50題―22.隔たり-3

 


談笑していた。
大きく開いた窓から気持ちの良い風が吹いて、向かい合った寵臣の髪を揺らしている。
す、と上がった指先が、頬にかかった髪を払いのけた。逆のほうの手は茶器をもっていて、ゆっくりとそれを口に運んでいる。こくりと喉ぼとけが上下するのが、妙に気になった。
冠をつけていない諸葛亮を見るのは久しぶりのような気がする。ただでさえ長身な彼が冠をつけると重々しさが増して、とても似合っているのだが、すこし苦手だ。威厳がありすぎる。こうして髪を下ろしているほうがいい。
視線を感じたように、彼が顔を上げた。視線が絡むと、ちいさな笑みがこぼれる。
切れ長の瞳には叡智がきらめいていたが、笑みに細まった途端、艶へと変わってしまった。
どきどきしながら、彼と視線が絡むのは久しぶりだということに気づく。
いつからだろう・・・彼が視線を伏せて、うやうやしく拝礼するようになったのは。
最初会ったときは、もっと豪胆な感じがした。それからも戦のたびに迷い悩む自分を、いっそ大胆なほどの言葉と態度で挑発し、戦場に向わせた。同衾すれば互いに熱く語らい、打てば響くような返答と明敏なやりとりに、明け方まで飽かなかったものだ。
それなのに、彼はしだいに、違うものになっていった・・・。
豪胆な態度は形どおりの畏敬にとって替わり、親密な語らいはいつしかなくなり、堅苦しい政務の議題のみが会話のすべてとなった。
「諸葛亮・・・」
「なにか、殿」
深まった笑みに、心が歓喜した。
「夜が更けてしまったな。今夜は、久しぶりに同衾せぬか」
「・・・・・・」
笑みが、なくなった。
あ、と思う。喪失感が押し寄せた。手から水がすり抜けていくような。
「せっかくですが、殿。私はまだ政務が残っておりますので」
ゆるい、微笑。細めた目はそのままに、浮かぶのは穏やかな、しかしきっぱりとした拒絶・・・
諸葛亮は立ち上がり、胸の前で袖を合わせ、うやうやしげに頭をさげた。
「今夜はこれで失礼致します」
「ならぬ!」
気がつくと声を張り上げていた。
立ち上がった拍子に、椅子がけたたましい音を立てて倒れたが、そんなことに構っていられない。
「下がることはならぬぞ、諸葛亮」
影のようにすっと引こうとする身体の、肩に手を掛ける。
驚いたように目をひらくのが、奇妙な安心感をもたらした。自分はまだ彼に影響力を持っているのだ。忠誠を疑ったことはない。しかし、忠誠以上のものが欲しくなったとき、君主とはどうすればよいのだろうか。育ちが悪いせいか、まったく分からない。
「殿・・・」
揺らぐ瞳に、自分はよほど思いつめた表情をしているのだと思い知る。それから、肩の薄さに驚いた。みやびな金糸で刺繍をほどこした長袍の下にどんな肢体が隠れているのか、その肩の感触だけでうかがい知れて、赤面する思いだった。
身体の線を、知っているとはいいがたい。
暑ければ半裸で寝っ転がる義弟たちと違って、諸葛亮は身体をみせるのを好まない。
かつて夜ごとに行った同衾のあいだにも、夜着のうえにはゆったりとした部屋着を羽織り、肌を見せることはなかった。それを奥ゆかしいとも思い、それでも袖や襟からのぞく首やら手やらに、どぎまぎとしていたものだった。
あれらの夜はもう取り戻せないのか。
待っていても手には入らず、遠ざかっていくのみならば、いっそ――

「私は待ったのだぞ、諸葛亮。もう、待てぬ」
ごくりと喉を鳴らす。
なにを言っているのだ私は、と思ったが、口に出すともう止まらなかった。
なにが待てないのか、諸葛亮は問い返さない。
なにもかも知っているという目をしていて、実際、諸葛亮は何もかも知っているに違いないと思った。
何もかも知っていて、同衾に誘えばかならず断る。肩に手を乗せるとかいう他愛ない触れ合いでさえ、すっと身をかわしてしまう。
なにもかも知っているという訳知り顔で、謎めいた表情をこっちに向けて、すらりすらりと逃げてしまうのだ。
そういうところは憎い・・・憎い?
憎いのか、愛しいのか。
愛しいに決まっている。
我が軍師。
我が最愛の水・・・!



