砂が舞っている。血の色をした砂漠だ。錆色の砂塵が渦を巻いて吹き荒れる。
馬超は剣を抜いていた。砂塵を斬るために。 斬りつける。砂塵は斬るたびに血を吹いた。血を吹いた瞬間に人の顔になっている。どれも知っている顔だった。老いているものもいたし若い者もいた。皆、知っている顔だった。幼いころから知っている者たちだ。彼らの姓はすべて馬超と同じものであり、かれらの流す血は馬超に流れる血筋と同じものだ。
砂塵は無言だった。責めも罵りもしない。黙って斬られ、ひゅうひゅうと喉から血と砂を渦巻かせて斃れていく。声を出して罵れば良いのに。怒りの形相で責めれば良いものを。ひときわ大きな砂塵は、父の顔をしていた。それよりやや小さい砂塵は二人の弟たち。それも馬超は斬った。かれらは悲憤にまみれたうつろな顔で血を噴いて斃れた。
馬超はおのれに剣を向けた。
死にたい、と思った。
死ぬことなど許されぬ、というのに。
自分に刺す。ぱっくりとあいた傷口からは、血が流れる代わりに、砂が噴き出した。馬超はそれを無表情に眺める。頬を切り裂いて、砂が、流れた。喉からも腹からも砂が噴出して渦をつくる。
ふと、流れる水の音を聴いた。
砂漠においてなによりも貴重な命の源。
一度目を閉じて、開いた。
馬超は目を開けた。
寝ないようにと立っていたのだが、立ったまま眠ってしまったらしい。 夢を見るのはいつもだった。べつにどうということもない。起きていても悪夢には違いないのだ。短い睡眠がかえって気だるかった。
いつもの夢とは少し違っていた。最後に、水の音が、聞こえた。
砂漠で水は、救いである。馬超はもうずいぶん、夢においても現実においても、救いなど目にしたことはない。
水の気配がする。
どこかで水の気配がする。音ではなく、匂いでもない。気配としかいいようがないものだった。陣地に水場はあるが、この厩舎からは遠い。
白い影が見えた。
ふわりふわりと揺れる白い塊は、幽鬼のようにも見える。夜でもものの見える馬超には、それが灯りを持って白っぽい長衣を着た人間だということが分かっていた。分かっていたが、幽鬼だと思うほうが興味深かった。
やがて幽鬼は馬超のかなり傍まで歩んできた。幽鬼どころか、並よりよほど生気のある人間である。なにか、生命の光を感じさせる男だった。 考え事の最中なのかうつむきがちで、無防備な足運びが、長衣の裾を生きもののごとくゆらゆらと揺らしている。
「どこへ、行く?」
馬超は厩舎の柱にもたれかかった姿勢を変えずに、声を発すると、果たして男ははっと顔を上げた。
虚を突かれたような表情で視線をさまよわせ、馬超を見つけると所在無げにつぶやいた。
「厩へ・・・」
漢族の者だった。
白く整った容貌が灯かりに浮かんでいる。馬超は漢族が好きではない。その者は、漢人の粋を集めたような人間だった。これほどまっすぐな黒い髪と玉を彫ったような白い容貌を持つものは、長安より西には存在しない。
簡素な白衣を着て、髪はかるく結んだだけ。頭頂できつく結わい上げて冠をかぶるか、巾で包むかするのが普通だから、すいぶん軽装といえる。もっとも馬超も髪は頭のうしろで結わえているだけだから人のことは言えない。
「厩舎に何の用だ」
まさか馬盗人でもあるまい。羌人の陣から馬を盗むのはどのような家財を盗むよりも怒りを買い、八つ裂きにされる。まして軍馬ともなれば。漢族の男が涼州兵の厩舎に近づきたいと望む事自体が無謀であった。
「馬を見に参りました。このような夜分になったのは、読まなければならない書簡が立て込んでおりまして、この時間しか身体が開かなかったからです。差し支えなければ、神威将軍馬超殿の御愛馬の様子を見せていただきたいのですが」
神威将軍、つぶやいて馬超は失笑した。
暗い笑みをどうとったものか、男は眉を寄せた。
