配する。
白壁に西域渡来の花鳥刺繍の飾り布を掛け、薄綾の帳を巡らせ、竹簾に紫と緑の房飾りを交互に配していく。紫は父祖が好み姜家の居間に配していた色だ。緑は蜀漢の旗の色・・冀県でこの色の旗が無数にはためいていた様が思い浮かぶ。
艶やかな濃茶の卓に碧の釉薬の水差しを置き、隣に銀製の香炉を配し、竹の花入れに、裏の大木から折り取った緑葉を入れた。


「このところ顔つきがやわらかいようですが。何か良いことがあったのでしょうか」
「はい、丞相」
今日も変わらず政務の書に筆を走らせる師に言われ、姜維は凛々しくも端整な口元に笑みを浮かべた。
幾人もの豪商と交わり、中華全域を旅する大小の商人たちと親交を持てたことは、視野が広がると共に心境に良い影響をもたらしたようだった。
緊迫し張り詰め過ぎていた表情が和らぎ、何物をも斬り伏せんとする烈しさのあった武芸の技にも余裕が出来た。


蜀の将軍位を拝命し、成都の城郭内に自邸と呼べる屋敷を与えられ、そこを整えるために魏から持参した武具を手放した。
母や親戚縁者と別れ、父祖が営々と築いてきた地を離れて蜀で生きるという決意に、一区切りがついたという気がする。


「ようやく屋敷が整いました。いつでもお越しください」
「おや」
諸葛亮は書簡から目を離し、姜維を見た。
目が合うと心が震える。いつものことだが、まだ慣れない。慣れることは無いのかもしれないと姜維は思いはじめている。

「屋敷を、整えたのですか。あなたが」
「はい。わたしなりにですが、心を砕きました」
「そうですか・・」
諸葛亮は微笑した。
笑みがまぶしく姜維は目を細める。
どうしてこの方は嬉しそうであるのだろうかという疑問は、すぐに解けた。
「あなたは、自分が住むところに執着はしないとおもっておりましたので・・・住まいに心を砕くのは、良いことです」
諸葛亮の笑みは姜維の心を弾ませた。
褒められたようで、嬉しくもある。
「いざ整えようと決意すると没頭してしまいました。調度を整えるため商人に助力を乞いましたが、彼らから学ぶことが多く、ためになりましたし、楽しゅうございました」

屋敷に執着があるのかと問われると、姜維は今でも無いと断言できる。邸宅も調度品も、どれもためらいもなく手放せる。

ただ、――丞相が、いらっしゃるというのなら。
それはあの屋敷の価値であり、誉れであり続けるだろう。

「では、近いうちに伺いましょう。祝いに何か持参を・・、ああ、屋敷を見てから贈るものを決めましょうか」
諸葛亮が見るからに楽しみだという様子で笑うので、初めての訪問の約束に少々緊張しながらも胸が熱くなる。
「――お待ち申し上げております、丞相」

美しい茶器を揃え、手に入る限り上等な茶葉も求めた。
茶を煮るのは得意ではないのだが・・・何とかするしかあるまい。

「張り切ってるねえ、姜維」
馬岱にからかわれるほど、浮き立っていた。
明日になれば。
丞相が、我が私邸にいらっしゃる―――



蜀漢皇帝より政治の全権を任される丞相でありながら、姜維の師は驚くほど質素である。
馬に引かせた簡素な四輪車に乗って私邸にやってきた諸葛亮は黒の縁取りをした簡素な白袍をまとい、髪も簡素に結い上げているだけだった。
飾りのない姿がきよらかで、素衣でありながらあたりを払う気品がある。
うつくしい方であるのだ、と姜維は今更ながらに認識した。

「御来臨にあずかり光栄に存じます、丞相」
上位に対する軍礼をほどこすと、笑って袖を払う。
「政庁ではないのですから、堅苦しい礼儀は抜きにしましょう」
「は」

居間の異色な様子に目を見張る諸葛亮に型通り上座を勧め、うやうやしく茶を献じる。
日常の雑事には対しては器用ではないが、さいわい茶はそれなりにうまく煮ることができたように思える。
静かな挙措で一服を愉しむ様がいいようもなく端正で、古雅な調度はその存在をよく引き立てていた。

なにか摘まむものでもあればよかったなと思うが、諸葛亮はくつろいだ様子で感心しきりに居間を見回し、調度の見事さを誉め、西域渡来の珍宝の由来などを問うてくる。
旅の商人から聞いた地方のめずらしい品物、風習などの話をすると、ことに喜び、会話が弾んだ。