「嫌です、殿」
にべもない拒絶に頭が熱くなった。
「私に逆らうのか、諸葛亮」
「殿――」
肩を掴んだ手にぎりぎりと力を込めれば、驚きから不安に、やがて小さな怯えにと瞳の色が変わっていった。だが、厳しく整った顔立ちにより、そういう反応さえも作られたもののような感じがする。
「私に、逆らうか?諸葛亮」
「・・いえ。私は殿の家臣でありますれば・・」
「そ・・うなのか。家臣・・だからなのか。―――そうなのだな、家臣なのだな」
笑いたくなった。
いかに言葉を尽くそうとも、この距離はなくならない。
ぐいと手を引き、背を押せば、長身はよろめいて隣室へと導かれ、そこの光景に顔色を変えた。
美しく整えられた寝室は白い帳が下りて、愛を交わすためだけに存在するようだったのだ。
腰に佩いた双剣をはずし、ずしりと重さが伝わるそれを、寝台の脇に乱暴に投げ捨てる。
「そこで、脱げ」
寵臣はすでに顔色をなくし、信じられぬものを見る目でこちらを見ていた。
思わず笑った。笑いはとても、苦かった。

「では、私が脱がそう」
幾重にも、それこそどんな鎧よりも厳重に着込まれた文官衣を無理やり乱すのは、愉悦でもあり、悲しくもあった。
飾り帯を肩から外し、重厚な織りの上着と一緒に床に蹴落とす。留め具も帯も、上から順に解いていった。外しても外してもまた次の布地や装飾があらわれる衣装は、彼そのもののように複雑だ。
重々しい道衣を剥がれすっかり無防備になった諸葛亮は、青ざめて胸もとの衣を掻きあわせるが、薄着一枚でそんなことをしても無意味であるしかなく、いっそ哀れだ。
「殿・・・お許しください」
らしくもなく取り乱した様子に、ちくちく胸が痛む。
「そのように怯えるな・・・私がそなたを傷つけると思っているのか。やさしく抱こう」
「―――・・・」
ひどく驚いた顔。それこそ、信じられぬものを見たような、信じられぬことを聞いたような顔だった。
「誰か・・・!」
心もとない、悲鳴ともいえないかぼそい声に、苦笑した。
「どうしたのだ、諸葛亮、賢明なそなたらしくもない・・・私の城で誰かを呼んで、私を止められると思っているのか。誰でも好きな者を呼ぶといい。私はその者に、そなたを押さえつけているように命じよう」
「殿・・!」
「だが、私にそのような事をさせてくれるな、諸葛亮。私の下で乱れるそなたを、私は誰にも見せたくないのだからな」
青ざめて魂をなくしたように立ち尽くした身体を、寝台へと横たえる。
「・・・お許しを・・・」
薄物の着物からはっとするほど白い肌がのぞくのだが、白過ぎてなにか嘘臭い。あわせを肌蹴て手を胸へと伸ばすと、彼は身体を跳ね上げらせた。
触れた箇所は冷たかった。肌の色が白いせいかよけいに寒々しく、ほんとうに体温があるのかと疑いたくなる。水を手ですくう感触というのか、・・・触れているのに触れている感じがしなくてもどかしい。
はかなげな薄布をくつろげて、夢中で唇を落とした。突起を探り当て、それを口に含んで吸い上げる。
「おやめ、下さい・・・!・・っ」
おもわぬほど敏感な反応に驚く。舌先でつつくようにすると白い膚は艶を帯びてびくびくと震え、彼の感じている快を伝えてくる。しかし執拗に責めても、声は上げようとしなかった。ただお許しをとだけ、懇願を繰り返す。
歯噛みしたくなるような焦燥がこみ上げ、組み敷いた身体にぐいとのしかかった。
「・・・感じまいとしているのか、諸葛亮。そうだな、感じないままならば、そなたは被害者でいられよう。苦痛しかないのなら、私を責めて、二度と手出しできぬように画策もできよう。しかし・・・快を感じてしまえば」
「・・・っあ!」
裾にからむ布を乱暴に跳ね上げて、秘めた箇所に手を這わせる。そこは快をあらわしていた。快哉を叫びたくなる。
「――ぁあ・・っ!」
「快を感じてしまえば、そなたは共犯者だ。もう私から逃れられぬ」
「は・・・ぁっ・・ぁあ・・・」
「感じてしまえ、諸葛亮。私のところに堕ちてこい。私を、・・・拒まないでくれ」
「殿・・!」
声が上がる。私を呼ぶ声が―――
「殿――!」











