古 恋 鳥
軍師孔明は、庭に立っていた。 孔明自身の屋敷の庭である。 猫の目のような三日月が、朧に霞んで浮いていた。 遅咲きの桜が強い風に吹かれて、はらはら、ひらひらと舞っている。 混じりけがなく澄んで白い、八重咲きの桜の花だった。 庭の木の大半は、新しい緑の葉をつけている。 その遅咲きの桜もつややかな緑の葉が枝を覆い、花が散るといってもはかなげな印象はなかった。 結わずにおろした射干玉の髪が風に流れるさまや、白い花がその髪に落ちかかり、かと思うとまた風に吹かれて飛んでゆくさまを、歩幅にして2歩か3歩はなれたところに立っている趙雲が見守っている。 武人らしく精悍にひきしまった容貌にあって、目は眼前の光景を愛でるように細められていた。 どこかの梢で、鳥の鳴き声がすることに趙雲は気づいた。夜も鳴く鳥はめずらしい。あれはなんの――― 「春は、奇跡的です」 軍師が、真面目くさった顔で呟いた。 「花が咲くときもそう思わないでもないのですが、新緑が出ずるときは、尚いっそうそう思う気持ちが強くなります」 軍師がすこし理屈っぽいのは、心に思うことをなるべくそのまま伝えようして、真摯に言葉を探した結果である。 軍師を見守る趙雲の目は、微笑のかたちに細まった。 「あなたも、奇跡的ですよ」 「ええ?」 思わぬ過剰な反応…孔明がほんとうに吃驚したように振り返ったので、趙雲は曖昧に微笑した。 つい口に出してしまった言葉が、いまになって面映ゆい。 「わたしが、――奇跡的だなんて。どうしてでしょう。わたしが巷間でいわれているように、風を呼んで吹かせたりしないことは、あなたはよく知っているでしょうに」 「…そういうことではないのですが」 たしかにかの赤壁大戦の折、孔明が東南の風を呼んだと噂する輩は多かった。 孔明自身がおおげさなほどの祭壇をおごそかにしつらえ、祈祷の真似事をしてそう思わせるように仕向けたのであったが――― 風は季節柄、時期的に吹くべくして吹いた。 孔明のおこなった祈祷は、呉の本陣から離れた場所にわが身をおき、劉備軍との合流をしやすくするための方便だった。 自身で赤壁の陣ふかく潜みいって孔明を救出した趙雲は、そういう計略を前もって知らされていたので、いまだ劉備軍のなかでも畏怖の目で見られる孔明の神秘性を、誰よりも信じていないはずだった。 「ならば、どういうわけですか?」 「いや、それは…」 探究心のつよい軍師は、まっすぐな目でぐいぐい趙雲にせまった。 じっさい二人の距離は、あと一歩どちらかが踏み込めば沓どうしがふれあうまでにせまっている。 「子龍どの?」 「いや、軍師、それは。たとえば…」 …それがしを、惚れさせたこととか。 内心でこっそりひとりごちて、思いついたその文言の身も蓋もない赤裸々さに、趙雲は照れてしまった。 こんな言葉はしらふで言えるものではない。考えにのぼったことさえ気恥ずかしいたぐいのものだった。 しかしながら、考えれば考えるほど不思議としかいいようがない。 趙雲は十代のはじめから戦場に立ち、またあるじも幾度かかえながら各地を転戦してきた。いまでは生まれ故郷からとおく隔たった地にいる。妻帯したことはなく、妻にしたいと、或いは一生をかけて守り守られつつ傍にいたいと思うほどの恋情が芽生えたことすらいちども無かった。 それが、この軍師と出会ってからは――― はじめて顔をあわせたときからじわじわと惹かれ、時を重ねるにつれ想いはつのり、……いまでは片時でも離れがたい。 「たとえば?なんなのですか。気になるではありませんか」 「…軍師どのとそれがしが出会った。それも奇跡的だとおもわれませんか」 「ああ…」 みっともなく慌てることもなく、それらしいことを言ってのけることが出来たのは、趙雲の踏んだ場数のせいか。 情緒的なセリフに、軍師もそういうことかと納得したようにうなづき、思いをはせるように遠くを見た。 思いが受け入れられたことも、また奇跡だったのかもしれない… 本気の恋情には遠かったが、女性とはそれなりの経験はあった。 しかし同性を恋うるということは考えたこともなかった。