50題―22.隔たり-6

 


すっかり夜だ。
厨房に立ち寄ったところ、酒盛りをしている張飛に御馳走を頼まれて用意したところだといって、思いがけなく豪華な夕餉にありつけた。
こんなことなら姜維も誘えばよかった。
鶏の丸焼きを運んだばかりだという料理人は、これから酒の追加を持っていくのだという。
すこし考えて、趙雲は酒の配達を引き受けることにした。
どこで飲んでいるのか知らなかったが、張飛の怒号が聞こえてくるのですぐに分かる。灯火がいくつも並んで昼間のような明るさの部屋に、何人もの酔漢がごろごろと座っていた。

「お、子龍、きやがったか。酒樽付きたぁ気がきいてるぜ」
張飛は赤い目をぎょろりと剥いたものの、それほど酔ってはいないようだった。
持ち重りのする酒樽ごと部屋に引きずり込まれて、大きな酒杯を握らされて、どくどくと酒を注ぎかけられる。
趙雲は、なんとなくひと息で酒杯を空けた。飲み干すとふたたび一杯。
なんとなく沈んでいた周囲は、ここぞとばかり喝采する。
「子龍さん、いい呑みっぷりやん。ええなあもう一杯いっときなはれ」と簡雍が酒を注げば、
「ぃよッ男前!さすが劉軍結婚したい男7年連続ナンバーワン!!」と孫乾が茶化し倒す。
「ああ?どうしたんだ子龍、おめえ、そんなに酒好きじゃなかったよな?」
張飛は目を丸くしている。
「いや、――飲まずにいられないというか」
「なんや子龍さん、切なげやねぇ。若い男前にもそんなことあるのんなぁ、ええわ呑まはったらええ」
「ほらほら一気一気!いい飲みっぷりぃあーもう惚れちゃう、抱いてー子龍さん」
「おうなんか分かんねぇけど分かんねぇ時は飲むに限るよな。飲んどけ子龍」
簡雍孫乾も張飛もいつもと変わらないように見えて、どこか精彩を欠いている。
「殿は――?」
いつもはかならず人の輪の中心にいる人である。
奥では張飛、関羽の息子である張苞と関興がにぎやかに、どっちが酒に強いかを競って呑み比べをしている。糜竺はちびりちびりと渋く呑んでいるようだった。
劉備はというと、隅の壁にもたれかかり、ぼんやりと月を見上げていた。
「兄者が元気なくてよぉ・・」
張飛がぼつりと言う。
「ええ・・・」
孫乾がおどけた仕草で趙雲に片目を瞑ってみせ、行儀悪く寝そべって酒を含んでいた簡雍がこりゃあかんわというようにひらひら手を振る。
世知にたけた彼らには、劉備の不調はお見通しなのだろう。
趙雲もアイコンタクトを送った。
なんとかしてください、と。
目配せを受けとった簡雍が、しゃあないなぁというふうにのそのそと立ち上がった。
「なぁ劉備はん、酒胡子やろか。誰か最初に潰れるか、賭けようやないか」
張飛ががばっと身を乗り出した。獲物を前に舌なめずりする虎の風情である。
「俺様が勝つに決まってんだろぉ!が、賭けというなら乗ってやらんこともないぜ」
「なあ、そしたら今持っとる有り金全部、賭けよっか」
「げぇ、有り金なんか。そりゃあ荒れるねえ。それでええ劉備はん?」
「よっしゃ!乗った!ホラ、兄者、行くぜ」
宴席でやる遊戯で、酒胡子(しゅこし)というおもちゃの人形を投げてコマのようにぐるぐる回し、止まって倒れた方向にいる者が酒を呑むという趣向である。
もとは貴族の風雅なお遊びなのだが、劉軍がやるともちろん底なしのドツボにはまる。
なにしろ金がからむ。
有り金をそれぞれ積んで、潰れた者から没収、最後に残ったものが総取りするという風流のカケラもない地獄のルールである。
おもちゃが倒れる方向というのは運のようにみえて、手先の器用なヤツが投げれば誰かを狙って酔い潰すこともある程度は可能で、金がかかってるだけにそのあたりの駆け引きには本気になる。
ヤクザな劉軍の古参は、有り金をぜんぶ持ち歩いているやつが多い。いつでも持って逃げれるように。
合わせると大金になり、若い張苞関興は息を吸い込んで目の色を変え、簡雍がふところから酒胡子を出してくるのを、ギラギラした目で見守っている。
よくそんなものがふところから出てくるなと趙雲は感心したが、取り出された玩具は、これまで劉軍のいくたの酒盛りでの盛り上がりと怨念が染み付いたように、使い古された凄みを放っていた。