「馬を、見ることは叶いませんか?無論、涼州の盟主の馬に不審な行いは致しません。近くに寄らずとも、すこし様子を伺わせていただくだけでよいのです」
「ここが、厩舎だ。軍の主な馬は、ここにいる」
「―――ここが、厩舎?」
この世の英知を集めたような顔つきをしているくせに、信じられないといったふうな表情が無防備だった。この男は、暗闇に迷っていたのだろうか。陣中で、それはなんとも危ういことだった。
「では、馬超殿の馬をこちらに・・?」
「―――奥にいるのが、そうだ」
馬超は背をずらしもしなかった。奥、といわれて男が目をすがめる。夜目がきかないのか身を乗り出すようにしていた。髪が夜風に流れ、ほのかな香が鼻腔をかすめた。
馬超は目をひらく。
水、だ。
水の匂い――――・・・・・・・・
男は馬に近寄りはしなかった。夜の厩舎は静かだ。遠くから馬超の馬にじっと目をやり、思案げに口もとに指をやり、考えている。
やがて馬超を振り仰いだ。
「涼州の方。馬に詳しいとお見受けしてお尋ねいたしますが」
「―――何だ」
「・・・少し、こちらへ」
厩舎から距離を取る。馬超は無言で身を起こす。細身ではあるが、長身の男だった。声をひそめるので、馬超は耳を寄せるように身をかがめると、ひそやかな声が耳朶をかすめた。
「馬将軍の御愛馬は、どのような具合なのですか。傷を負ったと聞いてきたのですが、深刻なものなのでしょうか」
「・・・・」
すぐには応えられなかった。
「・・・もう、駄目だろうな。あれは、二度と走れぬ。殺すしかない」
漢人は一度またたいた。考え深そうな光をたたえた黒眸が馬超をまっすぐに見上げた。
「私は馬に関して門外漢でありますので、間違った意見であればご容赦いただきたいのですが・・・・確かに、四肢を痛めて立つことの出来なくなった馬は、手を尽くしても救いようがないと聞いています。しかし、あの馬は立っております。それでも、駄目なのでしょうか」
「生かしておきたいと、言うのか」
「出来ることならば」
「―――なぜ?」
黒い眸が静かにまたたいた。
「生きているものを生かしたいと思うのは、それほど不思議なことでしょうか」
「おまえは、いくさ用の馬を調達する者なのか?」
「それも職務のひとつではあります」
馬超は宙を仰ぐ。
「死なせてやっては、駄目か。もう走れぬのだ。馬は草原で生まれる風だ。走れぬのならば、死なせてやりたい。もう―――駆ける場所も、ないのだから」
視線の先には、月が翳り、暗々とした夜闇が広がっていた。
「そう・・・でしょうか」
つられたように男も空を仰ぐ。
馬超は視線を下げ、男を横顔に目を当てた。
同じものを見ているはずだが、馬超にはこの男が闇を見ているようには思えなかった。
馬超はおのれの天幕に戻った。考え事をしているような様子で厩舎にたたずんでいる男はそのまま置いてきた。男を信用したわけではなかった。自軍の馬を信用していた。涼州の馬はあのような男にどうこうされるほど馬鹿ではない。
幕舎には、馬岱が控えていた。
「劉備殿からの使者がいらしております」
馬超は表袍を脱いだ。葭萌関を覆う赤茶けた砂が微細な粒となって舞うのが、ひとつだけ灯した小さな明かりに浮かんだ。
馬超は酒杯に手を伸ばした。馬岱の報告に興味はなく、別のことを考えていたので大して聞いてもいなかった。無造作に言い放つ。
「追い返せ。食い下がるなら斬ってしまえ」
馬岱が無言で一礼し、背を向ける。
手甲を外しながら、馬超は手を止める。口に含みかけていた杯を止め、その水面を凝視した。
「待て、馬岱」
「は」
天幕の出口で馬岱が振り返ったとき、馬超は酒を飲むわけでもなく酒の表面を見ていた。
「・・・・殺すな。会わぬが、―――斬らなくて、いい」
「はい」
丁重な礼を取った馬岱の背が消えたあと、杯を一気にあおった。
馬超は酒に酔わない。
強い酒精が喉を焼いたが、それだけだった。
翌日、正午過ぎになって孔明は馬超の幕舎を訪れた。
