50題―23.甘い…1

 


成都の城郭における馬超の私室は、蜀のメインキャッスルであるところの宮城の脇にこじんまりと建つ、随城といわれる建物の最上階、3階にある。
私室としては城でもっとも広い部類だ。その広さは「広い所って落ち着かない」という小市民的発想から抜けられない劉備の部屋より実は広い。

これは馬超が、「狭い所は息がつまる」とワガママを言ったからである。そのうえ彼は「空に近い所がいい」と注文をつけ、最上階と相成った。
その部屋の窓から今まさに身を乗り出さんとしているのは、もちろん馬超そのひとである。
幼少のころより勉学を嫌がっては教師を振り切って遊びに出ていたのだ。
鍛えた上げた抜け出しの術は並ではない。3階分の高さなどなにほどのものか。
念入りに下をチェックするも、通行人の姿は見えない。これでは目撃する者とておるまい、と馬超はほくそ笑んで、窓から一気に身を投げた。
「楽勝だな」
窓辺に伸びた樹木の枝をがしっと掴んで軽やかに一回転、鮮やかに地上に降り立つ、・・・筈だった。
「おわっ!?」
「うわっ!?」
とんだところから伏兵があらわれた。通行人ではない。
邪魔者は、一階の窓からこっそりこっそり忍び出て、地上に降り立った所だった。
踏み潰さずにすんだのは、ひとえに運だ。いくら馬超でも空中で方向は変えられない。なんとか避けて地上に降り立った馬超は胸を押さえて息をついた。相手も同じように助かった、という顔で、ぜいぜい肩で息をしている。
「ば、馬超か。驚かすな」
「劉備・・殿!危ないであろうが!窓から出てくるなっ」
「す、すまぬ・・・」
劉備は上を振り仰ぐ。今しがた落下の衝撃を和らげるために馬超が使った枝が、わんわんと揺れている。樹木の葉っぱが何枚も舞っていた。そして3階では窓が全開にひらいている。劉備が気色ばんだのは当然のことだ。
「馬超!おまえだとて、窓から出てきたのだろう!」
「俺は、ちゃんと下に誰もいないか確認したぞっ!」
「私だって誰もおらぬことを念入りに確かめたとも!」
「上も見ろ!」
「見るか、馬鹿者!どう考えても3階から降ってくるおまえが悪い!」
うぬ、というふうに馬超は押し黙った。
「ま、まぁ、・・・ともあれ、主君を踏み潰さずに済んで良かった」
本心だ。3階の窓から抜け出して1階の窓から抜け出した主君を踏み潰した、なんていう間抜けなことにならずに済んで良かった。劉備が圧死したら、これも謀反になるのだろうか。下克上のくだらない例として歴史書に書き残されたりしたら、おそろしくかっこ悪い。
「そ、そうだな。さいわい、誰にも気づかれていないようだ」
劉備も胸をなでおろす。背伸びして部屋を伺うも、静かなものだ。この上は、
「はやく抜け出すぞ、馬超。ここはまだ危ない。抜け出しというのは、城門をくぐるまで油断はできないのだ」
馬超は目を剥いた。
「抜け出すのか!?」
「なにを言うか。窓から出てきて抜け出さない、とは言わせぬぞ。だいたいおまえも執務の時間だろう?」
「劉備殿は、むろん、執務の時間であろうな?」
「当たり前だっ!こんな昼間から遊びに出るのを許してくれるほど、わが国はヒマではない!」
「胸を張って言うところか、そこは!?」
「大きな声を出すな!・・・それはそうと行き先は決まっているか、馬超」
「・・・いや。とりあえず馬でも駆ろうかというくらいしか、考えておらん」
「そんな志の低いことでどうする!馬で蜀中を回ろうと思っている、くらいの大志はないのか!?」
「あるか、そんなもん!劉備殿は、どうするのだ」
「むろん、決まっておらん。城から抜け出すのに成功したら考える―――が、そうだ、馬超!蜀の町を案内してやろう」
うん、それが良い、と劉備は勝手に納得している。
「決まったな、馬超。行くぞ。私の秘密のルートを教えてやるから」
展開の速さについていけず固まっている馬超の腕が劉備に掴まれ、引きずられる。
呆れたことに、劉備のいう『秘密のルート』というのは、正面の城門から出て行く、というものだった。
「城というものはな、入るのは難しいが、出るのはたやすい」
城門の兵が、うやうやしく拝礼する。そりゃあそうだ。城主が門から出て行くのは止める兵なんかいるはずない。あまりの大雑把さに唖然としたが、ここまで来てしまったらこそこそ出て行くほうが目立つ。
「劉備様、馬将軍様、いってらっしゃいませ」
「ぅ・・うむ」
馬超は偉そうに胸をそらして通り過ぎたが、劉備は立ち止まって、兵になにやら耳打ちしていた。