「馬岱殿が、西域産の道具を探しているのなら、いくらかあるから持っていくといい、と仰ってくださったのです。馬岱殿のお屋敷を訪問する約束をしております」
それもまた嬉しいことの一つだった。
特別な収集家が隠し持っているという可能性を除けば、成都で西域産の品、それも一級の品物が在るとすれば、馬岱の邸宅以上の場所は無い。そこは、今は亡き西涼軍閥の盟主であった勇将がかつて住んだ邸宅でもある。

「そうですか、馬岱殿と親交があるのですね」
「はい、気さくな方で、よくしていただいております」
実際、馬岱や王平ら他領からの降将である前歴を持つ者は、姜維を良いほうに見てくれる。



「そうだ。祝いに、屋敷を見てから贈るものを決めようと思ったのです。居間は見事ですので、私室のほうを少々拝見できますでしょうか」
「私室、・・・いえ、私室には特に、何もありませんので」
「それは好都合です。足りないものを、贈りましょう」
いそいそと立ち上がり先に立って歩き出す師に困惑しながら姜維は、私室、ということになっている部屋へと案内する。
先に言った通り、そこは何もない。



案内をしぶり、何故か扉を開けようとはしない弟子に痺れを切らした諸葛亮は自ら扉を開け、何もない室内に絶句して立ち止まった。
本当に、何もない。
床と柱と壁があるだけの空間だった。
調度品も、なにも。寝台すらも、無い。

部屋の真ん中に近いあたりに、雨よけに油をしみ込ませた荒布でつくられた袋が、置いてあった。見覚えがありすぎる袋だった。
「あの・・・客間はとても整っておりますのに、私室はどうして、このような」
どう表現したものかと惑うような様子に、姜維も戸惑い、首を傾げた。
「私室は、私が寝るだけの部屋ですから」
私室は、全く手を入れていない。
毎日ここに戻っているわけでもなく、兵舎内で将校が詰める棟にある私室はそのままになっており、そこで寝泊りすることの方がはるかに多い。
この屋敷も宮城から遠くはないが、宮城の中にある私室の方が、丞相府にも朝議や軍議をおこなう政庁にも調練場にも近く、食事を摂ることもできるし、沐浴の設備も整っている。


諸葛亮が一歩を踏み出すと、床がぎしりと不穏に鳴った。
客間は、端雅な調度がゆったりと配置され格調高く整えられていた。
古さが価値を持つ品であるのだろう、年月を経た美しい木目は丁寧に磨かれて飴色に艶光り、細工の典雅さを際立たせて静かな奥ゆかしさを醸していた。
西域の珍しい手道具や壁飾りが古雅な調度に対して息を呑むほどあざやかな彩りを添え。
この若さで、ここまで見事な居間をしつらえるとは。
なんと優れた若者であることか。

感心のあまり諸葛亮の胸は高鳴っていた。
姜維は真っ直ぐな性情で、武とともに知略をも極めんとして無茶をする。強い信念を持ち高い目標をひたすらに追う姿は勇ましくも頼もしくもあるが、我が身の安楽など些かも考慮しない生き様は不安を誘う。

その彼が、劉禅に賜った私邸を、心を砕いて整えたというのだ。
聞いたときは意外だと驚いたが、うれしくもあった。
魏に未練があるとは疑いもしていないが、この蜀の地に一つでも多く確かな足場を持って欲しい。
降将でありながら諸葛亮に厚遇され出世を重ねる彼に対する風当たりが強いこともまた事実であるので・・


諸葛亮は祝いを持参していない。屋敷を見て、不足していそうなものを贈ろうと思っていた。
客間は目を見張るほどの見事さであったので、では私室のほうで何か良い物をと思い、少々の非礼は承知で、私室へと案内を請うたのだった。




部屋の真ん中近くにある袋は、見覚えがあると思った通り、蜀軍の兵士が遠征の際に背負っていく袋だ。
出したままの荒布は行軍時の寝具であるし、携行用の灯かりや、簡易な調理器具もある。
いやまさかと思い近寄って目を凝らしても、それは戦時の兵が用いる品々で間違いなかった。

修繕が行き届いていない部屋は荒れ果てており、そこにひとつ置いてある袋の周囲に携行用の器具が並んでいる様はまるで、荒れた空き家に浮浪者が這入りこんで暮らしているような有様であった。

