冷や汗がだらだら出るような静けさのあと、おそるおそる劉備が口をひらく。
「ちょ・・・・・・・趙雲」
「すぐに出て行きます、殿、軍師殿。食べながら話の続きをどうぞ」
竹細工のかごに、湯気を立てているのは蔡の爺ぃのところの肉まん。巽ばあさんのくるみの餡の餅に、竹の皮に包まれているのは、東の角の店の鳥の串焼き・・・
「軍師殿は、ひとつも食べなかったので」
趙雲がかごを無造作に卓に置く。
満載された食い物はすべて劉備の好物だ。
「董氏のつくる肉入りの饂飩は諦めました」
それだけが心残りだ、というふうに趙雲が肩をすくめる。気持ちはよく分かる。董氏の饂飩(うどん)はやわらかく、出汁とそれはよく絡んで美味であるが、やわらかく打ってある分伸びやすい。よって董氏は、屋台の前で速攻で食っていく客にしか饂飩を売ってくれないのだ。
「ではごゆっくり。戸口の前で控えておりますゆえ」
パタン。
あっさり扉が閉まって、蒼銀が見えなくなる。
沈黙。
「・・・ひとつも食ってないとは、何事だ、諸葛亮・・・街歩きの醍醐味は、屋台の食いものにあるというのに」
なんと間抜けなセリフ・・・がっかりしすぎた劉備はうなだれる。
しかし諸葛亮が露店の食いものを買って食べ歩きするのは、あんまり想像できない。
わざわざ趙雲が買ってきたものだが、はたして手をつけるのだろうかとぼんやり考えていると、寵臣はすらりと袖を払い、卓についた。
手が汚れないようにだろうか、竹の皮の端っこを持ってつまみ上げた鶏の串焼きを、しげしげと眺めている。
「そ、それは美味いのだぞ。親子三代、秘伝のタレで」
「隠し味はにんにくですか」
「なっ・・・馬超め!もうばらしたのか!秘密だと言ったのに!!」
「私が聞いたのは、趙雲殿からですが」
「なにっ!?趙雲が・・・内緒だとあれほど・・・秘伝ではなくなるではないか!」
「ばらしているのは貴方ですよ、我が君」
意外に思いっきりよく肉を口に放り込んだ諸葛亮は、とたんに剣呑に顔をしかめて、劉備を慌てさせた。
「骨でも刺さったか!?諸葛亮」
「・・・いえ。美味ですね・・・。おそらく美味なのだろうとは思っておりましたが、なにか腹立ちます」
「おお・・・」
含みのある言葉に戸惑うが、美味というからには美味なのだろう。
自分の発見した美味いものを皆に振舞うのが大好きな劉備は、ほこりと頬をゆるめた。
「美味いだろう!!これを食わせたかったのだ!ほんとうは歩きながら食うほうが美味いのだぞ、諸葛亮!だのにそなたときたら、ひとつも食っていないとは。肉まんも食うといい、まだ温かいようだ」
「・・・・」
「そなたは食が細すぎる、諸葛亮。もっとたくさん食うといいのだが・・・政務に追われていてはそれもなるまい。私のせいだな・・・すまぬ、諸葛亮」
「政務に追われるとは、心外なお言葉です、殿。すべては計算通りに進めておりますゆえ」
「そう・・・だったな。そなたの計算に、誤りがあろうはずはない・・。ではすまぬと謝るのではなく、礼を言うことにしよう。ありがとう、諸葛亮・・・」
劉備は寵臣の手をぎゅっと握った。
下心のないときは、手を握れる劉備なのである。ちょっとでも意識すれば、まったく駄目なのであるが。
諸葛亮の切れ長のひとみにちかっと光が走ったことにも気づかず、劉備はぱっと手をはなした。
「ゆっくり食うといいぞ。おお、そうだ!いきなりは喉を通るまいな。なにか飲むものをもらってこよう」
せかせかと奥に向った劉備は、彼の寵臣がどんな顔をしていたか見ることはなかった。
(そなたの計算に、誤りがあろうはずはない・・ですか、殿。貴方に関する限り、計算など、出来ないのですが・・・)
自分の心持ちが非常に腹立たしく、諸葛亮はうっすらと笑った。
腹が立ったときは、とりあえず笑うことにしているのだ。
「で、ここは結局、なんの店なのだ?」
「甘味処と書いてあるだろう。そのままだ。甘いものを出す店だ」
「・・・甘味!?」
「ああ。美味いものだぞ。甘いものはそれほど好きじゃないが、私でも食える。お前は甘いのは苦手か?馬超」
「い・・や。そうでもない。あまり食いつけてないだけだ。食えると思う・・・が、あの熊面の親父が、甘味を出すのか!?」
「熊面で悪かったですな、馬将軍」
「―――!!」
趙雲と並んで立っていた馬超は、びっくりした。
辺りの光景が平和そのものだといっても、油断はしてなかったのに、扉が開くまで気がつかなかった。いくら殺気がなかったとはいえ・・・
「おぬし、――武人か!?」
「昔のことさね。・・・立ったまま食うのに抵抗あるタチでしょう、馬将軍。どうやら劉備様と軍師様の話もひと段落ついたようだ。入っておくんなさい」
「いや、私たちは外でいい。椅子を貸してもらえないか、店主どの」
「お好きにどうぞ」
