50題―22.隔たり-4

 


「しょ、諸葛亮・・・その今夜、同衾せぬか」
よっしゃ言った!!
と、劉備は思ったし、趙雲も思った。
劉備の執務室での出来事である。日が暮れはじめていて、城勤めの官吏たちは帰宅して、自宅で夕餉を囲もうかという時間である。
城下から通ってくる官吏と違って、城主である劉備はもちろん、諸葛亮も趙雲もたいていは城内で休む。
「夕餉もいっしょに食べよう」
なんかいい調子!!
劉備はそういう顔をしていたし、趙雲も内心で今日はいけるかも、と思った。

3行分しか政務を進めていなかった劉備が高らかな奇声を発して趙雲を驚かせた真夜中から、もうひと月。
そのあいだの劉備の支離滅裂な塞ぎこみようときたら、見ていられないものだったのだ。
妙な夢を見たようなのだが、それも諸葛亮がらみらしい。
落ち込んでいる劉備というのは、非常に心臓に悪い存在である。
塞いでいられるくらいなら、へたなポエムを読まされるほうが何倍もマシだ、というくらいの心境に趙雲はなっていた。

今日の劉備は政務をきちんとこなしているし、さっきからやっていた諸葛亮との打ち合わせも終わった。
食事を共にすれば、ついでに酒なんかも飲むことだろう。そのあとで同衾。とても自然な流れだ。
となると自分は邪魔だ。もともと軍を率いる任務がある趙雲は、寝間の警護にはつかないから、そろそろ退出する頃合いである。
関わりあいたくない、というと不忠かもしれないが、主君と寵臣の恋愛のゆくえというのは、ほんらい臣下の知るところではない。開けっぴろげすぎる劉備が、ぺらぺらと恋情を訴えているほうが異常というものだ。
だいたい想い人を同衾に誘うなんてことは、護衛が退室してからやって欲しい。でもまだ遅くはない。

さっさと退出の挨拶をしよう、と口を開きかけたとき、冷ややかな声が放たれた。
「それは命令なのですか、殿」
「え、・・ええ?」
劉備は目を丸くしている。
内容もさることながら、ひっそりとした諸葛亮の声には、えたいのしれない冷たさがあった。
「ご命令でしたら、臣たる私にさからえるすべはありません。同衾も、夕餉も。・・それ以上のことであろうとも。・・・殿が望まれるとおりに致します」
趙雲は身体の奥がざわっと波立つ感覚におそわれた。 まるで敵陣に近づいた時のような緊張感が背に走って、瞠目する。
それくらい、諸葛亮の声には底の知れない暗さと殺気があった。
劉備は劉備で、
「私は・・・諸葛亮」
と言ったきり絶句している。
「それで、殿。ご命令をなさるのですか。そうでないのならば私は政庁に戻り、政務を続けますが・・・どうなさいますか、殿」
「・・・・」
劉備の横顔がわなないているのに気づいて、趙雲は目をそらした。
これは自分が見てよい光景ではない。聞いてよいやりとりではない。
臣としての畏敬を崩さないでいながら、諸葛亮の声の調子は、誰が聞いてもこれ以上ないほどはっきりした拒絶だった。
諸葛亮は、劉備の求めるものを知っているのだ。
知っていて、それが欲しいのならば君主として命令してみろと言っている。
裏を返せば、命令ならば臣として従うが、命令以外ならば死んでも否だ、と言っている。
冷ややかな拒絶は氷でできた刃であり、当事者ではない趙雲の胸まで切り裂いた。まして劉備は、どんな思いで聞いたのだろう。
目をそらした趙雲の横で、劉備が呟いた。かすれた、震えかけた声だった。
「・・いや、いい。下がれ」
「ええ」
諸葛亮はうっすらと笑っていた。
声は甘やかで、伏し目がちの視線は涼しげなくせどこか蠱惑を含んでいる。
趙雲は知っている。
これは諸葛亮が戦場で見せる顔だ。
なぜ。
断るにしても、もっと穏便なやりかたがあるはずだ。
なぜこんな、・・・氷刃で斬りつけるような真似をする。
「殿。さきほど保留になった事項につきましては、後日まとめて報告に伺うということで宜しいでしょうか・・・。とくに軍の編成に関しては、急ぎ作成いたしますので・・・」
「―――」
劉備は顔をそむけた。
甘い声で政務の確認を行う軍師を残酷だと、趙雲は思う。
「では、これで失礼いたします」
うやうやしく頭を垂れる仕草でさえも。
扉が閉まった。沈黙が漂う。
「殿!」
知らず、趙雲は叫んでいた。
劉備は顔さえ上げない。
「・・・・私は、居たほうがいいでしょうか。居たほうが良いとお思いになるのなら、ずっと居ます。退室したほうがいいとお思いならば、退室します、殿」
劉備は力なく首を振った。
「・・すまない、・・ひとりにしてくれ」
しぼりだすような声。趙雲はさっと拱手すると、きびしい顔できびすを返した。