空廊の向こう側からやってくる高雅な白袍を目に入れて、趙雲は立ち止まった。
同じように清冽な蒼銀の鎧を目に止めて、諸葛亮は立ち止まる。
「軍師殿」
颯っと趙雲が拱手するのに応えて、諸葛亮は軽く頭を下げた。
「趙雲殿・・・良い、日和ですね」
「まことに」
空廊は屋根がついた渡り廊下のようなもので、手すりに寄れば空を仰げる。なんということもなく、将と軍師は揃って空を見上げた。
「軍師殿、お体はもう良いのですか」
「おかげさまをもちまして、もうすっかり良くなりました」
「それはなによりです。顔色もいいですし、美しいです」
「・・・・・・」
孔明はゆっくりと蒼将を振りあおぐ。
趙雲とは、そういう言葉をあまり言いそうにない将なのだが・・・しかし趙雲はのんびりと庭を見ていて、「ああ、あそこの樹、鳥が巣をつくっていますね、右に茂っている枝が分かれている根元に。ヒナがいるのかな、小さな頭が3・・いや4つ。見えますか、軍師殿」と、屈託ない。
「・・美しいというのは、どこからの発想ですか」
「殿が、そう言っておられたので」
「・・・・・・」
「赤壁のいくさの後のことですが、呉からの使者がやたらと周都督のことを誉めて帰られたあと、殿が『周公瑾を美しい美しいとあの者はしつこく言ったが、我が諸葛亮のほうが美しいよな!』とすごい勢いで言っておられました。『そうは思わぬか、趙雲!そう思うだろう、趙雲!』と、胸ぐらまで掴んで問い詰められるので、困ったのです」
「・・・・・・」
「『軍師殿が美しいかどうか今まで考えたことがなかったので、今度よく見ておきます』と私は答えたのですが、殿はそれまで赤かった顔をさっと真顔に戻されて、『いや、見なくていい。見なくていいぞ、趙雲!』とビシッと指を付けつけてご命令を」
「鳥の巣があって雛がいるということなのですが、・・・私には見えません。あの枝の根元でしょうか、茶色い塊があるような気がします」
ゆったりとした口調に、趙雲はちらっと軍師を見た。
謹厳な感じがする容貌は特に感情があわられていない。が、話題の転換が唐突すぎて、ものすごく不自然だ。
趙雲は腹筋にぐっと力をこめて、笑うのをこらえた。ここで笑ったらたぶん、数日間口をきいてもらえない。
「見えませんか、ほらあそこに。軍師殿、書物の読みすぎで目が疲れておられるのでは?」
「そうかもしれません」
もっともらしく頷く生真面目すぎる表情に、耐え切れなくなりそうになって、趙雲は腹を押さえた。

「思い出しました。別のときですが、『目が悪い者は瞳が黒くて美しいのだ、と民が言っていたのだが、本当だろうか、趙雲。諸葛亮の目があんなにも黒くて美しいのは、視力が弱いせいなのだろうか。心配でたまらぬ』と、殿がおっしゃったことがあります」
「さて、そろそろ私は行かなくてはなりません」
唐突過ぎる仕草で軍師が手すりから離れる。
口もとがむずむずするのを手の甲で押さえて、趙雲は真顔をつくった。
「これからどちらへ?」
「殿の執務室へ。私が作成した書簡をお届けして、かわりに殿の決済の済んだ書類をいただきに。趙雲殿は」
「馬超の部屋へ。あいつ、軍師殿から回された書類をまだ仕上げていないようです。他の将はみな終わってますので、馬超から回収したらまとめてお渡しに行きます」
「ああ・・あの書類。そうですね、早くいただいたほうが都合がいい」
「ではあとで伺います、軍師殿」
「よろしくお願い致します、趙雲殿」
諸葛亮は宮城の1階、劉備の執務室へと向かうために、趙雲は随城の3階、馬超の私室へと向かうため。お互いにかるく礼を取り、空廊の右と左に別れた。すぐに会うことになるのだが。



