桜 花 之 庭
「どうした、孔明。花は見ないのか?」 「見てますよ…」 そういえば孟起はわたしを軍師とは呼ばないなと、桜を見上げてぼんやり考えた。 あのあと、執務の部屋にぶらりとあらわれた馬超の誘いに乗って、外に出てきてしまった。 無断で抜け出したのではなく、近侍の文官には告げてから出てきたが、職務放棄にかわりはない。 「以前は軍師とか軍師殿と呼んでいましたよね…。いつからでしたか?あざなで呼ぶようになったのは…」 「さあな。覚えておらん」 花どきの昼間とあって、桜並木では人々が花見を楽しんでいた。 車座に座り込んでにぎやかに飲み食いする人々の場所を、遠巻きに避けて歩く。目立たなくするために馬には乗ってこなかった。 小高い丘までくると人影はなくなった。日当たりのよい草の原は殺風景だが、草原が森林にかわる境目の手前がわに、一本だけ桜の木がある。 大きい木なので立って見上げるのは首が凝るということで、さっそく馬超はごろんと横になる。 きれいに結って冠に押し込んだ髪が乱れるので孔明はおとなしくしゃがんでいたが、ごいっと腕を引っ張られて強引に寝転がされた。 桜の薄紅色は青い空によく映えた。 流れる雲も、うすぼんやりと霞んだ空も、戦乱の世だということを忘れそうなのどかさである。 どこかに行きたいな、と孔明は考えた。 此処ではない、どこか。 逃げ出すつもりはなく、信念を捨てはしないと思いながら、時々そう考えてしまうのだ。あるいは、そう考えることで一種自分を哀れんでいるのかもしれなかった。 「俺はずっと馬家の若様と呼ばれていた」 とうとつに馬超がしゃべりだした。 「俺はずっと若様と呼ばれていたんだ。生まれたときから馬家の継ぐ跡取として周囲に扱われた。 俺の親父は煩いことは言わなかったが、馬家には親族が多くてな。伯父や叔父やら爺やらわけのわからん血縁がひっきりなしに出入りして俺に煩くかまうんだ。 武芸の稽古は進んでるかとか、槍はまあまあだが弓はまだ甘いだとか。勉学もしろだの人の上に立つものの振る舞いはどうのだの、とにかく煩くて仕方なくて、俺はしょっちゅう逃げ出した。 すると今度は弟たちが追ってくる。大哥(あにうえ)大哥、とな。 弟たちは可愛くなくもなかったが、俺はとにかく一人になりたくて、昼も夜も砂漠を駆けていた」 馬超の目には得体の知れない冷たさがあって、孔明はわずかにたじろいだ。 馬超の話は淡々とつづいている。 「だが、不思議なものだ。あれほど煩く思っていた者どもが、喪ってみると懐かしくてかなわないんだ」 「劉備軍はめちゃくちゃなところだな。君主はいまいちなにを考えているのか分からぬし。 各将の武勇はすごいが酔っぱらいもいる。おまけに劉備がもっとも信頼しているという軍師ときたら、」 「……」 「気位の高そうな、この世で自分がいちばん賢いと思ってそうな、俺のいちばん嫌いなタイプかと思ったら、ほんとうに気位の高いこの世でいちばん自分が賢いと思ってるタイプだ」 「…誤解です」 この世で自分がもっとも賢いなどとは毛ほども思っていない。 むしろ自分ほど愚かなものが、軍師の役を務めることが恐ろしくなることがよくあるのだ。 以前は劉備にも趙雲にもそう言っていたが、いつからか誰にも言わなくなってしまった…。 「しかも、この軍師は煩い。小言は言うし文句は多い。この俺に面とむかって叱り飛ばす。すぐ手は出る上に酷いときには脚まで出る」 「…煩くないです。わたしは。ただ、」 ただ、入蜀直後の馬超は尊大で不遜な言動が多かったから。 劉備が叱りつけるのは今後のことを考えると拙いし、張飛ではまっさきに刃傷沙汰になる。 趙雲に頼むという手もあったが、けっきょく自分でやったほうが早かったので、孔明は非公式に馬超を叱り飛ばした。それも徹底的に。 「あんまり煩くて、俺は、その軍師をいっぺんで好きになってしまった」 馬超の話しかたはなめらかでない。 それこそ幼いころから名門の跡取として弁舌や駆け引きも叩き込まれているはずだが、そんなふうには少しもみえない。 その言葉にはおそらく嘘も飾りもない。 好きになってしまったとは、やや劇的な言葉だなと孔明は思う。 ただ好きというのなら、たとえば猫より犬が好きだとか、或いは饅頭の中身は肉より餡のほうが好きだったりするが。好きになってしまった、というのは、本人の意思がそこに働いていない。そのぶんただ好きであるというより深刻なのだ。 「一人になりたいと思っていた俺は、おそらく自由が欲しかったのだろう。が、一人になっても、別に自由ではないな。 すべて失ったところで、俺は俺だ。俺は、俺自身であることをやめられなかった」 なにか言わなくてはならない、と孔明は焦燥した。 馬超の過去はあまりにも有名で、蜀でも士人なら知らぬものはないが、馬超自身の口から彼の過去の一片たりとも語られるのを聞いたものはいない。 だから、馬超の心中はだれも知らない。 数百におよぶ身内をいちどきに殺戮され、仇敵をあと一歩まで追い詰めながら詐略によって大敗をきした。家族にひとしいものに離反され、そして、生き残ってしまった。 その怒りも寂寞も、絶望も、悲哀も、悔恨も、憎悪も。だれにも推し量ることさえできないものだ。 彼がこんなに多くのことを語ったのは、なにかためになる教訓を垂れようとしたのではないと思う。 それでも彼は孔明のために、それを言ってくれたに違いないのだ。 人はなにから逃げられても、自分自身からは逃げられないのだと。 桜はもうすぐ満開なのだろう。桜の咲いている期間はみじかくて、咲いたとおもったらすぐ散ってしまう。 気のはやい花びらが、風にふかれて舞っていた。 そんなに散り急がなくともよいのにと思うけれど、花は無心に咲いて散る。 「…孟起。もう戻ります」 ほかにもっと言わなくてはならないことがあるとはおもうのに、――たとえば、ありがとう、というようなことを――孔明はけっきょくそれだけしか言えなかった。 「…もう、少ししたらな」 「いえ。執務が、溜まっていますから…」 立ち上がろうとする孔明の腕をぐいと引っ張りながら馬超はむっくり体を起こし、孔明の髪をはたはたと払った。 いつのまにか髪についていた薄紅色の花弁が、ひらりひらり青空に舞う。 馬超は孔明の頬にてのひらをあてた。 「うん。あまえが泣き止んだら。そうしたら、連れて帰ってやろう」 泣いてなんかいないと言いかけて、孔明は気がついた。 たしかに、涙は流れていたのだ。
こんなにしゃべる馬超はたぶんもう二度とないだろう…。 |