部屋から出ると、すでに夜の警備の人数がそろっていた。
趙雲はかれらの顔ぶれと人数を確認し、劉備が呼ぶまでは中に入らず、廊下で警護するようにとの指示を出す。
「軍師殿」
同じ扉から同じときに出てきた軍師は、能面のような無表情で立っていた。その腕にこぼれんばかりにかかえられた書簡を受け取ろうと従者が寄ってくるが、彼は従者の存在をまるで意識に入れていないように、立っていた。
責める言葉がいくつも湧いてきた。
諸葛亮はあきらかに、劉備を傷つけようとして、傷つけたのだ。なぜ、なぜそんなことをする必要があるのかと、肩をゆすぶって問い詰めたかった。
それを趙雲は理性で押しとどめる。それは主君と軍師とのふたりの間で行われるべきことで、趙雲がするべきではない。
「・・・その書簡をこちらへ。政庁までお持ちします」
「・・・ありがとうございます」
怒りがにじむ趙雲の声に、虚ろな声が返ってくる。
違和感を感じた趙雲は眉を寄せた。
劉備に対した挑戦的な態度とも違う、いつもの、飄々とした余裕をもつ軍師の顔とも違う、施政者としての厳しくもおごそかな表情とも違う、無表情。
ひどく疲れているようにも見え、趙雲は戸惑う。
歩いているうちに違和感はやむどころか、ますます大きくなった。


季節は晩夏から、初秋に移ろうとしている。
庭に面する回廊を渡ると、諸葛亮は足を止めた。
透明な羽をもつ蝉の死骸がぽつねんとひとつ落ちているのは、昼間にはなかったものだ。
羽はもう動くことはない。鳴き声を発することもない。この蝉は、今日の昼のあいだは声を限りと鳴いていたのだろうが、もはやひと言も発することはないのだ。
「趙雲殿」
宮城を出てところで、諸葛亮がつぶやいた。
「はい」
「すこし庭を歩きたく思います。その書簡は、従者にでもあずけて政庁の書庫に運ばせておいてください。お手数をかけて申し訳ありませんが」
「――重要なものではないのですか」
劉備のところまで決済が行くということは、蜀において重要度は高い。
「軍事や外交の機密ではないので、盗む価値はありません。重要といえば重要なのでしょうが、たとえ失くなったとしても、私の頭にすべて入っているので問題はありません」
十巻以上もの書簡がすべて頭に入っているというのは尋常ではないが、嘘ではあるまい。趙雲には真似できないことだが、一字一句違えずに覚えているということは、諸葛亮ならばありえる。

「・・・軍師殿。庭を歩くといいますが、伴につきましょうか」
趙雲はすこしためらいがちに言った。
視察に出るときは諸葛亮の警護をすることもあるが、城内の庭では警護の心配もない。それに諸葛亮がひとりでいることを好むのは知っている。いつでも誰かとともにいる劉備とは、この点でも異なっているが、・・・なにか、いいのだろうか、ひとりにしておいて。

