50題―22.隔たり-5

 


たくされた書簡が忌々しいほど重い。
趙雲は肩で息をつく。書庫の場所は分かるのだが、武官の身で内政の書簡を勝手に置いていくわけにはいかない。
どうしようかと思案していたところ、ちょうど扉をあけて現れた青年がいたので、声をかけた。
「姜維」
「・・・趙雲殿」
若木の色の髪が揺れ、きりりとした目元の印象的な容貌が、趙雲の背後を見透かすように覗き込む。
「丞相は?」
居ないと分かり、趙雲のかかえた書簡に不審そうに目をすがめた。それはほんらい諸葛亮が持ち帰るべき荷物であるからだが、それにしてもまるで趙雲が、かの人をどこかに隠してしまったのかと疑うような視線である。
「丞相は、ご一緒ではないのですか?殿との打合せに出られて、まだ戻ってこられないのです」
声まですこし尖っている。
知るものか。とつい答えそうになった。
聞きたくない名でもある。が、まさか知らないと言うわけにもいかない。
「打ち合わせは終わったが、軍師殿はすこし散策されるそうだ」
「散策って、庭を?もう日も暮れてしまったというのに」
形の良い眉を跳ね上げて、なぜ止めなかったのかと非難する視線を向けてくる姜維に、趙雲も冷ややかに視線をかえす。
趙雲とて、それを思わなかったわけではない。
「伴を断られた。ご本人が要らぬというのだ。無理についていくわけにはいくまい」
「そんな」
「書簡をあずかってきた。書庫に運んでおけばいいということだが、どこに置けばいい?」
いまにも庭に飛び出していきそうな姜維に、趙雲は静かに言った。
飛び出していくのは勝手だが、その諸葛亮から頼まれたものだ。劉備によって決済なされたもので、重要度は高い。姜維もさすがに見捨てていきはしなかった。
「殿の承認をいただいたものですね?わたしが置いてきます」
「助かった。礼を言う。内政の書簡だろうから、私が置いては良くないかと困っていた」
「趙雲殿なら構わないでしょうに。丞相は、趙将軍は信頼できる方だと、いつも言っておられます」
「・・・・」
形相をかえた趙雲に、姜維はすこし肩をすくめた。
「こわい顔をされて、どうされました。誉めておられるんですよ、丞相は。この上なく」
誉めていることが苦々しいとでもいいたげなそっけない口調で、姜維は眉をしかめる。
「趙将軍のことは、・・・べた誉めです。頼りになる、信頼できる、忠義に厚い、頭も良いし、兵を動かすのも上手い、とね。丞相にここまで言われて、なにか不満があるのですか」
「あるとも」
「なんですって?」
敵意すら感じさせるきつい眼差しに、趙雲は醒めた視線をかえす。
たしかに諸葛亮は、人を誉めないこともない。
だがそれはなんとなく、誉めておだて上げてかの人の策に都合よく使おうとする意思が透けてみえるものではないか。悪意とまでは言わないが、なにか、裏を感じさせるのだ。
趙雲とて自軍の軍師を悪く思いたくないが、今日のような態度を見ると、片腹痛い。
たとえば、劉備の誉め方はまるで違っている。時にはしたないほどあけっぴろげな劉備は、人を誉めるときも全開で誉める。それこそ唖然とするほど率直に誉める。ときどき妙な誉め方をするのでかなり困ってしまうのだが、それでも誠意を疑ったことなどない。
全身肝だな!!とか叫ばれた時のことを思い出して、苦笑する。
あれはちょっと酷かった。張飛にはからかわれるし。

趙雲の微笑を余裕と取ったものか、姜維はにわかに表情を曇らせた。
「わたしなど、趙雲殿の半分も・・・丞相には」
くやしげに唇を噛む姜維に、趙雲も詰めていた息を抜いた。
魏から下ったこの降将は、まだほんとうに若いのだ。それでいて彼の背負うものは重い。蜀漢においてただひたすらに重い責務をになう諸葛亮が、後継にと目しているから。
「おまえはまだ若い。すぐに私など超えてしまうさ」
「・・・・・・」
すずやかな眉を曇らせて、姜維がうつむいた。
「・・そうは思えません」
小さな声。
彼の精進が並大抵のものではないことを趙雲は知っている。武技を磨き、兵法をおさめ、軍略と外政に目をくばり、知勇を極めんとしている青年が、この先どのような修羅を見るのか想像もつかないが、それはすべて、かの人の為なのだ。
「軍師殿とは宮城から渡ってくる回廊で分かれたが。追うか?」
「・・・丞相は、伴は要らぬとおおせられたのでしょう?お一人になりたいのだと思います。そういう時は、どんなにお探ししても見つけられません。少なくとも、わたしでは」
「・・・・・」
あの軍師は。
これほど慕う弟子にさえも、本心を晒さないのか・・・


