男の顔が近づいたかとおもうと、一瞬、いや一刹那ほどの儚さで髪にくちびるが触れた。

「―――なにか?」

 孔明は、書簡をたぐる手をとめなかった。止めれば震えてしまいそうだった。蜀各地に赴任した地方官からよこされた地形や地産などの詳細な報告書をたぐる手を休めずに孔明は、不可解な行動に対する問いを発する。男は問いには応えず、細首に手を添え、雪白の首すじに口元を埋めた。
 
 益州においてもっとも多忙をきわめる軍師の室に入り込み、礼も挨拶もなしにいきなり抱擁に持ち込む男のやりようは、この上もない無礼であろう。
 だが、無礼をとがめる他者はいない。男は並み居る文官を、ただ視線ひとつで追い払ってしまったのだ。睨みさえもせず、一べつをくれただけである。文官たちはむしろほっとしたようだった。孔明はほとんど休憩を取らない。早朝からこちら夕暮れになっても休みなしに執務を押し進める軍師に付き合って、勤勉な者でも内心では悲鳴を上げていたのだろう。

 南方[牛]建為郡、道のりは連綿と続いて五千里。山並みはあい連なり渓谷を懐に抱く。琥珀、丹砂、石青、江珠、瑕英を産する。
 西方岷山付近、広野には草生い茂り山すそは樹々でうす暗い。各種の植物がおびただしく生息し山中には薬草が多く芳香を発する。産するは青珠、黄環、青石、芒硝。

 孔明は目を止める。青石は矢じりの良い原料となる。樹木がおびただしく生育すというのなら大量の弓と矢を造ることも可能であろう。矢は戦場の最たる消耗品で、いくらあっても足りるということがない。この機に備蓄しておくが良策かもしれない。
 樹を切り青石を掘って、成都近郊に運ぶのが良いだろうか。それとも職人を派遣し人夫を募って、現地で加工するのが良いだろうか。孔明は地図に手を伸ばす。それから軍の編成書にも。さしあたり矢は各軍に何本必要か。いや、そもそも弓兵部隊そのものが足りない。簡易な戸籍簿を広げた。徴兵をするしかあるまい。各郡・各県の戸数と人口は、それから―――
 

 軍師の細い指は、神経質な手つきで書類を繰る。卓のすみに巻かれた書簡に手を伸ばそうとして、できなかった。後ろから喉もとを辿る手が顎に触れて、書に向かっていた顔の向きを変えさせたからだ。

「なにか、ご用でありましょうか。あいにく、わたしには政務の途中ですので、貴殿と戯れている暇がないのです」

 声は震えていない。冷たく澄んでいた。孔明はすこし安堵して、冷ややかな笑みをつくる。
 
「用がおありにならなければご退室を。・・・武勇錦綺のごとく名だたる貴君のお誘いを無碍にすることは、誠に残念なのですが、またの機会を頂戴いたしたく―――」

 水のごとく平坦に云った台詞が終わらぬうちに、軍師は小さく声を上げた。
 あろうことか、男が喉もとに噛み付いたのだ。
 孔明は咄嗟に息を止める。
 恐怖を感じないといったら、嘘になる。自分の首など、この男にとってはいかようにも出来る細さであろう。まさか喰い千切りはすまいが、片手でへし折ることは容易いに違いない。男がどのような表情をしているのか見ようとしたが、視線は合わなかった。

 男な手指の動きによって、髪が揺れた。髻を縛っていた織り紐は中途半端にほどけて結いのくずれた髪の半ばに絡まり、落ちてきた髪束が肩にわだかまる。
 乱された髪はもとより、噛まれた喉もとを思って孔明は苛立った。鬱血しているに違いない噛み痕を隠す為に、明日以降しばらくの間よほど襟の立った衣服を着なければならない。
 痕は、いつまで残るのだろう。それに・・・
 この前につけられた痕さえ、まだ消えてはいない・・のに――・・・
 知らぬまに書簡を持つ手に力が篭り、木片をつらねたそれは手の内できしりと音を立てる。
 孔明の周囲は書簡で埋まっている。史書に戸籍に軍編成、地図、報告書、命令書、軍への指示書から文官からの意見書、法に関する覚書・・・それらの竹簡木簡を此の方の都合など毛ほども気づかわぬ男に向けてぶちまけてやったら、いかほど胸がすくことだろうか。只の雑兵であれば、躊躇いなくそうしてやるのに。
 糾弾することが許されるならば、声を大にして罵ってやりたい。立場をわきまえぬ非礼を。此の方の矜持を踏みにじる非道を。言葉をつくして弾劾してくれるものを。
 噴き上げる感情のかたすみで、理性がささやきかける。

