夜が明けようとしていた。
どうやら雨の朝だった。



one scene of rainy morning




趙雲は牀に寝そべったまま、身支度に励む恋人のようすを見ていた。
こういうのはなかなか無い。
趙雲のほうが先に起きだして身仕度をととのえ、しかるのち恋人を起こすことが多いのだ。
ただし今日は休日であり、まして雨ともなれば早朝に飛び起きるいわれがなく、趙雲は牀上でくつろいでいた。
趙雲と違って出勤の軍師が引きずるように身を起こし、物憂い仕草で仕度をはじめるのを、趙雲は新鮮におもいながら見守った。


孔明が髪を結う。
つつましやかであった外観がたちまち謹厳なようすに変化する。
夜着をしずかに落として白いひとえを着込み、淡色の袷衣をかさねる。一枚かさねるごと、ただならぬものを身につけているようだった。
まず怜悧、次いで思慮、その上に智恵がかさなるといった具合で、趙雲は目を見張るほかない。
沓を室内ではく布のものから文官用のものに履きかえ、清廉な長袍に袖を通せば完成だった。
もはや睡夢さめやらぬなまめいた風情は片鱗すらのこっていない。
閨房のなごりを留めて参城するはずもないことながら、このようにいとも簡単に変容されて趙雲はいささか複雑である。仕上げとばかりに巾を取った白い手を見ておもうことがあり、趙雲はするりと牀をおりた。


目をつけたのは、軍師の指先である。
孔明はすでに政略におもいを馳せて双眸に叡智を宿らせていたが、己の手を取った恋人をみて、張りつめた眼光をやわらげた。
「子龍?」
起き抜けであるせいか、声はやわらかい。
「いえ。爪が少し――しかし、文官であるから良いのでしょうか」
「爪…、すこし伸びているでしょうか。それがなにか?」
多忙により切り忘れて久しい孔明の爪は、指の先より外に出ている。
しかし不精というほどでもないようにおもえるが…
「あなたが――武人が、爪の手入れを気にするのですか?そういうあなたは――」
握られた手はそのままに、孔明は逆の手で伸ばして趙雲の手を取る。握られているほうの手を見ればよさそうなものだが、それは思いつかなかったらしい。
野戦に出ては先陣を駆け、城にあっては警備に調練にと多忙の任に就く趙雲の爪は、孔明が見るところ意外にも平らかに切りそろえてあった。
「武人であるゆえ、手入れは怠らぬもの。念入りに手入れしているわけではありませんが、爪の先が割れて傷つくと、武器の扱いに難儀するのですよ」
「あ、なるほど――」
策謀百出といわれる軍師は、虚をつかれて息を飲んだ。
肩や腕に大傷を受けるよりもときとして爪さきのささいな怪我のほうが、槍が扱いづらくなるときがあるのだという。雑兵相手ならなにほどでもないが、大将格が相手となると、ささいな傷が生死を分かたぬともかぎらない。
「それで手入れをかかさぬというわけですか。なるほど立派な心がけですね」
感心しきりというふうに軍師に頷かれては趙雲も面映ゆい。当然のことであって、誉めてもらうようなことではない。
「ではあなたに見習って、わたしも短くしておくといたしましょう」
「あ、いえ。できればそのままが良いですね」
軍師はすこしむっとした。
「それでは理に合いません。文官とてこの乱世に、剣も槍も一切持たぬという心構えでは心もとない。それとも、わたしは武器をもてぬほど脆弱だとおっしゃいますか?」
「いえ。理じゃなくて…どちらというと情なんですが」
憤然とした口調になった軍師に武人は困ったように苦笑をもらし、どうしようかなとというふうにすこし考え、やがておもむろにするりと肩はだ脱いだ。
突発的にさらされた鍛えた裸身に、軍師は唖然と目をみはる。

つねに前線で槍をふるう武人のこととて、半身には大小の傷痕がはしる。
そのなかにあってひときわ新しい擦過傷がみえた。鋭利な刃物につけられた傷ではなく、ごくごく薄小の凶器が食いこんだような。
「あ」
軍師はちいさく声を上げた。
「…」
孔明は黙り込む。いつ付けたのか覚えないことながら、まさしく自分の爪が食いこんだ痕であろう。
…謝罪したほうがよいのだろうか。しかしそんなことを謝罪するのはなんとも間抜けではなかろうか。
困惑に沈黙する軍師は、もじもじと身じろぐ。
先ほど衣とともに身につけたばかりの威厳がほろほろとこぼれ落ちていることに、趙雲は、ややもすれば人が悪いととられてもおかしくない笑みを浮かべた。
「これはですね、あなたが達するときにつけたのですよ、軍師」
それで爪が伸びているのだなと思ったのですが、そのあとすぐにそれがしも極まったので、言いそびれてしまいました。今朝になって身支度するあなたを見て、思い出したのです。
「…」
孔明は沈黙したままだ。
いったいこの状況で、何が言えるだろう。
「軍師はいつも薄衣でも脱ぐようにたやすく閨事の名残りを消してしまわれる。だからこの傷痕は、たいした戦利品です。明日からそれがしは巡察の任で城を留守にしますが、この傷を見るたび軍師を思い出すでしょうよ」
軍師は顔をよそに向ける。すでに耳までほのあかくなっているのに、武人はわざわざ追いうちをかけた。
「もっとも思い出すまでもなく、それがしが軍師をおもわぬときはないですが…」
「…」
孔明は何か言いかけてはやっぱり止め、また顔を上げては思い直して下げるということを繰り返し、ついに口をひらき、
「…、…遅れそうですね。もう出なければ」
とぼそぼそ呟いた。
しかしこのまま逃げては沽券にかかわるとでも思ったか、ふいに顔を上げた。
「…戦利品などと大げさなことを云います。そんな傷、2、3日で消えてしまうでしょう」
趙雲は破願し、端正な容貌に極上の笑みを刻んだ。
「帰ったら、またつけてください」

軍師は酷く視線をさまよわせ、ついでくるりと背を向けた。
つれなくも無言で立ち去ろうとする背に、趙雲はあわてて声をかける。
「すこしお待ちください軍師。雨で道が悪いでしょうから、城まで送ります」
言いながら上着を羽織って帯を締める。洗顔は布で顔をこすることで良しとした。
それらをすませて追いかけると、すたすたと歩をすすめてとうに視界から消えていた軍師は、なんとも形容しがたい表情で厩のまえにて待っていた。


   
 










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