50題―22.隔たり-9

 


翌朝になって、趙雲は宮城にむかった。
朝番の兵がぴしっと直立する。
兵たちが少しだけ目をそらしているのは、趙雲の片方の顎から頬にかけてが腫れ上がっているからだった。
内心では尊敬の念を新たにしている。酒盛りで張飛が大暴れしたことは城中に知れ渡っていた。
あの張飛と夜通し呑んで、翌朝立って動いているだけでもすごい。
まして乱闘になって生きているのは、すでに伝説の領域である。
宮城の奥にある劉備の私室の前で、側仕えの侍者とばったり会った。
手には洗面の道具をもち、右の腕に清潔な布を引っ掛けている。
「お早う御座います、趙将軍様。良い朝でございますね。昨夜は、久方ぶりに軍師様が殿と同衾なされた由、いまからお起ししに参るところでございます」
「、ちょ――ちょっと待て」
「はい?」
行儀が良い上に気が利くということで劉備の側使えに抜擢された少年は、貧しい農家の出で、生まれにふさわしい素朴な顔ににこにこと笑顔を浮かべている。
久方ぶりの同衾。
(では殿は、昨夜、首尾よく軍師殿を・・・)
趙雲はすこし赤くなった。
じゃあ、同衾というのは、同衾――
十をすこし過ぎたばかりのいとけない少年は、邪気のない幼い顔で趙雲を見上げている。
教育上、良くない・・・もしかしたら、まだ寝台で、―――
なにせ『同衾』。
「いかがされましたか、趙将軍様?」
「その道具、私が運ぼうか」
「とんでもないことで御座います!これはわたしの職務ですゆえ!」
「こら」
「え!?」
「・・・大きい声を出さぬほうがいい。殿のご寝所だから」
「あ、・・申し訳ありませぬ!」
「そなたは良い子だな」
叱られたと思って首をすくめる少年の頭部を、趙雲は大きな手で撫でてやった。
その時、
「・・・なんの騒ぎでしょうか」
寝所側の扉が、開いた。
聞き慣れた声に、趙雲は少年をさりげなく後ろに隠し、その人の姿を見えないようにした。
高雅な長身は、常のごとくあまり表情がなかった。
寝衣の上に地味な色で仕立てた表袍を羽織っている。髪に、わずかに寝乱れたというほつれがあるくらいの、ゆったりとくつろいだ起き抜けの風情である。
「・・・おや」
つぶやいて、手を伸ばしてくる。
「その傷・・いかがなさいました」
「名誉の負傷です。恩賞をいただきたいくらいだ」
腫れ上がった顎に触れられた趙雲は顔をしかめ、目を丸くしている少年に命じて道具を置いて下がらせた。水を張った盥や布をきちんと整えて並べて少年が下がっていく。
趙雲はすこし笑った。
「昨夜、殿があなたのもとに一目散に走って行った後、追いかける張兄を、止めようとして」
「張飛殿に殴られましたか」
「殴られたら、顎が割れてますよ。かすめただけなのですが、何となく力尽きて眠ってしまって。張兄も勝った!と思ったのでしょう、そのまま寝かせてくれました」
「それは・・・すまないことを、と謝るべきでしょうか、私は」
あたたかみのある苦笑を浮かべる軍師に、趙雲は目を細めて、そっと左手を取った。
「血は止まったようですね」
「殿になんと言ったのですか。大怪我をしているに違いないと思い込んでおられて、何度言ってもかすり傷だと信じてもらえなかったのですよ。まったく・・・趙将軍ともあろう方が、卑怯な策をお使いになる」
趙雲は苦笑して、耳元にささやいた。
「闇は、月に届きましたか」
「・・・・・」
諸葛亮は微笑した。澄んだ泉の底でゆらめく水のような、微笑だ。
深みでたゆたう美しさに趙雲は目を見張り、そしてその際、あらぬものを目にして赤面した。
そんな趙雲を諸葛亮はすこし睨んだ。
「先程も、着衣を上から下まで見ておられましたが、・・・昨夜は、べつになにも。手を繋いで寝ただけですよ」
「・・・・・」
図星を突かれて、趙雲は肩を震わせる。
手を繋いでって・・・なんだかよけい恥ずかしい。
それに、