頭に手を置いて撫でてやりたくなったが、子ども扱いすることは、いかに年若くてもすでに一軍を率いる将校である彼に対する侮辱となるため、趙雲は自重した。
諸葛亮も、姜維のことは可愛がっている。
姜維は可愛がられるのではなく、認められたいのだろうが。
「場所をかえてもうすこし話でもするか?いずれ軍師殿も戻ってこられよう」
日の落ちた庭では、見るべきものもないだろう。
「・・ええ」
後ろでくくった栗毛色の髪をぶるんと振って気持ちを切り替えたらしい姜維は、誇り高い平常の顔つきを取り戻し、周囲を見回す。
「では、こちらの部屋に。この時間じゃ人は残ってないですが、あまり機密書類なんかが置いてない部屋のほうがいいでしょう」
案内された部屋はたしかに書がなく、文官がくつろいで歓談するための部屋なのだろうか、品の良い家具が置いてあって、隅に炉がしつらえてある。
このあいだ、劉備と諸葛亮とで茶を飲んだ部屋だ。
一瞬立ち止まりかけて、ふたたび歩き出す。あまり思い出したくはないが、違う部屋がいいとは言えない。
「茶を喫されますか?丞相にくらべてわたしはあまり巧く煎れられないですけど、良かったらお煎れします」
いや、いい、と言いかけて、さきほど少し険悪な雰囲気になったことを、姜維が取り返したがっているように思えたので、やはり頼むことにした。
「じゃあ、もらおうか」
「いいですよ。練習をしたいので」
姜維が茶を煮る手順は、諸葛亮と同じだった。それが茶をいれる時の決まりきった方法なのか、それとも姜維が諸葛亮のやり方を真似しているせいなのか趙雲に知識はなかったが、後者だろうと思った。
姜維はおそらく諸葛亮のやり方を忠実に真似ているのだ。
とても似ていたけれど、同じものではなかった。
諸葛亮の煮た茶はとろりとたゆたう翡翠色をしており、深く澄んでいた。
姜維がいれた茶は、きれいな緑色をしていたがわずかに色が浅く、味はもっと違った。荒けずりな苦味が感じられたのだ。
姜維にはもっと違いが分かっているのだろう、真剣な顔で香りをきき、口をつけた彼は、ひと口含むや顔をしかめてしまった。
「やっぱり、丞相には及びません」
趙雲はすこし黙った。味だけではない、仕草が違う。深く深く沈んでいくような、諸葛亮の表情、袖の動き。茶器を差し出すときの、黒い双眸の動き。
『どうぞ、趙雲殿』
声の、不思議な余韻・・・・
なにか心に引っ掛かった。
茶器を渡すとき、諸葛亮は趙雲のほうを見ながら、茶器を差し出した。それは自然な、たとえば今しがた姜維が趙雲に茶を渡したときのように、誰に対するときでも同じようにする仕草だった。
だが、劉備に渡すときは?
諸葛亮は、徹頭徹尾、目を伏せていた。
ひどくきらきらした目で諸葛亮を見つめる劉備に対して、諸葛亮の視線は一度も、劉備を直視しなかった。
「趙雲殿?」
「ああ、・・・馳走になったな、姜維」
「いえ。まだ修行が足りませんで」
茶器を、返す。疑問が大きくなった。
煮えたばかりの熱い茶を主君に手渡す際に、その主君を見ないなどということが、ありえるのだろうか。