「ありがとう」
律儀に礼を言った趙雲がさっそく、がたがたと椅子を野外に引っ張りだしている。
もとより外で食べる用の席であるのだろうか、椅子の脚には小傷がびっしりとつき、日焼けして色褪せている。座った途端、甘味が運ばれてきた。
煮込んだ小豆に、餅がはいっているもののようだ。
店構えに劣らず地味でしょぼい商品に、なんとはなしにガッカリした馬超だが、しぶしぶ口に入れてのけぞった。
「・・・う、美味い・・・なんだこれは」
「なんだこれと言われてもな・・・ただの煮た小豆なんだが、なぜかあの店主どののは美味いんだ。殿ならば、秘策を聞き出してくれるかもしれないが」
おおげさにいうと、カミナリに打たれたような感動である。
ひと口食っただけでなにかしみじみと幸せになれるような味だ。
「な、なんで俺がこんな安っぽいもので感動しておるのだ・・!?」
「安っぽいと言うな。商売ものだぞ、私たちにとっての槍や剣と同じものだ」
甘味を口にした趙雲は幸せそうに頬をゆるめた。傷だらけの椅子や安っぽい器に美麗な鎧がまるで似合っていないのだが、本人は気にしていない。
餅が、また良かった。
柔らかさが絶妙で、噛み締めるほどに幸福感が広がる。
「・・・あの店主、もとは相当名のある武人ではないか。顔の傷は、伊達ではあるまい」
「ああ、もとは劉璋殿の家臣だからな。名を言えばお前も知っているはずだ」
馬超は、口から匙をぽろりと落としそうになった。
「劉璋殿・・の!?では・・・劉備は仇ではないか!?」
椅子を鳴らして立ち上がりかけた馬超を、趙雲は片手だけで制した。
「大丈夫だ。彼は信用できる」
「信用だと・・・この乱世に!!甘いことを言うものだ、趙雲!それで護衛がつとまるのか!劉備と軍師になにかあったらなんとする!?」
「人を疑うのは、殿を護衛するには必要なことだ。だけど、人を信じることもまた、殿を守るには必要だ」
汁を飲んだ趙雲がこくりと鳴らした。さきほど片手だけを出したのは、手に持った小豆の椀を放したくなかったせいらしい。横着ぶりに馬超はカッなったとき、また店の扉が開いて店主が顔を出した。
「べつに、疑ってもらってもいいんだかねえ」
「貴様・・っ!人の後ろに立つな!」
怒鳴りつけた馬超を意に介さず、店主はひょいと小振りな椀を差し出す。
「はいよ、馬将軍、茶だ。甘いもん食うと喉が渇くだろ。うちの小豆煮はけっこう塩も入ってるんでね。よけいに喉がかわく」
渡された茶碗を反射的に受け取った馬超は、趙雲にも同じように茶を渡す店主をじっと見た。
腕の上げ下げのやり方、足運び、腰のすわり――磨いた武のなごりが、むさくるしい熊のような巨体のそこかしこに、残っている。前掛けを締めた腰には、もう剣はない。
ごつい巨体から煮た小豆の甘い匂いが漂うのに、なぜか突然、泣きたいような気分になった。
「貴様、なぜ主君を捨て、剣を捨てた。剣とは・・・捨てることが出来るのか」
「できるさ」
簡単に言って、店主は肩をすくめた。
「主君を捨てたって言われると胸が痛む・・・実際には、そうだったんだがね。でも劉璋様は劉備様に負けたんだ。これ以上無骨な家臣がいたって、劉璋様のおためにはならん。荊州で隠居なさってるってことだが、劉璋様にはそのほうが似合ってる気がするよ」
「それは正義に反するのではないか」
「正義はひとつじゃないと、おれは思うんですがね、馬将軍。むしろ、人の数だけあるんじゃないか」
「店主、おかわりをくれないか」
深刻な表情で黙り込む馬超の脇にあって、趙雲の能天気な声が飛んだ。
「あいよ」
身軽い仕草で椀を受け取った店主が、のしのしと店に入っていく。
「劉備が・・・この店に通ってるのは、あの店主に合うためか」
「いや?・・・馬超、お前、人前で殿のことを呼び捨てにするなよ。殿がこの店に通ってるのは、単に小豆煮が美味いせいじゃないかな。よく知らないが」
「俺に・・・あの店主を会わせたかったんだろうか?」
「さあ・・・しかし、どっちかというと」
趙雲が黙った。ちょうど店主がおかわりを持っていて、俺も欲しい!と言い出せなかった馬超の分まで、ちゃんと持ってきてくれていた。
ふたりの猛将は並んで甘味を堪能したが、さいごのひと啜りを飲み干してからりと匙を置き、趙雲がつぶやいた。
「軍師殿は、究極の甘党だからな・・・」
「甘党・・・あの御仁が・・・!?」
美味しいものはさっさと食べつくす趙雲と違って、気に入ったものはじっくり堪能する馬超は、ちびちびとすすっていた小豆煮を噴き出した。
「身体を使うのと同じく、頭脳を使うと疲労するのだそうだ」
「そ、そうか」
ぼろい店構えとはうらはら、中の物音は聞こえない。
あの風変わりな君臣は、今頃いったい何を話しているのだろうか。
次へ ≫
(2014/5/25)
≪ 一覧に戻る
|