(じゃあ・・・首のところのそれは。軍師殿が眠っているあいだに、殿が勝手に)
諸葛亮の首の付け根には、赤い痕がぽつんとついているのだ。これみよがしの大胆さはなく、ひっそりと控えめに、どこかおそるおそるというふうに付けられた痕だったが、近くで見ると、何の痕であるかはっきり分かる。
「それにしてもご婚姻もまだの趙将軍の凛々しいご容貌に傷がつくなんて。成都中のご令嬢と城中の女官から、恨まれてしまいそうですね」
趙雲の邪推への意趣返しなのだろうか、ちくりと嫌味を言って諸葛亮は、羽織っていた表袍をさらりと落として萌黄色の内衣に袖を通した。諸葛亮の文官服で、のどの下で合わせる着物だ。落ち着いた色合いは良く似合っていたが、趙雲はうろたえた。
「軍師殿。私の顔なんてどうでもいいですから、・・・」
「はい?」
「今日は、違う服にしませんか」
「なぜです?」
「できれば、その・・・襟の立ったものを」
「・・・・・」
眉をひそめた諸葛亮が合わせたばかりの襟をすこし肌蹴て、鏡に近寄ろうとする。
「いけません」
とっさに趙雲はその手を押さえた。
「諸葛亮!!」
ばったん!!と騒々しい物音を立てて現れたのは、もちろん劉備である。
「諸葛亮!!目が覚めたらそなたがおらぬから、私は・・っ」
言いかけて、鏡の前で端麗な武将と寄り添う衣の乱れた軍師を見て、まんまるに目を見開く。2、3度あえぎ、・・・おそるおそるというふうに声を出した。
「浮気・・・か、諸葛亮・・!?」
「「違います、殿」」
二者の声が重なる。
「え!では、本気・・・なのか」
「「・・・・・・」」
なぜか、二者とも黙った。
単に呆れて声が出なかっただけなのだが、劉備はもう、うるうるしている。妙な沈黙を破ったのは、ひっそりとした声音だ。
「殿・・・趙雲殿は、私の首もとが、気になっておられるようなのですが」
劉備がうっとうめく。
「ゆ、許せっ諸葛亮!!気が、気が迷ったのだ!魔がさしたとしか思えぬ。すまぬ!!」
衣擦れとともに諸葛亮が趙雲から離れていった。
彼が歩み寄る先には、もちろん劉備がいる。
趙雲は彼らに背を向けた。扉を開けて、閉める直前に、
「私も同じ場所に付けたいのですが。いけませんか?殿」
と、大真面目な声が聞こえた。
噴き出しそうになりながら、問題ないだろう、と趙雲は思った。
劉備の武官服ならば、首もとまでばっちり隠れる。
主君がなんと答えるのかちょっとだけ興味がないわけではなかったが、趙雲はぱたんと扉を閉めた。

こんどは髪結いの道具をもってきていた従者の少年が目を丸くしているのに、趙雲はすこし笑いかけた。
「もう少し、あとに持っていたほうがいい」
「そうなのですか?」
「殿と軍師殿はいまちょっと、な」
「あっ・・ご政務についてお話し合われておられるのですね」
少年があまりに真剣な、深刻な表情で気負うので、趙雲は肩を揺らして笑い出した。
笑うと、張飛の拳がかすめた右の顎が痛んだ。
痛む顎を押さえて、趙雲は顔をしかめた。
届かない月に恋をした・・・か。
開けっぴろげで単純すぎる主君と、複雑怪奇な思考回路を持つ賢すぎる家臣の、恋。
関わりあいたくないとあれほど思ったのに、気がつけば首までどっぷり浸かっている。
よりにもよって二人ともから近い距離にいるので仕方ない・・・とはいえ、もうこりごりである。
引っ付いたのなら引っ付いたで、なにか騒動が起こりそうな気がしてならないが。
まあ、殿が幸せならばそれでいい。
「あの、趙将軍様。もう少しって、どのくらいですか?」
「さあ・・・」
趙雲は首をかしげた。
それは、劉備の甲斐性しだい・・・なのではないだろうか?

 






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(2009/9/25)

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