明るいところから屋内に入ったのでなにも見えなくなり、諸葛亮はふと足をとめたが、ほどなく歩を進めた。等間隔に立っている兵がつぎつぎに頭を下げる。こじんまりとした扉の前で、顔見知りの警備兵が矛を置いて拝礼した。
「殿は、いらっしゃいますか」
「はっ。今日は朝から篭りきりでおられます」
「それは珍しい・・・さぞかし執務が進んでおられましょう」
うっすらと微笑んで扉を開ける。劉備の執務室は、けっこう小さい。そのかわり何部屋も連なっていて、廊下側から入れる扉はひとつきりだ。
さいしょに入った部屋は、無人だった。次に入った部屋も、無人だ。脇の小部屋をのぞくも(ここは牀が置いてあって、休憩できるようになっている)誰もいない。それでは本命にいきますか、と最後の部屋に入った。いちばん広くて風通しが良い部屋だ。大きな卓が置いてあって、立派な椅子もおいてある。だが、無人である。
諸葛亮は卓に積み上げてある書簡の一巻きを、手に取った。劉備の名が書いてあり、印も押してある。とりあえず急ぎの執務は終わっているらしい。だけど卓にも椅子にも、少し前まで人がいたというぬくもりは残っていない。
風がそよそよと吹き通っている。窓が大きく開いているからだ。
諸葛亮はすぅっと目を細め、窓辺に寄った。窓にかかる帳が風をはらんでひるがえるのを手で押さえ、身を乗り出す。
「――軍師殿!」
聞き慣れた声に呼ばれて周囲を見渡す。庭からかと思ったが、姿はない。だいいち先程別れたばかりで、彼が向かった方角も庭とはかけはなれている。
「上です」
宮城のとなりに立つ建物の3階の窓から、蒼銀の鎧が身を乗り出している。
「逃げられました、軍師殿!馬超の部屋はもぬけのからです。あいつ、書類にひとつも手をつけていません、真っ白だ!」
「そちらも、窓が開いていたのですか」
「ええ。全開です」

諸葛亮はすこし考えてから言った。
「・・・趙雲殿。質問しても宜しいでしょうか」
声は静かだが、よく通る。
「なんですか、軍師殿」
「・・・私は今日、殿とこの時間にお会いする約束をしていました。しかし殿はいらっしゃいません。そして窓が大きく開いていました。これの意味するところは、なんでしょうか?」
「え・・・」
趙雲は黙った。
こんな恐ろしすぎる質問に、答えなければならないのだろうか。
おののく趙雲をよそに、諸葛亮はとても静かに続ける。
「見たところ、書き置きもないですし、表の警備兵が異常を感じていないのですから、緊急の用があって出掛けたということもないでしょう。―――私との約束をすっぽかして遊びに行ったのだと、判断せざるをえませんね・・・」
「――――」
「ねえ、趙雲殿」
「は、はい」
「これは怒ってもよい場面だと思うのですが・・・如何おもいますか」
「それは、・・・怒ってもよい場面だと思いますが、軍師殿、その・・殿は本当におられないのですか」
「いませんよ。・・・私は怒りました」
趙雲は絶句する。なんだか空気が冷えているような気がするのは気のせいだろうか。空はさっきと変わらない晴天なのに・・・。
青い空、白い雲、なんて良い天気なのだろう。
よい天気・・・ああ――――そうか。殿は――――
趙雲は窓から身を乗り出した。
「軍師殿!ここは怒って当然の場面です。私も怒っています!馬超のヤツ、今日中に終わらせると言ったくせに、手をつけてもいない。許せません」
「逃亡者が二名ですか・・・二人は一緒でしょうか、別でしょうか。それにより追い方が変わってきますが」
「すこしお待ちください。いまそちらに行きます」
言ったかと思うと趙雲が3階の窓から身を投げた。もし通行人がいたら危ない!と絶叫しただろうが、唯一の目撃者である諸葛亮は身じろぎすらしない。
くしくも馬超が使ったのと同じ枝をがしっと掴み、ひらりと空中で身体を半回転させて、趙雲が地面に降り立った。
「表から回りますので、そこですこしお待ちを」
「それには及びません」
趙雲は目を見張り、意図を察するや大きく微笑んだ。
「では、どうぞ、軍師殿」
ごそごそと窓わくによじ登った軍師が1階の窓を超えてくるのを、趙雲は内心で大笑いしながら見守り、地面に飛びおりるところで手を貸した。
「作戦は?軍師殿」
「殿の脱出経路に関しては、あなたのほうが詳しいでしょう」
「そうですね・・まずルートが10ほどあって、抜け道が2つ、よく飛び越えるお気に入りの塀が1箇所、ただ、壁越えをなさるのは張飛殿と一緒のときだけですから。馬超と一緒というのは初めてですが、そうだな・・・」
「まずは情報収集といきましょうか」

   
 






次へ ≫



「隔たり」の魚水続編でございます、なので、無双5ベース。

(2013/9/21)

≪ 一覧に戻る