Please teach riding to me


「手綱を持つときは、軽く握ります。あまり強く掴むと馬に苦痛を与え、緩めると操作が出来ない。ゆるまず張った状態に保つことです」
「・・・うむ」
 とりあえず丁重にしといたほうがいいか、と選んだ言葉は、尊大な頷きで返された。
「座るときは腰を落とさずに。脚で馬腹を締めるように、軽く浮いた状態で」
「・・・・うん」
「締め付けすぎてはなりません」
「・・・・・・うん?」
「脚で合図して方向や速度を変えさせます。常に締め上げていては、馬が合図を察知するのが鈍くなります」
「・・・・・・・」
「聞いておられますか」
「う、む」
 とうとう返事すらしなくなった相手に少しばかり苛立ちを感じた趙雲が、じろりと相手をねめつけるも、返ってくるのはとてつもなく尊大な頷きだけである。
 趙雲は嫌な気持ちになった。中華では古来から武官より文官の地位のほうがずっと高い。文治主義を標榜している文人の中にはあからさまに武将を軽侮した態度を取るものがいるが、これもそういう輩なのだろうかと、失望を感じずにはおれなかった。片腹痛いというような軽い失望ではなく、腹の奥から苦々しくなるような失望である。

 この乱世に何スカシてやがんだ、ああ?文官が戦でなんの役に立つってんだ!?

 張飛ならばこう罵声を吐くだろう。  事実、彼と張飛の相性は最悪で、あんな若造がなんの役に立つか、と張飛は彼に対する嘲笑を隠そうともしない。
 趙雲とて過剰な期待があったわけではないものの、主君である劉備はもう若くない。早いうちに天下をうかがえる領地や兵力が何としても必要なのだ。彼の前にいた徐庶が使える男であったいうこともある。天才だとか臥した龍だとかいう風聞を信じてはいないものの、それなりの知恵者であろうと思っていたのだが。
 期待があっただけに失望も大きい。まして趙雲は、この若者の護衛を命じられたばかりだった。
 
 
 劉備の前で彼はとても愛想がよかった。主騎として趙雲に引き合わされた時もにこやかに拱手して「よろしく頼みます」などと殊勝げに頭を下げた。武人へのさげすみなど感じなかったし、すらりと背の高い立ち姿は抜き身の刀身を思わせる怜悧さで、やや線が細い印象はあるものの、まず非の打ち所なく見栄えよい。
  
 鼻持ちならない態度をとり始めたのは、趙雲と二人で視察に出ようという段になったときだった。
 趙雲の引いてきた馬をじっと見た彼は、馬に乗るときの心得をつまびらかに語ってみせよ、と命じた。趙雲が面食らうほどの語気の強さで、見上げる両眼は猜疑に満ちていた。
 学問のかたわらに農耕をして生計を立てる日々から一転して、戦場の匂いを濃く漂わせる己のような男がいきなり護衛につくなどと命じられて戸惑っているのかと、趙雲はなるべく丁重に、言葉を選んで説明をした。それに対する反応は、上記のとおりごく冷たいものだったのだ。
 「ふむ」だの「うむ」だの傲慢な反応をされ、やがて返事さえもしなくなった軍師に、ついに趙雲は黙った。付き合っていられぬという気分だ。
 憮然と黙り込む趙雲と馬を見比べて、文官はあごに指をあてる。細い顎であり、細い指だった。
「・・・・視察は、後日にしよう」
 道服の裾をさばいて、新任の軍師は姿を消してしまった。   


 
 若い軍師の評判はひどく悪かった。軍になじもうとせず、あちこちで論争を起こしている。論戦を挑んではそれにことごとく勝つというのだから、評判が悪くなるのは当たり前である。張飛とぶつかることが最も多く、そのたびに劉備が止めにはいる。
 そんなことに趙雲は興味なかったが、ときおり一人でいなくなることだけには閉口した。護衛というのは劉備から与えられた軍務である以上、うんざりしながらも居なくなった細身を探して回るしかない。
 新野は城というより砦で、それも小規模なものだったが、人ひとりを探すのはそれなりに骨が折れる。