 価値の大きい男だ。分かっているだろう。手もとに飼っておいて損は無い。利用価値の高さを思えば、特に噛み付かれるには目をつむれ・・

 卑屈な思考に吐き気をもよおし、孔明はきりと唇を噛んだ。
 不埒な手は固い蕾のごとくかたくなに合わさった長衣の襟を強引に押し広げ、ゆるんだ衣の隙間から侵入した手はほころびをさらに広げようと画策する。
 先ほど噛まれたまさにそこ、細く尖った顎の下の、薄い皮膚に覆われた喉もとをふたたび軽く甘噛みされ、孔明は詰めていた息を慎重に吐き出す。身体から力を抜き、持っていた書簡を置いた。
 このままでは、卓の上で事に及ばれる。
 どうせ止まらないのならば、好きにさせ、さっさと終わらせたほうが良い。

 視線で隣室の扉を指した孔明に、男は眼だけをかるく細めた。
 おそらく、笑ったのだろう。
 それだけでも珍しい。凍りついたような無表情は峻険のひとことに尽き、笑わぬ口元は険しさをはらんで引き締まり、ゆるむことはめったにない。容姿だけならば華も艶もある偉丈夫であるのに、それでいて全身から発する気配は獣の冷厳と獰猛と、そして孤独に包まれている。
 男色の気などかけらも無い孔明を力で征服した男。
 言葉はかろうじて通じるが、情理はまるで通じない。
 初めて組み敷かれたとき孔明は、やめよ、やめぬならば人を呼ぶ、と激昂した。獣のように孔明の上に乗り上げた男は、呼ぶのなら、呼べ。かまわない。と、獣の静かさで云った。そして待つそぶりさえみせた。
 人など、呼べるわけがなかった。降将が主君の寵深き軍師を害しているさまが人の耳目に入ったら、謀反として処断するよりほかにないのだ。そのさい失うものははかりしれない。助けなど、呼べぬ。孔明は顔をそむけ唇を噛み、泣きながら犯された。
 隣室へつづく扉までほんの数歩の距離である。にも関わらず男は孔明を抱き上げ、戦利品でも運ぶような上機嫌で隣室への扉を開けた。






 機密の集中するゆえ執務の部屋には窓がないが、隣室のほうにはある。明かり取りといった風情の小窓で、眺めを楽しむほどの大きさはない。ただ、射し込む夕陽の赤みが殺風景な部屋に、一時まやかしのような華やぎを加えている。
 夕陽が赤いことからすると、明日は晴れるのだろうか。
 どうでもいいことを無理に思い浮かべる。次いで隣の部屋に残してきた政務のことを考えようとした。軍事が先か、行政を整えるのを優先さすべきか。治水、農耕、賦役、地方への官吏の出向、それから徴兵・・・題目が浮かんで消えるだけで、考えるまでには至らない。運ばれながら肌をそっと撫でられただけで呼吸が乱れそうになる。暴力に対する怯えではない。馬超は孔明に傷をつけるような抱き方はしたことがない。
 馬超との交合による利益を、冷静に計算しようとした。
 利はある。
 無口で尊大で、武名がことさら大きいだけに周囲からくっきり浮き上がっている将が、孔明にだけは特別の執着を見せる。なぜ自分なのかという疑問は解けない。だが、なにか繋ぐものが必要なのだ。何も無ければ、この男は気が向いたとき、風のように居なくなってしまう気がしてならなかった。

 もとより孔明は自分の身体に対する愛着が薄い。女のように孕む心配も無い。
 ただし理知の部分とは別に、情の部分では戸惑わないわけにはいかない。清廉を良しとする理性が、男に抱かれる自分を受け入れない。
 相容れない理性と感情を渦巻かせながら、孔明は息を詰めていた。長衣を剥がれ牀にそっと横たえさせられて、つとめて単調に息を吐く。牀台に上がってきた馬超は、戎服を着たままだった。 