戦場ではめずらしくもないこととはいえ、同性と身体をつなげるというようなことはしたことはなかったし、したいとおもったことすらなかった。 それが、この軍師と出会ってからは―――…… 趙雲の思考は、さきほどと同じところにもどってゆく。 「…子龍どの?」 いつのまにか、ふたりのあいだの距離はなくなっていた。 覗きこむようにしてくる軍師の顔は、ふれあわんばかりに近い。 「………」 趙雲は、高さは自分とそれほどかわらないところにある、しかし格段に細くて薄い肩を両腕で包み込んだ。 ああ、もう…… 「抱いてしまっても、いいですか…?」 「…いま抱いているではありませんか」 「そういうことではなくて…」 すこしからかうように口元に笑みを含む軍師の手に、趙雲は真剣な表情で自分の手を重ねて、真摯に言葉を繋ぐ。 趙雲はなぜか追憶の中の、はじめてそれを懇願したときのことを思い出しており、そのときと同じことを口に出していた。 「あなたが欲しいのです…孔明殿」 わたしを受け入れていただきたい―― かつては、そんなふうに続けた…。 どうしてかわからぬが、今宵はむかしのことばかり思い出される。 「…そんなふうに言われると…、むかし、はじめてあなたにそう言われたときのことを思い出します」 風に乗るかすかな、軍師のつぶやき。 なぜか急によみがえったむかしの記憶に引かれている趙雲をからかうどころか、孔明もおなじ思いにとらわれたようだった。 むかし、といっても何十年も前のことではない。 ほんの数年まえのことである。しかし、さまざまなことがあったせいか、非常に長いながい時間をともに過ごしてきたような気がする。 そのあいだには大きないくさがあり、数え切れないちいさな謀略があり戦闘があり…その大部分の出来事をわかちあいながら、ともに過ごしてきたのだった。 なにか思い出したのか、軍師の目がすこし潤んだ。 花のような唇をかすかに微笑ませて。瞳は穏やかな思慕をたたえている。 「わたしも…あなたが欲しくなった…子龍」 どちらともなく、ふたりの顔は近づき合った。 花の降る庭で、やわらかく、厳粛なまでに静かで深いくちづけをを交わし合う。 軍師の肩を抱いて部屋に向かう途中、夜も鳴く鳥が、木の梢のどこかで鳴いていた。 それなりに地位も俸給もあるのに、孔明の屋敷は質素だった。 ほとんど寝に帰るだけのための家であるせいか、家具なども最低限のものである。 それでも、多忙な主人がせめて夜だけでも安らいで過ごせるようにとの使用人の心づくしで、夜具はふんわりとここちよくしつらえてある。 趙雲は部屋の奥にある寝台に孔明を座らせておいてから、扉の錠をおろしにいった。 誰かに開けられる心配はほとんどないのだが、錠をおろすことで、秘め事の雰囲気はいっそう高まる。 出入り口の錠はおろしたが、庭に面した窓はすこしだけ開けておいた。季節は往く春を惜しむ候であって寒さは感じず、すずやかな風だけがときおり流れこんでくる。 趙雲ははじめての夜にそうしたように、寝台に腰かけた軍師にくちづけた。 抱擁で彼を包み込み、さいしょの夜のように、頬に口づけたあと唇に接吻する。 唇からずらしていき、顎の線を辿り、幾重にも重ねられた着物の衿からのぞく首すじへ。そこからもう一度顎の線を辿りながら上にのぼり、耳のうしろがわを舌で舐めたとき、軍師の体はかつてと同じようにびくりと反応した。 彼が感じはじめ、息があがるのを待ってから、帯を解いたのだった… 趙雲の脳裏は不思議なほどの鮮やかでさいしょの夜の手順を思い出し、手と唇が記憶どおりの場所を辿っていく。 あの夜から数え切れない数の逢瀬を重ねているというのに、軍師の体は鮮烈だった。 白い肌の内側には彼自身でさえ気づいていない情感がひそんでいて、趙雲はそれを丹念にさぐりだしてゆく。 「…ぁ…っ」 記憶と異なるのは、孔明の反応が、さいしょのときと比べ物にならないほど早いこと…。 「そんなふうに腰を揺らされると…どうにかなってしまいそうです」 「…ん…」 軍師は上擦った吐息をこぼしながら、恥ずかしそうに視線をそらせた。 重ねた逢瀬のぶんだけ、孔明の体は感じやすい。 