 その日、例によって姿が見えなくなった軍師を探し城を一回りして庭をくまなく見て回っても見つからず、趙雲は本当にうんざりした。城外を探すしかない。
 厩へと歩を進めた趙雲はそこで意外なものを見た
 劉軍の誰も着ない長袍で身を包んだ長身が、厩舎に佇んでいる。それだけなら良いのだが、ふらふらと馬へと近寄っている。趙雲は色を失った。
「近づくな!」
 大声に驚いたものか、軍師が振り向く。華奢な文官沓がつまづいた。馬がいなないて蹄を上げる。悍馬の蹄が地に振り下ろされる間一髪で、趙雲は文官を引き寄せた。肩口をかすめて風を切る蹄をやりすごす。 
「・・・馬に後ろから近づくと蹴られます」
 普通の馬でもそうだが、戦に出すために城で飼っている軍馬はとにかく気が荒い。
 馬をなだめるために手を伸ばしかけて、趙雲はそれがひどくやりにくいことに気付いた。
 細い手が強く袖を掴んでいるのだ。
 何事かとおもって見るも緩む気配がない。
「軍師・・殿?」
 彼をなんと呼びかけたら良いのかすこし迷った。新任の軍師は真っ青な顔をして呆然としていた。
「・・・こ、―――」
「こ?」
「――怖かった・・・」
「は?」
 聞き間違いかと耳を疑う。血が流れていないんじゃないのかあの冷血な白面野郎、とは張飛が吐いた数限りない罵詈雑言のひとつである。いぶかしげな趙雲の声音に顔を上げたその白皙の容貌が、趙雲の視線とぶつかった途端に音を立てそうな勢いで朱に染まる。驚き騒いだりすることとは縁のない趙雲の度肝を抜くほど、それは珍奇な眺めであった。
 
 


馬に乗ったことがないのだ。

それが彼の告白だった。
ついでに言えば、仕官をしたこともないのだという。
人と付き合うこともあまり無いし、協調してなにかを成し遂げようと思ったこともない。
もっとも無いことは、人に頭を下げて教えを乞うということである、と彼は胸を張ったが、そこは胸を張るところなのだろうか。
「わたしは素直に、貴殿に馬に乗る心得なりコツなりを、伝授してもらおうとしただけなのだ」
「素直に?」
 この人物の印象からかなり遠そうな言葉を、趙雲はつぶやく。
「素直に?」
 もう一度繰り返してしまったのは、なにも悪意からではなく。この軍師との会話を最初から思い出して、どうしても腑に落ちなかったゆえである。
 趙雲の反応に、軍師は顔をしかめる。
「もうひとつある。わたしは武人というものに接するのも初めてだ」

 仕官して主に仕えている文官に会ったのが初めてだったから、会話を交わして教えを乞おうとしたのだが、すぐに相手の話の順序などがまどろっこしくて仕方なく、ついそれを口に出していたらいつの間にか論戦になっていた。
 武将というものなんか近付いたこともないので親交を深めようと会話を始めたらなぜかいつも相手から罵声を浴びせられるので、おもわず反論していたらいつの間にか怒鳴りあいになっていた。
「この陣営の方々は皆、劉備様をのぞいて気が短い。わたしはとても謙虚に振舞っているつもりなのだが・・・」
「・・・・・・・」
 趙雲は絶句した。二の句が告げない、という体験をしたことはあまりないが、まさしくこういうものなのだろう。
「――では、軍師・・殿は馬の乗り方について、素直に俺に教えを乞うたわけですね、素直に」
 ようやく声を絞り出した趙雲に、軍師はまたうっすらと頬を染めた。
「い・・や。貴方に対してはあまり素直でなかったかもしれぬ。その・・まず初対面でナメられないことが肝要だと、徐兄・・いや徐庶殿が言っていたから」
「初対面で、ナメられないこと?」
「そう。喧嘩を売る場合は、それがなにより大事なのだと、昔教えて貰ったのだ」
「―――」
 なぜ、主騎(護衛)との初対面で喧嘩の売り買いに関する助言が適用されるのか。
 突っ込む気力はもはや趙雲に残されていなかった。

