部屋の中は闇のほうが多かった。
いくつかともされた灯のみが、わずかな明かりを投げかけている。
明かり灯が揺れて、大量に積みあがった書に投げかける陰影が揺れた。
軍師の白皙の容貌の上に宿る陰影もまた、揺れている。
「あなたには気づかれるだろうと思っていました。殿にならば、一生、隠し通す自信があったのですが」
「・・・お口癖は、お言いにならないのか。これも計算通りだと」
「私が、故意にあなたにばらしたとお思いになりますか」
「分かりません。・・しかし」
「あなたがそんなことを言い出されるとは。・・・日頃の行いを悔いるべきなのでしょうね」
ひそやかでうつろな笑みを浮かべた諸葛亮は静かに歩き、卓についた。
地面が揺れている錯覚がして、趙雲は顔をしかめた。
諸葛亮の周りだけ磁場が狂っているような錯覚がする。当たり前の常識と非常識が逆転しているような。
好きなのか。嫌いなのか。
愛しているのか。憎んでいるのか。
その中間ということは多分、ありえない。
およそ極端の両端に、この軍師は立っている。
部屋にしつらえてある大卓には、ありとあらゆる書簡が置かれていた。
軍事に関するものもあれば、内政に関するもの、他国の動向に関するもの、蜀の周辺民族に関するもの。投石器の図面が描かれた布の下に、作物の育て方が記された竹簡があり、その横には呉の間者からもたらされた水軍の詳細な書があり、その上に魏の曹一族が詠んだという詩賦が重なっている。
曹家の父子がすぐれた詩人だということは話には聞いていた。
「読んでも?」
「ええ、どうぞ」
魏公曹操の詩賦は、雄大だった。転調の感じが掴みがたいほどに激しい。
子息曹丕の詩は怜悧であり、曹植の詩は情熱と悲哀がほとばしる芸術的なものだった。
くらべると劉備の詩は、笑ってしまうほど、へたくそだっだ。
だが趙雲は、一級であるのだろう曹操の詩賦には心を動かされなかった。気宇壮大で覇気に満ちた詩に感心はしても、血が沸くということはない。
巧い詩は多くの者の心を動かすのだろう。でも、へたくそな詩がただ一人の心を動かせないとは限らない・・・・
「同衾を断り続けるのも、殿といさかかも目を合わされなのも、殿のことだけを愛弟子との会話に上らせないのも、・・・焦がれておられるせいですか」
それが求愛行為だというのなら、この軍師の精神はどういう構造をしているのか。
「・・・趙雲殿。殿は、よくあなたのことを呼ぶでしょう?」
「どういう意味ですか」
「なにかひと言話しかけるたびに、呼ぶでしょう。なあ、趙雲、そう思わぬか、趙雲、今日はこういうことがあったのだ、趙雲、そなたはどう思う、と」
「ええ。それはよくお呼びになります」
「私に対しても、同じです。これはどう思う、諸葛亮、よくやってくれた、諸葛亮、そなたを頼りにしているぞ、諸葛亮、と。それは繰り返し私の名をお呼びになります。呼ばれるたびに私がどう思っているかなど、考えもされずに」
「・・・どう思っておられるのですか」
「名というものは、おそらく魂を持っています。名を呼ぶということは、ある意味魂を掴むということなのでしょう。だから名を呼ばれると、人は心を掴まれた心地がする・・・殿のは無意識でしょう。あの方は考えもせず、人の心を掴んでしまう。掴まれるほうは、たまったもんじゃありません」
「掴まれてしまいましたか、心を」
「ええ」
趙雲は息を吐いた。
どう反応したら良いか分からなかったのだ。
この期に及んで、軍師の表情は平静だった。
冷たいような、厳しい、おごそかな無表情だ。
諸葛亮は卓にあふれた書物をすこし寄せ、空間を作ると、書簡をひろげた。木の触れ合うかすかな音がたつ。
永遠に続くかと見える長い書簡には、びっしりと字が埋まっている。北方からもたらされた軍事に関する報告書らしかった。
袖を払い、硯に水を足して、かるく墨をする表情は、政務をする丞相としての顔である。
なにもかも受け入れて、なにも求めない厳しい顔――
「殿は、誰に対しても同じなのです。あなたに対しても、私に対しても、張飛殿や、そのほかの皆に対しても同じく繰り返し名をお呼びになります」
「それのどこに問題があるのです」
「今も、ご友人方に囲まれて賑やかにはしゃいでおられる」
「はしゃいではおられません。月を見て、ため息をついておられた」