陣地に足を踏み入れてすぐに孔明は、この軍団がかなり長くのあいだ物資の補給を受けていないことが分かった。負傷している者もいるが、手当てにまわす布が足りないのか、汚れた襤褸を巻いている。
それでも兵卒の目つきは鋭く、底光りのするような凄みがあった。
劉軍でも古くより劉備にしたがっている歴戦の兵は、たとえ下級の一兵卒でも、圧倒されるような眼光をしている。だが劉軍の兵は楽観的というか、どこかゆるんだ気風がある。
そういえば江東の軍は闊達で、熱気あふるる気風であった。そのどちらとも異なっている。鉄の壁を思わせる曹軍とも、違っていた。
西涼の兵は触れなば切れんと思わせる烈しさがあった。しかし苛烈という点ではどこの軍も変わらないはずだ。それ以上になにかが違うと考えて、孔明は思いつく。
(農民らしさが、ないのだ――――)
劉軍でも江東軍でも曹軍でも、兵の主体は農民である。劉備の親衛隊では若い頃に故郷を飛び出したいわば不良少年が多く、一度もくわやすきを持って農耕したこともないやからもいるだろうが、それでも生まれは農家である。西涼の軍にはその気配がない。
考えてみれば、中華の北西に位置する涼州や雍州には農地が少ない。農耕に適した土地が狭く、残りは草原と森林、沙漠、山岳が占める。よって遊牧が発達した。
だから涼州の兵は、根本的に農民ではない。農耕民族ではないのだ。
孔明のとってこれは少なからず衝撃的な発見だった。
思わず立ち止まり、深く沈思する。
乱世である。力にたのんで名乗りを上げた諸侯は、合従連衡を繰り返してこの大陸を縦横無尽に駆けている。劉備だとて例外ではない。生まれ故郷の北部を出て、さまざまな土地の出身者たちを将兵に迎えて連戦している。
いずれ益州攻略のあかつきには、兵たちに土地と家をあたえて開墾を奨励し、土着させるつもりだった。
孔明はよるべない放浪の苦しさも、みずからの土地を耕す豊かさも知っている。農民に忠心など求めてはならない。放浪させてはならない、飢えさせてはならない、死なせてはいけない。みずからの土地と家を守ることこそ農民の本懐である。土地を耕し、腹いっぱい食い、戦禍を知らぬ子を増やして欲しい。
しかし、一度も農民であったことのない男たちに、この論理は通じない。
土地を与えても耕すすべをしらず、安住の地などはなから求めない男たちを。
――どうやって取り込めば良いのだろう?
孔明が歩いていても、誰も咎めない。奥まった天幕で来意を告げると、将が出てきた。
長身で鍛えた体躯をしている。切れ長の目元が鋭い。
大将の幕舎に居たのだから、この将がかの馬孟起であろうか。
若いとは知っていたが本当に若い。剛直の剣を佩き白い具足を鳴らす姿は、気品があった。
「劉玄徳が臣、諸葛孔明と申します」
「姓は馬、名を岱。馬超が父馬騰の弟の子です」
言葉は明瞭だが、まったく抑揚にかける。見れば、目に光はなかった。完全な無表情。生きて動いているのが不思議なほどの、虚無をたたえた目をしていた。
馬岱の名は聞き知っていた。
馬超の従弟にあたり、ただひとり生き残った馬超の身内である。
「超は、只今馬駆けに行っております。使者には、会いません」
「先触れもなしに訪れた無礼をお許しください。馬将軍殿よりも先に貴公にお目にかかれたのは、僥倖かもしれません。すこし話させていただいて宜しいでしょうか」
ほとんど期待せずに孔明は聞き、この世のこともほとんど全てに無関心であるように思われる青年は、承諾の頷きを返した。
幕舎に案内する仕草も、整ってはいるが投げやりなものだった。漢人ならば必ず行う、上席を譲り合う作法もなく、どちらが上席でもない対等に向かい合う形で座を取る。
「陣中ゆえ、茶などは、ありません」
「おかまいなく」
思った以上に物資が不足しているようだった。
「私のほうで粗酒を用意しております。お試しいただけますか」