    




「だいぶ、上手くなったではないか、なぁ趙雲」
「は」
 劉備は歓声が、趙雲にはかえって嫌味に聞こえた。劉備はすなおに誉めているのだと分かっているのだが。
 孔明の手綱さばきは、はたで見ていてそら恐ろしくなるほど危なっかしいものだ。
 それでも馬の背に乗るなり視線の高さに蒼白になり数秒で降りていた頃よりよほどマシになったとは言える。
 馬の上でしゃんと背を伸ばせるようになったのは、趙雲が「移動は輿で良いのでは」という投げやりな意見を言った直後からのことだ。屈辱で真っ赤に染まったその時の彼の顔を思い出すと、ため息のひとつも吐きたくなる。  
 この頃では既に自分は馬に乗れるようになったとすっかり思い込んでおり、「馬の背で受ける風は心地が良いものだ」などと言ったりする。劉備がそれを手放しに誉めるものだからたまらない。このようなへたくそな乗り手を教えているのが自分だという事実に趙雲は絶望感すら覚える。
 孔明は、「自分の乗馬の師は趙子龍である」と公言してはばからない。それだけはやめてくれ、と嘆願したのだが、「わたしのような馬に乗ったことがない者でもこのように立派に乗れるようになったのだ。貴殿は名教師であるぞ」と偉そうに誉めてくれる始末。恥ずかしさを通り越して薄ら寒いものを感じる。
 かぽかぽ、と呑気な馬蹄を響かせて、孔明が手綱を繰る。  
「劉備様、来ておられましたか。何か御用でも?」
「いいや。そなたの姿が見えたものだからな。いや、乗馬の腕が上がったではないか。たいしたものだ」
 どこだが、と内心で嘆息する趙雲の心境も知らず、孔明は顔を輝かせる。
「そう思われますか。実はわたしもそうおもいます。この生きものには少なからず怖れを抱いたものですが、今となっては信じられない。風が、心地よいのですよ。ああ、少し駆けたくなってきました。宜しいでしょうか、劉備様」
「もちろん」
 頼むから止めてくれ、と趙雲は念じたのだが、劉備はいともあっさりと了承する。
 甘すぎるっ・・・!

「じゃあ、子龍殿、行ってくる」
「駆けさせるのはまだ無理です」 
「大丈夫」
 馬上にて微笑する容貌はたいそう麗しかったが、馬の方向を転換するときの動作は、「のたり」という形容がふさわしい。あろうことか、そのまま彼は踵で馬の腹を蹴った。加減とか適正とかいう言葉をまるで無視した容赦ない蹴りっぷりで。ひと呼吸置いてのち、当然のように馬は駆け始める。
「――孔明殿!・・・なぜ止めてくれないのですか、殿」
「そのほうら、いつからあざなで呼び合っておるのだ」
「何を言っておいでか」 
 血の気を引かせた趙雲は馬を呼ぶのももどかしく自らの愛馬に走りよって飛び乗った。 
 駆けさせたりしては落ちるだろう、あの腕では。   
 いつもならばとっくに珍妙な叫び声を上げているだろう孔明は、静かだ。劉備にいい所を見せたいに違いない。存外しぶとく手綱にしがみついているが、背も腕も硬直しており落馬は時間の問題と思われた。
 俺が行くまで頼むから持ちこたえてくれ。
 ほとんど天に祈るような心境で趙雲は愛馬を疾走させた。
「しばらく帰ってこなくて良いぞ。どこぞ景色の良いところでも走って来い」
 どこまでも呑気で楽天的な主君の声が、背に届いた。


   
 








先生は仕官するまで馬に乗ったことがなくて、乗馬の教師は趙雲に違いないとご意見を頂いたもので。こんな感じかなぁと書いてみました。おいしいネタを下さったM様、どうも有難うございます!



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