木壁の隙間からは室の中にいても感じる寒風が、頬と身体を冷たく撫でた。
「丞相」
風の冷たさと居室の在りようへの驚きに身体を震わせた諸葛亮に対して、部屋の主はそのきりりとして凛々しい眉をひそめ、そして辺りを見回して何かをさがすそぶりを見せたが、その部屋には暖を取れそうなものが何ひとつないことは自明であった。

はじめて足を踏み入れた諸葛亮にさえすぐに分かったのだから、はるかにその事実を熟知しているだろう青年は早々にあきらめ、着けていた肩衣を外して諸葛亮に差し出したが、諸葛亮はその好意を黙殺し、かわりに青年の顔を見た。
「丞相・・?」
諸葛亮がなにに対して憤っているのか皆目分からぬという表情が、更なる怒りを呼び寄せた。


「自邸の私室で、床に、行軍用の荒布を敷いて寝ている理由を、聞いてもよろしいでしょうか」

床に、というところを強調して諸葛亮が言うと、青年将校は特になんということもないという風に、応えた。

「蜀の遠征行軍の様子を知りたかったので、一式をもらい受けました。試す場所もないので、ここで」
「ほう、そうですか。蜀の行軍用の品の、使い心地はいかがでしたか?」
「工夫が凝らされていて、驚きました。・・・防寒着も、明かりも、調理の器具も工具も、何通りもの使いようがある周到な細工です。多くは丞相ご自身が工夫発明されたと聞きましたが、さすが丞相だと感服いたしました」
「誉めていただいて、うれしいですよ、姜維・・・・とでも、言うと思ったのですか」


将軍位の俸給というものを、もちろん諸葛亮は正確に把握している。
居間を整えるだけで尽きていてもおかしくはないが・・・流石にこれはない。

「どうしてあなたは、自分を大切にしないのですか」
見たこともない激しさで詰め寄る師に、姜維は動転して一歩下がりかけたが、納得できずに踏みとどまった。
「自分を大切にして、大事を成すことができましょうか。自分を捨ててこそ行き着くべきところに行けるのだと、おもっております」
「自分をいたわることも、大事を成す為には必要だと、分からないのですか」
姜維は息を呑んだ。この人にだけは言われたくない台詞だ。
「そのお言葉、そっくり丞相にお返しいたします・・!あなたほどご自身を顧みず、寝食忘れて政務に尽くされる御方に言われても、説得力がありません」
「・・・私は、休みべき時には休んでおります」
「そうですか。わたしも、休んでおります。不自由は、ございません」
実際、行軍に比べれば屋根も壁も床もある。風雨はしのげるし、草むらの虫が身体を這うこともなく、寝るのに何の支障もない。
「なんて頑固なのですか・・!」
「それも、あなたこそです!」

声を荒げて師と怒鳴り合いながら、どうしてこのようなことになったのだと姜維は頭をかかえたい思いだった。


「・・・よいでしょう。私は、泊まります。この部屋で、同衾いたしましょう、姜維」
挑戦するように諸葛亮は言い、姜維は気が遠くなった。


「じょ、丞相・・・その、丞相がお泊りになることは、想定してなく」

異民族の侵入に出征した父が戦死した後は訪ねてくる客は稀であったし、せいぜい茶菓で接待するくらいだったのだ。
貞淑な未亡人と子が住む屋敷に宿泊していく客はいなかった。

しかし考えてみれば、帝に私邸を賜るほど出世した武将の元に訪ねてくる客があれば、茶も良いが酒が必要であろうし、客房には宿泊の用意は必要だし、それなりの親交があれば私室にて同牀することは何ら意外ではない普通の事だ。

ぬかった、と悔いるが、もう遅い。

「特別な接待は必要ありません。あなたが過ごしているように過ごし、あなたの寝床に入れていただければ、それで結構ですよ」

諸葛亮は美しい切れ長の目を細め、おそろしい笑みを浮かべて、言い切った。



食事のあいだは居間に戻ってくれたが、いざ寝ようという段になると、姜維の私室で寝ると言い張って聞かない。

「次にお越しになるまでに客間を整えておきます。どうか、今日はお戻りください」
「・・・あなたは本当に。私が何に怒っているのか、理解してないようですね・・・」
「丞相・・」