趙雲は酔ったふりをして戦列をはなれた。
劉備もそこそこ乗っていて、わりと真剣に玩具のゆくえを追っている。
張苞と関興はどちらがどちらとも分からないほどぼろ負けして呑まれされており、もはや人事不省の体で、それでもきかん気を発揮して宴席にとどまっている。若い彼らがべろべろに酔って繰り出すとんちんかんな言動が可笑しくて、酒盛りは盛り上がっていた。
同じように張飛もぼろ負けしていてべろんべろん、やはり負けている劉備はぐだぐだに酔わされていて、張飛はヒナを守る親鳥のように劉備にまつわりつき、あれこれと世話を焼きながらもまた負けて呑まされている。
孫乾が馬鹿げた野次を飛ばすので、劉備もしまいには苦笑しながら、張苞と関興を小突いている。
酒がどんどん運ばれて、ちょっとしたつまみも差し入れられる。
夜中に働いている料理人はべつに嫌な顔もしていない。劉備が言葉を惜しまずに料理を誉めるので、料理人も給仕の小者も、みな劉備のことが好きなのだ。
窓にもたれかかった趙雲は空を見上げる。
月が、出ていた。
宮城やそのほかの建物はひっそりと静まり返っていて、この広間だけが別世界のように賑やかに盛り上がっている。
ふと、闇夜に明かりが灯って、趙雲は目をすがめる。
そこにあるのは丞相府―――諸葛亮の政庁である。
趙雲は瞠目した。
諸葛亮とは日暮れの回廊で別れた。
まさか、いままで庭を歩いていたのだろうか。
それに、この時間になって火が灯るというのは・・・
広間を振り返ると、昼間のような明るさで、何人も人がいて猥雑に盛り上がり、古参の仲間に囲まれたその中心に劉備がいる。酒を運んできた従者がまだ留まり、手を打って遊戯を盛り上げている。宮城の料理人が肉の煮込みの皿を運び入れている。
政庁の明かりは、ひとつだった。そのほかには何もない暗闇だった。
虚空の闇を、ちいさな月がぽつりと照らしている。
趙雲は広間を忍び出た。








ぼつりと一つだけ、闇ににじむように灯った明かり。
建物は真っ暗で、人けがない。
宮城ならばこうではない。
夜でも篝火が焚かれていて、誰かしらが起きている。張飛の酒盛りなどそれこそ深夜まで賑やかに行われているし、――
昼間は多くの人間が出入りして活気がある場所だけに、暗くて人のいないのが不気味だった。
こんなところで、一人で・・・
諸葛亮が深夜までひとりで執務を続けていることを趙雲は知識として知っていたが、こうして実際に丞相府に来てみると、その淋しさは異様なほどだった。劉備は知っているのだろうか。
ひとつだけ灯った明かりへと近付くと、ふいに、細い音が耳を届いた。
昼間の喧騒の中ではぜったいに聞こえないであろう、細い細い音。
月の光が差し込むような、静寂の音だった。
それが諸葛亮の声だということに気づいて、趙雲は息を呑んだ。
呟いているような、嘆いているような音律。
・・・心の中に秘めた想いがにじみ出るような声音・・・
恋の詩だった。
届かない月に恋をしたという、へたくそな詩だった。
夢中で扉を開ける。
窓の外を見上げていた諸葛亮は、うつろな表情で振り返り―――はっと手で口を押さえた。
しばし、趙雲と見詰め合う。
やがて諸葛亮はあきらめたように、手をおろした。
「軍師殿・・・」
趙雲の声は震えた。
「軍師殿。あなたは・・・殿を、愛しておられるのか」

 






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(2009/9/17)

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