 ひどく無防備に違いない喉のくぼみや首の線を吸われながら肌をまさぐられれば、望んでもいないのに肌がざわめく。喉に苦いものがこみ上げた。馬超は体躯といい愛撫といい過ぎるほどの熱が篭っていて、冷厳を保とうとする孔明でもその冷たさを維持するのが難しい。
 追い詰められるような圧迫に焦燥しながら、孔明は理性を保とうとした。このような情愛の通わない交合で我を失うのは嫌だった。
 強張った背をなだめるように動く手が神経に棘を刺す。
 なにをしたいのだ、この男は。欲を吐き出したいだけならば、己のような面倒なものを相手しなくてもよいはずだ。
 おとしめたいのか?――ならばなぜこんなふうに触れる?
 辱めたいならば挿れる処だけを解して揺さぶれば良いものを。
「・・・っ、」
 まだ熱を持っていない雄のものを布越しに刺激されて孔明は小さく声を上げる。それを弄られるのは、慣れない。無骨な男の手がそんなものを愛撫することが、いまだに信じられないのだ。
 それから無骨な男の手に触れられて、背筋が痺れるほど感じるのが。信じられない。
 そこに愛撫を加えることを馬超はいつもためらわない。
「や・・め・・ぁっ――」
 口付けもまた暴力的ではなく、深く口唇をあわせて舌をからめてくるものだった。
「ぅ・・ん・・っ」
 背が痺れているのが快感だと思いたくない。舌が震えているのが欲情だと思われたくない。
 舌を吸われると、じくりと甘みがあふれ出した。逃さぬとばかりに頭部を押さえる手が首裏にからみつき、口付けがいや深くなる。あたたかい唾液が口に広がり、含まされた舌がますます濃く絡んでくる。くちゅりと水音が響き、すこし離れた口唇がまた戻ってきて、唾液をなめてまた重なった。
 局所への愛撫が再開されて、高められていく感覚に背筋が震える。淫靡な感覚から逃れようと足を動かしても、牀台に押しつけられている身では衣の裾が乱れるばかりで、刺激をねだっているような形になった。
 頭部へと手が回されていて首を振ることもできない。逃げ道を塞がれているような感覚に涙が浮かんだ。
 形ばかりの抵抗は功をなさず、布越しでのゆるい刺激にさえ息が湿るのを止められなかった。勃ちあがりかけたものをゆっくりと撫でられている。たまらず孔明が喘ぎだすと、その泣き声を聞こうとでもするように口づけが解かれた。なぶられている、という思いが強くなって目が潤んだ。
 
 弓なりに反れた背に手を回され、太い腕に抱き寄せられると、触れ合う下肢の熱さに下腹部にまで痺れが走った。 
 背に回る腕はそのままに、局所をなぶっていた手がゆるりと動いて腰をまさぐり、布越しに双丘のはざまを撫でた。
「い・・やっ」
「軍師」
 少しだけ、かすれた声音。呼びながら口唇が重なり、大きな手は熱をこめて背や臀部までも撫で回している。なぶられた孔明のものは勃ち上がっているが、馬超が熱を帯びているのかどうか分からない。孔明の薄着は、帯をつけたまま胸のところまで肌蹴ているのに反して、馬超は衣を乱していない。無防備な肌に触れる戎服のざらりと堅い感触が、犯されているみじめさを助長した。

 孔明は衣を掻き合わせて起き上がろうとして横向きに転がり、今度は背後から抱き込まれた。長身の孔明より更に長躯に抱き込まれてすっぽりとおさまる。すこし安堵した。表情を見られなくてすむ。
 やわらかい耳たぶを甘噛みされて孔明は息を震わせる。こみ上げるのがおそらく性感だということを認めたくない。快を拒む精神とは別物に、甘美としかいいようのない痺れが体内に広がり、下肢の疼きを誘った。
 耳の後ろを舌でなぶりながら馬超の手は襟元から入り込み、潔癖な肌をなぞり始める。後ろから抱き込んで首筋を吸い、片方の手が裾を割った。
「ぁっ、・・」
 どこか強張った孔明をなだめようとてか、裾から下肢に手をやるなり馬超は孔明の雄に触れてきた。じかに握られた感触に、脳裏がかっと熱くなる。立ち上がっている。濡れている。感じているのだ、己のそこは。男に、触れられて・・・
 くびれのところを指がなぞり先端を練るように撫でられると、ひそやかに開いた割れ目から透明な液がにじみ出る。無骨な指がそれをからめて茎根をこすりはじめた。潤みがなくなると先端に戻ってそっとそこを愛撫する。先端の割れ目を指先でこすられると、はしたなくも蜜があふれ出、甘美な刺激が孔明を襲った。蜜液を指にからめた馬超はふたたびくびれをさすり、茎の部分をにぎりこむようにして上下にゆすって孔明をもだえさせた。
「ぁ、・・・あっ」
(こわい)
 こんな感覚は知らない。欲情などというものから遠く己を隔ててきたのに。
 夕暮れ時とはいえいまだ日は落ちてない。欲に駆られてやってきたのならば、面倒な前戯にふけらずともさっさと吐き出して去れば良い。そんな罵言を吐き出したくとももう声が出ない。
 こわい。なんだろうこれは。初めてというわけでなし、乱暴をされているのでなし、たかが欲を吐き出し合う行為になにを怯えているのか、こわい、と泣いてしまいたくなった。そんなことをしたらきっと声を上げて笑われるだろうに。