おそろしいことに、床で眠ることになった。

諸葛亮が創意工夫を凝らした蜀の行軍品は優秀であり、毛布なども厚く心地良くて、姜維は寒さも不便も感じない。
諸葛亮自身も出征時には使うはずであるが、気が気ではない。
一国の丞相を床に寝かせるなど。

私室を整えておけば良かった、と姜維はつくづく後悔した。
初めての同衾がよもやこのようなものになるとは。

「お身体が、痛むでしょう」
まだ間に合う。夜であろうとも、伴をして城に帰っていただけばよい。だけど諸葛亮は帰る気はさらさら無いようで、姜維の隣に横たわっている。

「厨房もないのですね・・・」
「食事は城で摂りますので。必要が無いのです」
城で摂らなくとも成都は大きな都市であるので飲み食いに不自由はない。
「厨はよいとしても、寝台は必要でしょう・・?」
「寝るのに何の支障もございませんが」
「私は、眠れません・・・寒くて」
「じょ、丞相」


御身体をどう温めたものか・・・抱き寄せてもいいのだろうかと躊躇っていると、諸葛亮の方から手を伸ばしてきた。
「姜維」
頭部をそっと抱きこまれて、姜維は声を詰まらせた。
昼間は破格なほどに傍近く侍っているが、このように触れ合ったことは無い。
「床で、行軍用の荒布にくるまって眠っているなんて・・・あなたの御母上が知ったら、どんなにご心配になる事か」
「・・・毎日では、ありません・・・兵舎の私室には、寝台が、あります」
声の切なさに、強く言い張ることはできず、小さく抗弁する。

頭部を包んだ袖からえもいわれぬ高雅な薫香が漂い、触れ合った箇所では膚のなよやかな感触が感じられ、姜維の心を否応なく震わせる。

「あなたは高みに手を伸ばすあまり、足元をおろそかにしているように思えます。はるか高みを目指すならば、地盤をおろそかにしては、なりません」
「・・・そ、・・・」

近付ぎる距離に、聞かされている言葉が入ってこないのだが、たいそう慈愛あふれる諫言をなされているのを心に留めた。


「姜維。私はあなたに、もっと自分を大事にして欲しいのです」

それはそのまま、わたしがあなたご自身に言いたいことです。丞相。
と、言いたかった。だけど姜維は喉元まで出掛かった言葉を呑み込んだ。
「はい、丞相」
目を閉じて、姜維は返答した。



私室を、整えなければなるまい。
実は少し前に劉禅妃から、文と共にまとまった額の金子を賜っている。
雅であるが古びた屋敷ゆえ、綺麗に改築してから下賜しようと思っていたのに、姜維が身一つでさっさと移り、自費で修繕してしまったことに驚いたようだった。


寝台を作らせて寝具を揃えなければならぬ。
調度も入れなければ。
明日にでも商人を訪ねよう。
くつろげるように。心地よく過ごしていただけるように。

「丞相は、何色が、お好きであられるのですか」

返答はなかった。
姜維を抱き込んだまま、師は眠りに落ちていたのだ。








「寒くて眠れないと、言っておられたのに。わたしは、一晩中、眠れませんでした・・・丞相」

姜維は、古い屋敷に一人、佇んでいた。
大将軍に、なった。
いつかの商人が言った通りに大邸宅を構えている。
予言した商人はとうに亡いが、彼の息子、孫から、ずっと調度を買っている。

古いほうの屋敷は、手つかず取ってある。
若き日に、生家を模して整えた居間。
馬岱から譲り受けた見事な碁盤が、ひときわ異彩を放っている。
幾度も、それで対局した。


何もない床で初めてあの方と過ごした夜のことは、まるで昨夜のことのように鮮やかな記憶がある。

頭部を包んだ袖の香りも、膚の感じも。
懐かしく慕わしいその気配のすべてを覚えている。

―――姜維。私はあなたに、もっと自分を大事にして欲しいのです。

大事にしております。
だって、あなたの年齢を越えて生きている。
あなたこそ、ご自分を大事になさってはいなかったではないか。

星が落ちるように逝ってしまった人。
あなたに逢いたい、丞相。

追憶は身を苛み、已むことない慕情は甘く切なく胸を焦がし続ける。

「姜大将軍、出立の刻限です」
「分かった」

宮城も、政庁も、旧邸も。あなたとの思い出に溢れているが。
北征の最中が、最もあなたを身近に感じることができるのだ。

「行ってまいります。丞相」


 









(2022/12/3)

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