「殿!殿っ!!」
「・・・諸葛・・亮・・」
「いかがされました・・!?」
「諸葛亮!!諸葛亮・・・・!?」
「軍師殿でしたら、たぶん政庁に・・いえ、この時間なら、もう私室で休んでおられるかと思いますが」
「え・・・趙雲?・・・・うわっ!うあぁぁあああぁぁ!!!!!!!」
奇声を発してうずくまった劉備を、趙雲は唖然とながめた。
「うわっ!うわあああ!!夢か!もしかして夢なのか!最初から最後まで夢だったのか!ちょっと待て!最低だ!!!」
「と、殿・・・落ち着いてください・・」
地獄の果てまで後悔していそうな劉備にただならぬものを感じ、趙雲はちょっと身を引いた。
「夢って・・・殿、政務のほうは?」
机のほうを見た趙雲はぎょっと目を剥いた。
趙雲が別室に控えてから、けっこうな時間が過ぎている。だが大部分の書簡は重ねられたままで、開いているのは1巻きだけ・・・
「まさか終わらせたのはこれだけですか、殿!3行・・・3行しか進んでないではないですか!」
呆然とする趙雲の肩を、さっきから呆然としたままの劉備が、突然がばりと抱きついて揺さぶった。
「どどどどうしよう、趙雲!!私はなんということを・・!」
「どうしようと言われても、ご政務は私では手伝えません」
「せ、政務・・?いや政務などどうでも」
「軍師殿をお呼びしますか?」
「だ、駄目だっ!駄目だ駄目だ駄目だ!!諸葛亮の顔など見れぬっ」
「殿?」
「ど、どうしよう趙雲!助けてくれっっ!!」
ひし、と劉備がしがみついてくる。困惑しながら趙雲は主君の肩に腕を回して身体を支えた。


かたりと静やかに扉がひらいた。さぁっと流れこむ風が、ひそやかな墨香を含んで漂う。
「・・・何事でしょうか」
静かな声、白と濃き緑の衣装。冠から垂れる布が揺れ、威厳と高雅が夜気を震わす。
「殿の部屋から、諸葛亮、と呼ぶ声が聞こえたと侍従が知らせて参りました。用件を伺いましょう」
もう夜も更けた時分というのに、諸葛亮は衣冠をきちりとつけていた。前だけを軽く結わいあげた髪のひと筋さえも、厳粛な雰囲気をまとっている。
劉備は固まったままだ。顔色が赤から青に変わり、口の形が「あ」から「う」に変わったが、言葉は漏れてこない。
「殿。ご用はおありになりましょうや」
「・・・無い」
硬直したままの劉備がぼつりと言うと、諸葛亮は表情を変えずに劉備に礼を取り、また趙雲にもかるく頭を下げた。趙雲も軽く返礼をする。
「諸葛亮・・・!」
背を向けた軍師に、劉備の声が飛ぶ。
「なにか、殿」
ぱっと立ちあがった劉備が、白い袍から出ている手を取った。
「・・・すまぬ」
「・・・・」
ぴく、と軍師の表情が動いた。それから肩も。ほんの少し、びくりとした。
(え?)
趙雲はちょっと目を見張る。何事にも動じることの無い軍師が、なにに驚いているのか分からなかった。
劉備は家臣と触れ合うのが好きで、肩に手を置いたり手を握ったりすることは日常茶飯事なのだが・・・
それはほんのちょっとした違和感で、趙雲自身にも、なぜ違和感を感じたのかよく分からない。
目を伏せた諸葛亮は、静かに下がっていった。

「そなたも、下がって良いぞ、趙雲・・・」
劉備に言われて趙雲は首をかしげる。
「しかし殿、政務はどうされます」
「・・・・・・・・」
涙目の劉備が、がっくりとうなだれた。
どうやら今夜は、徹夜のようだった。

 






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「私の城で誰かを呼んで、私を止められると思っているのか。誰でも好きな者を呼ぶといい」
ってああ殿そんな。ドリーム中とはいえ心配になった。
コメが月英さんを呼んだら、殿は木牛と虎戦車で城ごと吹っ飛ばされてしまう。。。

(2009/9/5)

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