2煎目の茶を受け取りながら、たいしたことじゃないんだが、と趙雲は前置きした。
「軍師殿が、私のことを誉めていたと言ったが・・・私は軍師殿が他者のことを話すのをそれほど聞かないが、お前にはよく話されるのか?」
「あ・・・」
姜維が額を押さえた。まずいことを言ってしまったかと悩むような仕草だったが、表情をあらためる。
「それは多分、わたしが軍師見習いだからだと思います。丞相は、私語として将や文官の方の噂話をなさったりしません。でも、わたしは軍略を編むためには、武将方の性格や戦い方のクセなんかは知っておかなければならないと思いますので、わたしは丞相に武将方のことをお聞きすることがよくありますし、聞けば丞相は答えてくださいます」
趙雲はうなずいた。
まさにそういうことなのだろう。
真剣な表情の姜維が続ける。
「あんまり具体的にどう仰っているかは、お話できませんけど・・・あの、こればかりは言っておきますが、丞相は、悪口を言ったり批評なさったりするわけじゃありませんよ?あくまで戦略上、必要なこととして、」
「分かっている。そうなのだろうな」
「長所も欠点も、ありのまま捉えようと苦心されています。もっとも、その・・・人を読むのは私も苦手なのです、と仰っておられますが」
「・・・・・」
苦手・・・?
戦場ではあれほど、自信に満ちているのに――?
「・・・それで、私のことは、良く言っておられるのか」
「良いとか、悪いとか、区分されるわけじゃありませんけど。あくまで性格をそのまま捉えようとしておられるだけですから。それを置いておいても、趙雲殿のことはべた誉めですね」
「いや、私のことはいいんだ」
「はあ」
姜維は首をかしげる。茶器のふちを親指でなぞりながら趙雲は、つとめてさりげなく切り出した。
「殿の、ことはどうだろうか」
「えっ殿ですか?」
ずいぶん長いあいだ、姜維は考え込んだ。
姜維は頭の回転の速い青年で、思考や決断は普段とても早いのだが・・・記憶をさぐるように、卓に置かれた茶器をじっと見てしばらく考え、おかしいなというように首を振った。
「・・・殿のこと。・・・聞いたことが、ありません」
「言いにくいことなら、無理に聞くわけではないぞ」
「いえ。聞いたことがないんです。まったくないです。そういえば、わたしが蜀に下ってからすぐの時に、劉備様はどのようなお方ですか、とお聞きしたことがありますが、何も仰いませんでした。そなたが自分で確かめなさい、と」
「一度も、ないのか」
「・・・ええ。そう言われてみると意外なのですが、わたしは聞いたことがありません。どうしてだろう・・ほかの武将方の戦法は、ご性格ご気性も含めて、詳しくわたしと話し合ってくださる丞相なのに。君主のお人柄を語るのは、臣下として不敬だと思っておられるのかな・・・でも、劉備様だって戦場に出るお方なのに。君主であられるといってもそういう意味では、武将には違いありませんよね。どうしてなんだろう・・・」
さっぱり分からない、というふうに姜維は顔を振った。
趙雲にも分からない。
「軍師殿は、殿のことをどう思っておられるのだろう?」
「え?」
姜維は不思議そうな顔をした。
「丞相が、殿を?普通に敬愛しておられるんじゃないですか」
少し前に、趙雲が劉備に答えて言った言葉を同じだった。

『諸葛亮は私のことをどう思っているのだろうか。そなたはどう思う、趙雲』
『軍師殿は、殿のことを敬愛されていると思います』

でも一箇所だけ違う。胸がざわついた。
”普通に”―――
普通・・・普通って、なんだ―――?




姜維に茶の礼を言って別れた趙雲は、自室には帰らずに、宮城に戻った。
劉備の執務室の前には、顔見知りの兵が2人ばかり立っている。
かれらは趙雲の見ると矛をびしりと立て、ていねいに頭をさげた。
「殿はどうされた?ここにはおられないようだが」
「はっ、趙将軍と軍師様が退室されてから、しばらく篭っておられましたが、張将軍様がいらっしゃって、今夜は酒宴だと」
「張飛殿と、いっしょに行かれたのか。・・・変わった様子はなかったか」
「は・・・張飛様にですか?」
兵は笑った。趙雲はあいまいに頷いた。
「いいえもう、相変わらずのご様子で。朝まで飲むんだと張り切っておられました。『たまには賑やかに呑もうぜ兄者、簡雍に孫乾やらも、近ごろ兄者と話してないってむくれてやがった。皆で酒盛りだ!』と」
もうひとりの兵のほうもくすくす笑う。
「『子龍はどこだぁ!?逃げやがったのか!?』と怒鳴っておられましたよ」
「そうか」
張飛はもちろんのこと、簡雍、孫乾は劉軍の中でも古株だ。一癖もふた癖もあるが、劉備との相性はとても良く、仲間でもあり友人でもある。
部屋にこもって一人で泣いていたらどうしようかと心配になってきてみたのだが、古馴染みの友人たちと酒盛りというのは願ってもない展開だった。
臣下として主君の恋愛には関わらないと己を律している趙雲だったが、主君の気が沈んでいるのはやはり心が痛い。
まして劉備は、情を内に溜めておける性分ではない。どんなに想っても軍師のほうにその気がないのならば進展しようもなく、酒で発散でもして気を紛らわすくらいしかない。
それに軍師があの調子ならば、劉備が思い切るのも案外早いのではないか。

「お前たちの当番は深更までだったな。まだだいぶあるが、よろしく頼む」
「はっ」
ぴしりと直立したふたりの兵が、頭を下げるのに返礼して、趙雲はその場を離れた。

 






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(2009/9/15)

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