孔明は酒壷をゆっくりと回す。注ぐ前のくせのようなものだ
簡素な酒杯に酒をそそぎ、互いに唇を潤した。
「馬超殿は馬駆けと仰いましたか」
「は」
「お一人ですか」
「我が陣の半数の馬を連れております」
「半数?」
孔明は通ってきた陣を思い返す。馬駆けは文字通り軍馬を駆けさせることで、どこの軍でもやることだった。
鍛えるためというよりは、衰えさせぬためという意味が強い。
本来なら1日中駆けては止まりまた駆けるという生活を繰り返す馬という生きものは、走らせないと足が萎える。
ふつうは人が乗っておこなう。空の馬はどこに行ってしまうか分からないし、裸馬を、それも気の荒い軍馬を放すのは危険であるからだ。
だが、見る限りそれほど大人数が出掛けているという印象はなかった。兵のほとんどは揃っているように見える。
「超の馬を、ご存知ですか」
「馬将軍の御愛馬は、怪我を負っていると聞いております」
昨夜、この目で確かめたことは黙っていた。
「怪我を負っているのは、別の馬、予備の馬です。燕人張飛とか名乗った武将に挑みかかられた時、超の馬はひずめに石を噛んでいた。それで別の馬に乗ったのです」
「本来の御愛馬に乗っていたら、馬超殿は我が軍の張翼徳に勝っていたでしょうか?」
「いいえ」
馬岱は否定した。
「超は、勝つ気はありませんでした。負ける気もなかったでしょうが」
「なるほど」
相槌を打ちながら、孔明はこの青年のことが気になった。
おそろしいほどの無表情も、抑揚のない口調も、本来の性格とは思えない。
この年若い青年が、一族の殺戮を見届けたのだ。二百余人に及んだという親族の誅殺を。
色の薄い瞳に横たわる底知れぬ虚無が、苦しかった。
「超の馬は涼州産の黒鹿毛。千に1頭の名馬です」
「黒い馬ですか」
「ええ」
夕べ、厩舎でみた馬は黒ではなかった。暗くて確かには見えなかったが、茶っぽい色をしていたように思う。ではあの負傷した馬は馬超の愛馬に違いないものの、第一の馬というわけではないのか。
「超の馬に、他の馬は従います。たとえ人が乗って御さなくとも」
「では・・・駆けに連れて行った馬に、馬超殿以外の人は乗っていないということですか?」
「20人ほどは騎馬にて付いております」
「驚きました。そんなことが可能とは」
涼州軍が恐れられる理由の一端がこれか。
先頭を征くただ一頭の黒馬の背を追って、わき目もふらずに駆ける、数千頭の馬群。そこには怖れも、ためらいもない。兵を乗せるだけでどれほど速く強い騎馬軍団になろのだろうか。
「怪我をした馬のほうですが、」
「なにか」
「馬岱殿はあの馬をどうするのが最良と思われますか」
「最良?」
馬岱が視線を上げ、はじめて―――目が合った。薄い灰色の眸だった。
「張翼徳もあの馬のことは案じておりますし、わたしも気になります。わたしは馬のことに詳しくはありません。夕べずっと馬になったつもりで考えていたのですが、分からないのです。走れなくなった馬は、殺すのが本当に最善の方法なのですか?」
「――馬になったつもりで考えた。陣中で、一晩中」
「もしあの馬が二度と走れぬばかりか、生かしておいても苦しむだけというなら、殺すのも慈悲であるのでしょう。現に、立てなくなった馬は病気になりやすく、塗炭の苦しみの末に死んでゆくとも聞きます。しかし立っている馬はどうなのですか?荊州には、牧場があります。益州にもかならず作ります。生きることが苦しみだけではないのならば、そこで生かすということは出来ませんか?」
「超に、聞いておきましょう」
水面に小石を落とすような静けさで馬岱が言ったのは、長い沈黙のあとだった。
風が強い。
外に立つとまず風塵から目をかばわなくてはならず、顔前にかざした手のひらは見る間に赤茶色の微細な砂粒に覆われる。鉄錆に似ているが、鉄錆のような血に似た臭いはない。思い当たって舐めてみたが、やはり血に似た味はなく、乾いた砂の味がするだけだった。