「警護は必要ありません・・それよりも書簡の方をお願いします」
「・・さきほど軍師殿は、書簡の内容をすべて頭におさめておられると言われた。だったら、私が守るべきは、書簡ではなく、軍師殿の頭脳のほうだと思いますが・・・」
「私の、頭脳・・・」
さもおもしろいことを聞いたというふうに、軍師は忍びやかに笑い出した。笑いは快活ではなく、皮肉げだった。
「ふふ・・・いやな事を思い出したではありませんか」
「・・なんでしょうか」
「殿が、私を誉める言葉です。・・・そなたはなんと頭が良いのだ、諸葛亮。素晴らしい博識だ、諸葛亮、そなたほどの智者はどこにもおるまい・・・無邪気なご表情まで、目に浮かぶようです」
趙雲は耳を疑った。
劉備が諸葛亮を褒め上げるのは、何度も聞いている。口調も、表情も、分かる。
それを、なんと、言った―――
「・・・それが、いやな事なのですか」
「ええ」
はっきりと肯定されて、目の前が暗くなる。
蜀は、劉備を信奉するものの集まる国だ。
今でこそ領地があってたしかな地盤をえているが、もとは流浪の弱小勢力だった。
しかし家臣の結束は、富と領地とをもつ他の勢力にまったく劣らない。
劉軍の臣を繋ぐものは、劉備への信望である。
蜀入りしてから臣従した益州の臣だって、たとえば政略と智謀をほこる法正だって、劉備への忠誠は疑いない。
人によって、志だとか信頼だとか、いろいろ言うが、要するに、みな劉備が好きなのだ。なんといおうと劉備を中心に回っているのに違いはない。
それを――この軍師が。まっこうから否定するのか。
分からない。
この軍師が何を考えているのか。

書簡が急に重さを増した気がした。何斤もある武器よりも重く感じられた。
軍師を覗き込むかたちで、回廊の手すりに手をつく。
「軍師殿、ひとつだけお聞きしたい。殿の目指す天下、軍師殿も描いておられましょうか」
「言うまでもないことです。私の存在はすべて、殿の天下のために」
趙雲はきつく目を閉じた。
「もうひとつだけ、いいですか・・・」
言うべきではないと分かっている。臣下の分際を越えたことだと、分かっている――
関わってはならない。たかが護衛が、君主の心情を代弁など、してはならないのに・・・
「ええ」
諸葛亮は平静で、どこか趙雲に同情しているようにも見えた。
「殿に、恋詩を見せられたと思います。あなたはどこかの姫宛てでしょうと言われたそうですが、あれが、ほんとうは誰に宛てたものか、分かっておられたのですか」
風が吹いて、樹木の葉が散った。
「ええ、もちろん。分かっていました」
「殿は泣いておられた。いまも、泣いておられるでしょう」

木の葉の散るゆくえを目で追ってしばらく沈黙した諸葛亮は、しずかに笑った。
「泣いておられますか・・・それは嬉しい。・・・・・・・・愚かなことですね・・・」
息を吸い込んだ趙雲はそのまま息を止め、奥歯を噛んで激情をやり過ごした。
肩で息をして感情を整えるが、負の感情はおさまらなかった。
怒りに染まった黒い目を、趙雲はまっすぐに軍師に向けた。軍師はひるむことなくその視線を受け止める。
「あなたを、軽蔑してしまいそうです」
「ご自由にどうぞ」



遠ざかっていく蒼い鎧を目で追うことはせずに、諸葛亮は風に髪をなぶらせてたたずんでいた。
地面に落ちた蝉のなきがらが風に吹かれて、もう動かない羽を揺らせている。
「あなたはご存知ないのですね、趙雲殿」
声を限りに泣く蝉よりも、そう、・・・泣かない蛍のほうが、身を焦がしているものを・・・

 






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(2009/9/9)

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