「…子龍……」 丁寧な愛撫では物足りないというふうに、孔明の腕は趙雲の背にからみついた。 逞しく鍛えられた武人の肌と、文人の白い柔肌と、異質な質感が触れ合わされ熱を重ねる。 ぴったりと肌を合わせあったまままた深いくちづけを。 舌をさぐりあててからませれば孔明もまた応えてくる。交歓、という言葉がぴったりくるような甘さで…。 長いくちづけを終えてみれば、軍師は熱に潤んだような目をしてうすく唇をひらいて横たわっており、趙雲は彼の視線を意識しながら、ゆっくりと小卓の上から壺をとりあげた。 逢瀬にかならず持参する小壺―― それを目にしただけでこれから為されることを容易に予想したのだろう、軍師はそっと目を伏せた。 繊細な睫毛が震えているのは、羞恥なのだろうか…。 趙雲はひたすら優しく、そっと軍師の足を開かせる。いかなる痛みも恐怖も。そして屈辱も。孔明が感じることのないように…。 壺のなかで芳香をはなつ香油を指にからめ、そっと孔明の下肢の奥がわにすべらせる。 本来ならば、獰猛な雄の証など受け入れる縁のない筈の場所… 「孔明殿…お許しください」 おもわず…さいしょの情交のときに言った言葉がそのまま零れた。 薄い粘膜をいささかでも損なわぬよう、まず入り口で円を描くように指に掬った香油を塗りこめてゆく。 「…っは…ぁ」 軍師は震えたが、嫌悪ゆえではなかった。孔明は色に染まった頬を隠すように趙雲の逞しい胸に顔を埋め、細い息を吐く。 趙雲はふたたび小壺に指を浸し、刺激と期待にひくひくと収縮しはじめた後孔へ、再度香油を運んだ。 軍師の体に無理なこわばりがないのを確かめながら、そっと指を埋めこむ。かぐわしい香りを放つ油質のたすけをかりて、趙雲の指はなめらかに軍師の体内へとはいりこんだ。 「ぁあ……ん」 軍師はみじかくあえいで趙雲の指をきゅっとしめつけ、それを恥じたように趙雲の胸に頬をすりよせる。 趙雲はあいているほうの腕で、当代最高と評される頭脳がつまった高貴な頭部を、己が胸に抱き寄せた。 …受け入れられたことも、また奇跡だったのだ――― 趙雲が同性と体をつなげることに興味がなかったのと同じように、孔明もまた同性との情交を好む性癖などもっていなかった。 まして男同士ならば、受け入れるほうの負担は何倍も大きい。 清廉な気質…そして矜持高い気性の軍師に、体の奥底で雄の欲を受け入れて欲しいと願うなどということ――叶えられると思うほうがおかしいのだ…。 ゆっくりとした、しかしじらすのではない動きで、趙雲は軍師を蕾を開いていった。 「あっ……っぁ」 孔明の息づかいがそれとわかるほど早まる。 武人の逞しい指を含みこんだ下肢を揺らめかせて、ほっそりとした内股がひくひくと震えていた。 くちゅ…と音をたてて指を抜くと、軍師の全身がびくびくと震える。 額にかかる癖のない髪を掻きやりながら、白い脚のあいだに体を割り込ませた。 熱い屹立が触れると、軍師は息を吐き出して目を瞑る。 孔明自身はなにも言わないが、挿入するこのときばかりは苦痛を与えているのではないかと趙雲は危惧している。本来なら性器ではない場所なのだから無理もないのだが…。 このときだけは、交歓という言葉が遠ざかり、加害者のなったような思いに苛まれる。 「……お許しください」 「、…―――あっ」 重複した趙雲の謝罪に目を開けてなにかいいかけた軍師は、男の屹立が埋め込まれる圧倒的な感覚に悲鳴をあげた。 苦痛というより、圧迫感だった。 衝撃に耐える軍師の顔は、しかしひどく悩ましい。細腰がしなやかにうねり、花の茎のようにのけぞった喉が震えるのが、武人の眼前に晒される。 奥までひと息に貫き、すぐにでも突き上げたい衝動をこらえるため、趙雲は眉を寄せた。 欲望どおりそうしても、趙雲との性交に馴染んでいる軍師の体を傷つけることはないだろうとは思う。しかし… やがて逞しい武人のものはすべて軍師のなかにおさまり、軍師は震える喉からながいため息を吐いた。 趙雲はすこしずつ体をずらし、体躯を折り曲げて軍師の唇にくちづける。 舌をからませて吸ううちに軍師の大腿は揺れはじめ、趙雲は孔明を気遣いながらも繋がった腰を前後に揺すりはじめた。 