砂が混じった唾を吐き捨て、幕舎に入る。
「超」
馬岱がいた。
「なにをしている?」
「・・・」
馬岱は客を迎えるときのように胡坐で座っていた。床にはからの酒杯と酒壷が置かれている。
「劉軍の軍師がきた。酒を持参していた」
劉軍の軍師、と馬超はつぶやく。
「馬を、生かしたいと、言っていた。荊州には牧場があり、益州にも必ず作るから、そこで生かしたいと」
「それだけか」
「それだけだ」
しばらく黙った馬超は、具足を鳴らして踵を返した。
「馬を、見てくる」
感情のない顔が、うなずいた。
幕舎の入り口の幕をまくりながら、馬超はふと振り向いた。
「劉軍の軍師の酒は、旨かったか」
馬岱がだまった。一度口を開いて閉じ、そして言った。
「水のような味がした」
一歩踏み出した馬超は、陽光を浴びながら口端を歪めた。
彼は馬超に気づくと、ひかりを滲ませるように微笑んだ。
昼間に見ると、また違った印象だった、
夜に見ると月から降りてきたようであった容貌は、陽光の中では珠を磨いたようにすべらかだ。
昨夜よりはこざっぱりとした服装をしている。衣の色はやはり白で、頭部には小さな冠をのせている。
「また、お邪魔してしまいました。気になったもので。ずっと考えておりますが、結論が出ません。むろん、馬超将軍がお決めになることで、わたしが結論することではないのですが」
「あの馬のことか」
「ええ」
「なぜ、それほどこだわる?戦場に斃れる馬など、珍しくもない」
「まだ生きているからです。斃れたのなら致し方ないでしょうが。・・・死ぬことと生きることと、どちらがより苦しいかは、わたしには分かりません。馬の気持ちも、よく分かりませんし・・・どうしたものでしょうね」
漢人の男がつぶやく。ひと言いうのにもいちいち考えを振り絞っているというようなしゃべり方をする。
「俺にも、分からぬな。―――ずっと、考えているのだが」
本当に考えているのかと、自問した。考えていないのかもしれない。考えて分かる事だとは思わなかった。
「馬を、見て行くか」
「宜しいのですか」
「ああ」
馬超がその馬を見るのは数日ぶりだった。燕人張飛と名乗る豪将に挑まれたとき愛馬はひずめに石を噛んでいて、代わりに乗った馬だ。途中、乗り潰しそうだという予感はあった。それでも馬超は、戦いをやめなかった。勝負はつかず、足を痛めた馬だけが残った。
くだらぬことに巻き込んだ、と思う。どうしてもしなくてはならない討ち合いではなかったはずだ。
立てないほどの傷ならば、その場で殺していただろう。立てなくなった馬は、本当に苦しんで死ぬ。
厩舎の中で馬は立っていた。四肢のうち1本は曲がって、それでも地についている。馬超を認めると、静かな目を向けた。
「・・・馬を、殺したことがあるか?」
「いえ」
「刃を向けると、馬は涙を流すのだ。それでいて、命乞いはせぬ。不思議なほど静かに哭いて、死んでいく」
馬超は手を伸ばして、馬の首に触れた。馬の体温は、人間よりあたたかい。触れた首もあたたかかった。
生きたがっているのか、死にたがっているのか。
走れなくても、生きたいと思うものなのか。
顔を寄せて、馬の額におのれの額を付ける。
馬は、答えなかった。馬超がなにも問わないからだ。生きたいか、死にたいか、馬超は馬には問わなかった。その問いはまず、自分に向けなければならない。
馬超は身を起こす。腰に佩いた剣が、がちゃりと鳴った。
漢人とはそこで別れた。あいかわらずこの世のすべての英知を集めたような表情で、白衣は去っていった。
遠くから見たとき、ここが世の果てであるかと兵のひとりが云っていた。
着いてみればなんのことはない、世はどこまでも広大に続いていて果てはない。
漢中を振り返ると、剥き出しの赤土に覆われている大地は素っ気なく、赤茶けた山野の中でまばらにはえた樹木でさえも、ほとんどの葉は乾いた茶色をしている。