 無骨な手でこすりたてられてあふれた蜜液が花茎の薄い皮膚を伝い落ちる。下肢から響いてくるみだらな水音をいやおうなく耳に入れながら孔明は敷布の頬をこすりつけて喘いだ。
 馬超は背後から細身の肢体を囲みこんでいた両腕をすこしゆるめ、胸元をさぐっていた片方の手で白い大腿にからみついた薄布をあられもなく広げ、無防備な手触りを愉しむようにさすった。潔癖な孔明の肌も愛撫にとけつつあり、潤みをおびて手に吸い付いてくる。しかし手触りを堪能するのも惜しいとばかり、馬超の手は双丘の狭間を割り広げた。
 奥処の触れられて孔明はぴくりと震えた。怯えが深くなる。孔明の反応を読んでいたように馬超は前への愛撫を強めて孔明を鳴かせた。
 体のゆるんだ隙を縫うように、爪先が狭い穴に沈められた。
「ぁっ、ぅ・・」   
 異物を拒んで窄めようとすると指はそこでとまった。耳の縁をゆっくりと舐められ、ときに甘噛みをされる。紅く腫れ上がった雄をゆるりとしごかれて息がつまった所を、指がまたゆっくりと侵入してくる。なにか処置を施しているのかぬめる粘液にまみれた無骨な指は、狭い襞をかきわけて呑み込まれていった。
「い・・やぁ・っ」
 引き攣った泣き声を上げると、舌打ちの音がした。苛立ったような声が低く云う。
「止めて、やれん。――止められる、ものか!」
「ぃぁ・・っ!」
 きつく収縮して異物を拒む内壁を、強引にかきわけて付け根までの指が差し入れられる。ぐ、と喉でくぐもった声をあげて孔明は敷布に額を擦る。ひくひくと震える粘膜は怯えきって馬超の指を締め付け、こらえようとしていた涙があふれてくる。またたきするととめどなく溢れそうで、孔明はきつく目を閉じた。
 動かされるとくちゅりと粘質の音がして、同時に前をこすられる。苦痛と快楽と。感情と感覚と。逆の方向を向いたそれらが同時に襲ってくる。
 やがて指をもう一本増やされて深みまで押しひろげられると、苦痛はしだいに快楽のほうに同調し、頑なであった肢体が悦を呼び込んで弛緩する。怯えていた隘路は籠絡されて潤み、抜き差しの分だけ皮膚と粘液が絡むみだらな音を立ててうごめいた。
 些細の傷もつけることなくほぐされた奥処から指が抜かれる。このまま背後から犯されるとばかり思っていた孔明は、仰向けにされて顔をそむけた。潤んでいるに違いない瞳も、男の手管に乱された表情も、見られたくない。
 軍師、と耳にささやきながら馬超が重なってくる。無骨な手指でまるで愛しいものを抱くような愛撫をする男は、呼びかけもまたそうだった。まるでお前が欲しくてたまらない、というようなかすれた声で呼び、もう待てぬとばかりの性急さでおおいかぶさってくる。そむけていた顎をとられて口付けされたときも、まるで情の宿っているかのように烈しく、狭い口内で孔明を求めて入ってくる舌には熱が篭り、重なった体躯の熱さに錯覚しそうになる。
 舌を絡ませながら馬超はつけた戎服の帯を解き、自らのものを取り出した。そうしておいて手探りで孔明の薄着の帯びも解く。馬超は口づけたまま、奥の窪みに雄を押し当てた。執拗に解した甲斐あって潤んで広がった口は、馬超が触れるとひくりと反応した。
「ぁっ、あ・・・っ」
 震える内襞を押しひしいで男根がぐっと差し入れられる。
「ああっ」
 獰猛な侵略に耐え切れず孔明は目を開いた。透明な雫がひとすじこめかみへと流れ落ちる。脳裏を白炎が一閃し、ざわついていた感情の棘さえも灼きつくされて消え去った。狭隘な襞をうがつ灼熱と、合わされたままの口唇の熱と押し付けられた体躯の熱と、重なったすべての箇所が熱く、乱れた髪がかかる額からも逞しい腕が回された背からも汗がにじんでくる。
 口づけを解いて馬超が顔を上げた。荒い息を吐き、目を閉じている。彫りのいや深い容貌から汗がしたたって孔明の額に落ちた。錯覚、しそうになる。これは、情愛など欠片もあらぬ交合であるはずなのに。気まぐれで犯されているだけなのに。男の欲と優越を満たすだけの、行為でしかないのに。
 背に回っていた腕で腰を引き寄せられたかと思うと猛りが深みまで押し入れられ、同時に、孔明はみじかい悲鳴をあげて精を吐いていた。予期していない吐精でありながらどくりどくりと切ないほど量が出て、孔明はしゃっくり上げた。目を開いた馬超の容貌が下がってきて、汗に濡れた額同士が触れ合う。馬超が何か言ったが、自らの泣き声にさえぎられて孔明には聴こえなかった。たぶん、からかうような事を言ったのではない。むしろ、逆のことを。おそらく、孔明を気づかうような言葉を口にしたのだと思う。なにか言いようのない切なさがこみ上げた。
 孔明の息が落ち着くのを待って、抽送がはじまる。すぐに何も考えられなくなったが、その切なさだけはいつまでも残っていた。 