「沈むのは、どうせ一瞬だけです。今は、はしゃいでおられますよ」
「あなたは、殿が誰にでも名を呼ぶから、いつも皆に囲まれているから、・・・嫌なのですか?」
しまった、と反射的に思う。
嫌なのですかとは、低俗な言葉を選んでしまった。理知を何より尊ぶこの軍師が、そんな言葉を良くおもうはずがない。
案の定、もの凄い目で睨まれた。
「・・・私の心を憶測するのは、あなたでも許しません。殺しますよ、趙雲殿」
むっとした。もちろん睨み返した。
「不用意な発言であったことは謝ります。しかし軍師殿こそ、思い違いをなさっておられる。そのような安い脅し文句で私を縛れると思われるなよ」
しばし、にらみ合う。
この人を氷だと評したのは誰だ、とふと思った。
どこが氷か。この人の内面は、烈しく熱いのではないか。
殿は厄介なものを抱え込んだのかもしれない。三顧で迎えて軍師にまつりあげたのはともかく、よりによって惚れるとは。しかもべたべたに。
それだけならまだしも。惚れさせるとは。
肩で息をついた趙雲は、真摯な表情で軍師をのぞきこんだ。軍師もまた、表情をゆるめる。ゆるめるといっても、険悪な殺気を消しただけで、いつもの荘厳な無表情だったが。
「殿に告げるおつもりは、・・・ありませんか。殿はそれは、苦しんでおられる」
そっと言った。
故意に苦しませて溜飲を下げているのだとしても、それが劉備にとってはもちろんのこと、軍師にとって良いこととは思えない。
沈黙があって、諸葛亮が答えた。真摯な表情であり、静かな声だった。
「趙雲殿。私は水で良いのです。人が空気の存在を意識しないように、魚は水がそこに在ることなど、気付かないものです。私の内面は暗く、埋められない虚がある。私を愛すれば、あの方にも虚が移ってしまいかねません」
「虚があるからこそ、人は他者を求めるのではありませんか?」
「求めすぎるのが怖いのですよ」
しばらく間があり・・・諸葛亮は口端をゆがめた。
「今夜は、どうもしゃべりすぎるようですね。月のせいでしょうか」
趙雲はやるせなげに眉を寄せた。
「私も、しゃべりすぎていいですか」
「それは、ご自由に」
「殿は、言っておられた。諸葛亮のほうが魚であればよかったのだ、と。それならば釣り上げる方法もあるのに。なのにあれは水で、捕えようとしても、逃げてしまう。私のほうが釣り上げられてしまった、心を。と。軍師殿、ほんとうに、このままで良いのですか」
「・・・・・」
諸葛亮は斬るような鋭さで何も書かれていない新しい書簡を広げると筆を取り、筆先を書面におろした。
書かれはじめたのは、蜀内に配置する軍の編成書のようだった。
雄弁な無言の返答を受け取って、趙雲は肩で息をつく。
書簡に筆をすべらせる諸葛亮の、筆先が止まった。
木をなめらかに削って作った木簡が、すこし木肌がささくれていたものか、墨痕がぽつりと落ちている。なにか涙のように。
着物の帯にはさんでいた小刀を抜いた諸葛亮が、墨の雫痕を削り取っていく。
指先は細く、血の気が引いて青褪めている。強張った指で扱われる小刀は、書簡の汚れを削り取り、勢いあまって諸葛亮の指をも傷つけた。
「・・・・・」
見る間ににじむ、赤。
諸葛亮は表情を変えず手巾を取り、指に当てた。布に、細い赤の筋が移ってゆく。
「軍師殿・・・」
趙雲はそっと、布に当てた手に己を手を重ねた。
重いため息が軍師の口からもれる。
「届かない月を想っているのは、私のほうかもしれません・・・でも、私は夜でいいのです、趙雲殿。乱世を照らす希望の月が殿ならば、殿の治世を支える闇が私なのです」
疲れたような、声。
趙雲はなんとなく、不可解極まりない軍師の心情の一端が、少し理解できたような気がした。
劉備は、皆に愛されすぎている。そういう君主を臣としてだけではなく愛するのは、多分、苦しい。
「もうお行き下さい。私は政務を続けます。・・これを書き上げたら、今夜は早めに休むことにします」
「どこが、・・・早いのです。もう真夜中です」
趙雲はわずかな血のにじんだ諸葛亮の手を握りしめた。
諸葛亮は、穏やかに微笑していた。
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(2009/9/20)
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