来た道ではないほう、まだ行ったこともなく、これから行くのか行かないのか定かではないほうの大地は、緑色をしていた。緑の森と山々がどこまでも連なっている。
森に入るとすぐに方向を失い、失ったときと同様にすぐに戻った。砂漠には砂の道標があるように、森には樹林の標があり、それは砂よりもよほど濃厚だった。気配が押し寄せて、通り過ぎる。奇妙な心地はした。砂漠では気配は顔、躯に、突き刺さる。樹林での気配は、濃密なくせ、顔や躯をなでるようにして通り過ぎてゆく。
馬から降りてしばらくはあてもなく歩いた。道はあった。つい最近馬が駆けた跡が残っており、数頭分の馬蹄の跡は、斥候と思われた。
水の匂いのあるほうに歩いたのは、本能だった。獣が水場に引き寄せられるように、馬超は水辺に行き着いた。太陽が傾きかけていた。
馬に水を飲ませ、馬超も飲んだ。馬がそっといななく。馬超は目を上げた。
樹木の下に人がいた。じっと目を閉じている。
痩身にまとわせた、白っぽい衣。もとは真っ白だったのだろうが、葭萌関の赤土の色がすっかり染みている。顔は雪のように白く、雪ほどに冷たくはない。
男が目を開けて、馬超が男を見ているように、馬超のほうを向いた。驚きが浮かんだが、1度まばたきする間に消えた。
「はじめて厩舎ではないところでお会いしましたね」
きさくに話しかけてくる。微笑を浮かべて。
「そこで、なにを?」
「さあ。特に何も。迷いのあるものは樹の下に行け、とも言います。樹の下に居るということは、わたしは迷っているのかもしれません」
変わった男だと、馬超は思った。
「ひとりなのですか」
「今はな」
「ひとりが、お好きですか」
「なぜ、そんなことを聞く」
「なんとなく。今だけはひとりだとおっしゃった表情が、すこしだけ晴れやかに見えましたので」
今だけはひとりだと、云った覚えは無かった。今はひとりだと云ったはずだ。
「貴公も、ひとり、なのか」
「ええ、今は。今だけは、という意味ですが」
「今だけか」
「しかし、今だけは、と言ったあとで気付いたのですが」
「なにに」
「もしかしたら、ずっとひとりなのかもしれません。寝ている以外の時間のほとんどはひとりではないのですが、ことによると、大勢に囲まれていてもわたしはひとりなのかもしれないと、たった今、思いました」
風が変わっていた。
葭萌関では不毛の大地を吹き抜けていた風が、樹と水を揺らす。
見上げると、空が白かった。灰色の雲がちぎれてところどころに薄い青がのぞいている。
白衣の文官も同時に空を見上げた。
行軍の間中一日も欠かさず吹いていた砂まじりの北風がやみ、いつしか南風にかわっていた。とらえどころの無い、まといつくような白い風だ。
やわらかい風が髪を揺らした。髻を結っておらず、てきとうに纏めて流してある。長い髪だ。長くて黒く、癖のない髪だった。結われていない髪がまといつく首は、白くて細かった。
「雨が降りますね」
どこか楽しそうに漢人が言う。
「降るだろうな」
知れたことだった。風が変わるとは、そういうことだ。
「こちらの樹に、お入りになりませんか。そこは雨をよける場所がない。もうお帰りになるというならば別ですが」
幾重にも広がった枝が天蓋をなしている下にたたずんだ男が言う。
馬超は軽い口笛で馬を呼ぶと、浅い河を渡り、樹の下にはいった。馬超と馬がはいっても、樹にはまだ余分がある。
男は、樹木の幹に額を当てた。ちょうど馬超が、馬の額に額を当てたのと同じように。
「樹は、なにも答えぬぞ」
思わず馬超は言っていた。男がつむっていた目を静かに開ける。
「樹になにかを問うたことがおありですか」
「どうだろうな」
「樹に答えを求めてはおりません。答えは自分の中にしかありませんから。しかし悩みには、相手があることが多い」
「そうだろうか」