 
 孔明は目を開けて伏していた。
 どこかからっぽになったような気分だった。隣にあるはずの執務室が無限に遠い。そこでしていたはずの政務のことも、考えていたはずの軍事のこともなにひとつ思い出せない。
 汗とそれから言えないようなもので濡れていた孔明の身体を清めたあと、自分の身体も軽く拭っていた男が、ゆっくりと牀台に戻ってくる。峻烈な容貌は倣岸も不埒も無くただ精悍だった。額に手が置かれて、それがすこしずつ動いていく。孔明は目を閉じた。親指が閉じたまぶたをそっとなぞり、手のひらが頬を包みこむ。乾いた手の感触が心地良く、心地良いと思う自分をどう思っていいのか分からなかった。馬超の匂いが近付いてきて唇が触れた。触れ合わせるだけの口づけは静かで、現実のものとも思えない。
「・・・用が済んだのなら、もう行っては如何ですか」
 沈んだ声音だと思ったが、いつもの怜悧は取り戻せそうもなかった。
 髪をまさぐっていた男の手が止まった。穏やかさの漂っていた表情がすっと締まり、剣呑が現れる。
「行って欲しい、か?」
「さぁ・・・」
 舌戦をする気力もない。冷ややかな視線でしばらく見ていた馬超は、ふと自嘲めいた笑みに口端を歪ませた。
「俺も、嫌われたものだな。お前の体は・・・抱けば抱くほど俺に怯える。初めてのときより2度目、2度目よりも3度目―――」
「・・・・」
 孔明は目を閉じて顔を逸らした。泣きたくなった。なぜだろうと思うまもなく胸が痛み、本当に涙が流れた。
「泣くな」
 眉を寄せて、馬超が云う。力などまったく入らない身体を両腕の中に包まれて、ぎこちなく抱き寄せられた。
「・・・泣くな」
 戦場でも宮城でも無表情な将は、だけど孔明の前ではそうではない。かるく笑い、怒り、非力な文官に向って泣くなとさえ懇願する。
「お前は嫌だろうが。ひとりにしてはおけぬ」
 だから、許せ。
 怯える孔明の身体をこじ開けたときと同じ苦い口調でつぶやき、馬超は上掛けにしている布をたぐり上げて孔明を引き寄せた。狭い牀台で素っ気ない布と熱い体躯に包まれて、孔明は眼を閉じた。疲れているのに眠りはなかなか訪れず、男の体温がひと晩中孔明を苦しめた。

   
 







『古恋ふる20のお題』より




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