50題―22.隔たり-8

 


張飛の酒盛りは終盤にはいって、いっそう猥雑な雰囲気になっていた。
劉備は泣き寝入りしていて、皆の上着やらマントやらを掛けられてもぞもぞと丸くなっていたが、張苞関興は寝ることを許されずに、吐くか暴れるかの境い目をさまよっている。
張飛はときどき劉備の様子を覗き込んでは上着を掛け直したりと甲斐甲斐しく世話を焼きながら鯨飲し、そろそろ酔いつぶれかけていた。
古参の面々は夜はこれからとばかり、簡雍はいい塩梅に酔っ払ってぼちぼち下ネタが研ぎ澄まされてきているし、孫乾は大人げの欠片もない言動で若者二人を絡み倒し、糜竺は飲むほどに元気で、日ごろ真面目な人ほど酔うとコワイという見本を体現している。
趙雲が扉を開けたときは、まあそういう状況であった。
張飛はとろんと半分寝たような眼で舟をこいでいたが、扉にいちばん近い位置だったのでさすがに気づいた。
「お・・・子龍・・・戻ってきやがったのか」
「子龍さんずるいで。賭けしてんのに抜けるんやもん」
酒席を中座したことを非難する野次を軽くいなし、趙雲は乱れた酒席をすりぬけた。
戦場のただ中にいるような、はりのある声で咆哮する。
「――殿!!」
「ぅ・・う、ん?うー・・」
べろんべろんに酔っ払ってうとうとしていた劉備がぼんやり顔を上げるが、目の焦点がまるで合っていない。
「ぅぅ?」
そばに置いてあった杯をのそのそと趙雲に差し出す。張飛愛用の酒杯はどんぶりのように大きく、白っぽい酒がなみなみ注がれていた。受け取った趙雲はひと息に飲み干し、静かに酒杯を床に置いた。
やんやとはやしたてる喝采を黙殺して、趙雲は劉備を引きずり起こした。水をぶっ掛けようかと思ったのだが、あたりには酒樽はあっても水らしきものはない。
かわりに廊下に引きずり出して、胸ぐらを掴んで締め付けた。
「殿、ご無礼お許しを」
ぎゅうぎゅうに締め付けられてさすが劉備も、酔いをすこしひかせたようだ。
「く、苦しい、趙雲・・」
「殿」
ごいごい締められる劉備はつぶれた蛙のようなうめきを漏らすのみである。趙雲は声を荒げた。
「殿、・・・おそれおおいことですが、いまは、いまだけは、おそれおおいことながら、臣下ではなく、友として聞いていただきたい!」
「ぅ、ぅぅぅ〜・・・」
趙雲は声をひそめた。
「軍師殿が、お怪我を」
「ぅ、ぅ〜・・・う?」
一瞬、劉備がぽかんとする。
赤い酔っぱらい顔が、ざざと音が出るような速さで赤みを引かせていく。趙雲を見上げた顔は、武将の顔だった。
「な、なに!?諸葛亮が・・っ!?ひど、ひどいのか、趙雲!?」
「それは、もう。血がどくどくと」
趙雲は、ちょとだけ胸を押さえた。嘘は言ってないな、・・・うん、言ってないな。
劉備ははっきりと顔色を変えていた。凛々しくも緊迫した顔で叫ぶ。
「――どこに居るっ!?」
「政庁の、執務の間に。お急ぎください、殿!」
「うむ!!」
颯っと双剣を腰に佩いて、劉備が身をひるがえす。その足運びに酔いなどかけらも残っていなかった。


「あ、兄者ぁ〜・・?」
冬眠中の熊がうっかり起きてしまったように、張飛がのっそりと顔を出した。
うつらうつらと揺れている酔眼にうつったのは、必死に駆けていく劉備の背。
半分閉じていた両眼が、ぐわっと見開いた。
「な、おおい、どこ行くんだ、兄者ぁ!!」
返事は無く、劉備の背は廊下を曲がって消えた。
「なんだなんだぁ、戦かっ!?戦だなっっ!?おれも行くぞぉぉ!!!」
戦だと叫ぶわりには愛用の蛇矛には目もくれず、壁をびりびりと震わせるような咆哮を響かせて、張飛が突進する。
「待て、張兄!!」
趙雲渾身のタックルが炸裂し、さしもの張飛も足が宙に浮いた。そのまま二人して吹っ飛び、ごろごろと床に転がる。
おどろくほど素早い身のこなしで糜竺がカウントを取りに走った。
「ワン、ツー、カァァァァァァァン」
「勝者、青こぉーなぁー趙子龍ぅ〜!いやぁぁん子龍さん素敵ぃ!」
孫乾のふざけた宣言で、張飛の闘争心に火がついた。
「てめえ、やりやがったな、子龍・・・俺様に勝とうなんざぁ・・」
「ちょ、糜竺殿、カウント早すぎ!」
趙雲は青褪めるが、酔っ払いどもはげらげら笑うのみである。
「張兄、いや、今は殿の一大事で。だから」
「百年早ぇぞ!!」
張飛の拳が飛んできて、とっさに趙雲はよけた。超重量級の一発は背後の壁にめりこみ、ぱらぱらと漆喰が剥がれ落ちる。
「張飛どのぉ、顔は、顔はやめてぇーー!」
「子龍さんいけぇそこやっ!右やばいで避けなはれや!」
外野からやんやの野次が飛ぶ。
べろんべろんに酔った張飛の攻撃を右に左にと冷や汗だらだらにかわしながら、これはまずい、と趙雲はおもった。
一発でもまともに当たったら、沈められる。
張飛の拳をくらったら一般兵なら当たり所が悪ければあの世行き、運がよくても3日3晩意識不明の重態におちいるのが常識。趙雲でも一昼夜は立てないだろう。
趙雲は間合いを読み、繰り出されてきた張飛の腕をはっしと掴んだ。
「ぅ、お・・!?」
「すまない、張兄!」
前のめりに降ってくる巨体を避けてすれちがいざま、体勢のくずれたみぞおちに、渾身の力で拳を叩き込む。
明日も殿の警護につかなければならないし、調練もあるし!ここで張飛に沈められるわけにはいかない!
・・・と、趙雲は心をオニにした。
ずるり、と張飛の巨体が沈む。
助かった・・・て。い、いや?
趙雲とて一級の武人である。張飛の気配が、意識を失うどころか戦闘意欲をめらめらと膨大させているのに気付いた。
むくりと張飛が起き上がる。まるでゾンビのようにおそろしくゆっくりで、怨念と闘争心あふれた動きである。なんかもう目が、正気ではない。
趙雲も酒が入っていたせいで、一撃で沈めるつもりが目測をやや誤ったのである。
大乱闘に、なった。酒盛りの広間はもはや阿鼻叫喚である。

必死になって応戦しながら、趙雲はガランとした政庁にぽつりと灯っていた火のことを考えた。
闇はいまごろ、月に抱かれているのだろうか。

 






次へ ≫


(2009/9/22)

≪ 一覧に戻る