「せめて相手に向かい合う時には、迷っていたくないとおもうのですが。そう上手くもいきません」
「そうか」
「貴方も、迷っておられますか」
男は真摯な表情で樹に手をあてた。ぽつり、と水滴が目の端をかすめる。雨だ。
「いや」
風が強くなっていた。
群雲の合間からわずかに紺青の空がのぞく。
「あの雲が通り過ぎたら、雨はやみます」
「通り過ぎなかったら?」
異なことを聞いたというふうに男は馬超を見た。
「必ず、通り過ぎます。風があるから。雲は流れて、やがて晴れになる」
雨は、二刻ほど降り続いて、やんだ。風があるから雲が流れて、通り過ぎたのだ。
樹葉から絶え間なくしたたり落ちていた雫がやがてぽつぽつと消えてゆき、最後の一粒は、陽光を映してきらめいた。
「雨がやみました。わたしは帰らなければなりません」
「俺も戻らねばならん」
漢人が一歩樹下を出る。振り向いた白面が陽光ににじみ、眩しそうに目を細めた。
完全に樹から出た文官は、馬超に向って略式の拱手をし、かるく頭を下げた。
「言い遅れましたが、諸葛亮と申します。あざなは孔明」
「よい御名であられるな」
「父がつけた名です。ご存知の通り、亮も孔明も、明るいという意味でありますが、わたしは、新月の夜に生まれたのです。月の出ない闇夜に生まれた子に、父は明月の名を与えたのです」
馬超も樹下を出て、陽光の下に踏み出した。
「俺の姓は馬、名を超、あざなを孟起という。なぜそう付けられたか知らぬが、俺の父は学のない男ゆえ、そう雅な由来などはあるまい」
馬超が内心で予想していた通り、そして願っていた通り、文官は微笑した。
「由来はなくとも意味はあります。願いがあります。名とは親が子に贈る最初の、最大の贈り物でありましょう」
雨のあとの陽光を含んだひと雫のような、微笑だった。
「軍師」
「なにか」
「よい酒を飲ませてもらったと、馬岱が言っていた」
劉軍の軍師は、意外だというふうな表情をした。
「それはなによりです。ですが陣中のことで、それほど上等な酒でもなかったのですが」
「水のような味が、したそうだ」
軍師はまた意外そうに目をみはる。一見すると透き通って無色なような容貌だが、心の動きがわずかに表情や動きにあらわれる。さながら水面に石を落とすと波紋が立つがごとく。
「それは、誉めているのでしょうか?」
「最上に。沙漠を征くもののなによりの甘露は水だ」
「なるほど。しかし酒をつくるものにその評価は伝えないほうがよろしいでしょうね」
「俺も、飲みたいものだ」
「同じ酒を用意するのは難しいかと思いますが」
「これでいい」
馬超は顔を寄せて、軍師の唇と自分のそれを重ねた。軍師は目を閉じなかったし、馬超も目を閉じなかった。数秒ほど触れ合わせたあと馬超は離れたが、軍師は何度がまたたいて、指をすっと唇にあて、難解な問題を解くような顔つきで、馬超を見た。
「我が軍と我が身の行く末を、軍師どのに委ねよう。それから、あの傷を負った馬のことも。生かせるものならば生かしてやってくれ」
「それは―――」
「劉備殿に膝を折ろう。益州の騒乱を終わらせるがいい。代わりに ―――」
軍師は無意識にか一歩さがり、その間隙を埋めるように馬超は一歩近づいた。
澄んだ水面であっても石を投じれば波紋がひろがる。大きい石なら大きく、小さい石ならひそやかに。風が吹けばさざ波も立つだろう。
おのれの行いによって波紋のようになにがしかの感情の動きを浮かべた漢人の白面を見下ろして、その手首を取った。手首の内側に息づくひそやかな脈拍――生命のかなでる小さな鳴動を感じたとき、馬超はふいにはっきりと自覚した。
これが欲しい――
逃がすつもりには欠片もなれなかった。
つ、続きません…
(2016/10/15)
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