執拗に香油を馴染ませた軍師の中は、やわらかく溶けて武人を包み込む。 熱く溶けて締めつけてくる内部に歓喜し、趙雲は細腰を引き寄せて更なる深みをもとめて腰を進めた。軍師は全身を震わせて、ぎゅっと趙雲にしがみつく。 「孔明…殿」 「…子龍…ぁ…もっと」 これ以上、深くなど… 趙雲は目を閉じて軍師の体に己のそれをぴったりと合わせた。深く目を閉じると、深淵で繋がっているような感覚が脳裏に押し寄せる。くりかえし起こる、波のようなうねり―― 重ねあわせた下肢で、孔明の中心がひどく熱を持っているのがわかった。 彼も、感じている… 息を吸い、吸った息を吐き、趙雲は動き出した。 深い、深い充溢感――― 『お慕いしております、軍師』 『孔明殿。あなたを、いとしくおもう心がとめられない――』 記憶が、津波のように押し寄せる。 遠くまで、きたのだろうか。 いや。 なにも変わっていない――……? 「…あっ…ん…あ…子、龍…っ」 「孔明、…っ」 抜き出しては、さらなる深みをもとめて彼の中へ。 いつしか、深淵で波に呑まれていた。 猫の目のような三日月が、中天を過ぎて傾きかけている。 月のように美しいぬくもりが、趙雲の胸に沿っている。ぬくもりは、ため息のような吐息をこぼして身を揺らした。 「…交合の最中に、あやまる人がありますか」 敷布に零れる黒い髪を掬い上げて、趙雲はくちづける。 「お許しください」 やわらかな非難につい謝罪の言葉を口にのせてしまった趙雲は、美しい恋人に睨まれて曖昧に微笑んだ。 軍師は肘をついて体を起こし、武人に迫る。 「わたしも欲しくなったのだと…申し上げた筈ですが?わたしも、あなたを選んでうけいれたのです。そのうえでも謝るのならば、それは――わたしに対する侮辱です」 「そうかもしれませんが…」 困ったように眉を寄せる趙雲に、軍師はすこし目を細めた。 「なにかありましたか…?子龍、今夜のあなたはさいしょから、すこしいつもと違っていたような気がしますが…?」 澄んだ聡明な、そのうえに情事のあとの甘さを残した眼差しに、隠し事などそうそうできはしない。 「どうしてかは分かりませんが…今宵はなぜかむかしのことばかりが思い出されるのです」 あなたと出会ったことのことや…あなたとはじめて…夜を過ごしたことなどが。 色の薄い軍師の唇をなぞりながら。趙雲は隠さず白状した。 隠すようなことでもないが、すこしばかり気恥ずかしくないこともない。趙雲は苦笑まじりに言ったのだが、軍師は思いがけず真摯な視線で受け止めた。 そうですか、とつぶやいて、軍師は目を眇めた。 「実は…わたしもそうだったのです。でもそれが不思議なこととは、おもいませんけど…」 「…なぜですか?」 意外さに趙雲がすこし驚くと、孔明はすいと視線を、うすく開いた窓の外に向けた。 窓の外にあるものといえば、月と散る花。風に揺れる若葉と…。 「聞こえませんか?あれの初音が―――」 「初音…ああ…」 夜のしじまをぬって、どこかで鳴いている鳥の鳴き声。 初音とは、その年、その季節にはじめて聞く鳴き声という意味だが、「初音」という言葉を使う鳥は、二種類しかない。 すなわち、ウグイスと、ホトトギスと。 ウグイスは春を告げる鳥であり、ホトトギスは夏の到来を告げる鳥だった。 「そうか。ホトトギスでしたか…」 どこか納得したように武人は頷き、軍師は窓からひとすじ流れる風を薫るように目をほそめ、唇に笑みを含ませた。 「もちろん、たいせつなのはいまと、それから未来ですが。…ときおり過去をふりかえってみるのも、悪くありませんね…」 軍師がそっと顔を寄せて、趙雲がそれに応える。 静かに唇が重なった。 過去も、いまも。共に在る。願わくはどうか未来もともに――― 誓いと願いの両方を込めて、ながいくちづけを交わし合う。 ホトトギスのまたの名を、古恋鳥(いにしえこうるとり)。昔を偲んで鳴く鳥だといわれる―――。
ふ…ふふふ。「宵待人」の意味もわかんない揺が「古恋鳥」の意味なんて知らねーだろと思うでしょ?
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