50題―36.無理矢理-2

 


山賊の征伐時の矢毒にて1日病床についた趙雲は、次の日には寝台の上にて出征後のあれこれの雑務を終わらせ、その次の日にはもう通常の軍務に戻った。
朝議に参列し、午前は他将にまじって調練を出て兵をきたえ、昼からは軍の重鎮であるゆえに増える机上にて書を扱う仕事を行う。
夕刻近くになり、軍令の書簡をすべて片した趙雲は、窓のそばにたたずんだ。
空が蒼く、樹木が緑に輝き、透明な風が吹きとおる。
髪をなぶって通りすぎてゆく風を感じて眼を閉じた。
「趙将軍」
ゆっくりと振り向くと、山羊のような口ひげをたくわえた老人が居室の入り口に立っている。
「軍医長殿」
「治療に参りました。さ、傷口を消毒いたしましょう」
「頼む」
趙雲は自らの武袍に手をかけ、左袖を抜いて肩脱ぎにした。医療箱を脇に置いた軍医が、腕に巻かれた包帯を解く。
「まこと、傷の直りが早い。だが無茶はなさいますな。傷にしろ矢毒にしろ、本来ならまだ養生なさっていてしかるべきなのですぞ」
薄い微笑を浮かべて説教を聞き流す。沁みる薬を塗りつけられても趙雲は顔色一つ変えなかったが、軍医の次のひとことで表情を消した。
「・・・諸葛軍師もことさらに趙将軍を心配してあられるのですぞ。趙将軍が毒に倒れた日など、あの方まで心労のあまり寝込まれたほどじゃ」
「・・・・・・・・」

窓の外で鳥が鳴いた。
気だるいほど心地よい夏の昼下がり――連日の暑気がやや弱まり、すずやかな風が吹いている。

かの軍師が寝込んだのは、趙雲の怪我を心配してのことではないことは、趙雲しか知らないことだ。
趙雲の怪我自体、病床についた日は非番であり、その次の日には執務をとっていたことで、まったく広まっていない。知っているのはかの軍師と、軍師の意をうけて派遣されてきたこの軍医長の二人だけだ。
新しい包帯を丁寧に巻かれ、武袍を元通り整えた趙雲は軍医に礼を言って立ち上がった。
城内のこととて、龍槍は持たず剣を佩く。
勇ましくも清麗な軍装に、軍医が嘆息した。
「・・・縁談はお受けにならぬのか、趙将軍。わしの孫娘も城内で侍女として勤めておりますが、趙雲様趙雲様と貴公の噂なしでは日も暮れず夜も明けぬありさまじゃ」
趙雲は苦笑した。
「私は不器用なのでな。想うものを二つ三つと持てないのだ」
「なんと、まあ」
軍医が大仰に目を見張った。
趙雲ほどあらゆる軍務を器用にこなす武将はいない。策をまかせればどれほど過酷な最前線であろうとやってのけ、自身の武技は言うに及ばず、兵を動かす指揮官としても優れている。
「趙将軍が不器用というなら、この世に器用者などおらぬわい」
軍医の言葉に、趙雲は目を伏せて嘲笑った。



居室の入り口で軍医と別れ、趙雲は軍師府にむかった。
趙雲が行く先で女官は袖で引いて目配せを交わしあい、武官はうやうやしく拱手し、文官はにこやかに道を開ける。
なんの抵抗も支障もなく、軍師府に着けたことに趙雲は目を細める。最奥の執務の間の扉を開けると、そこはいつにない喧騒に満ちていた。
「・・・・趙将軍様!」
書簡をかかえてうろうろしていた文官が、うろたえた声を上げた。
「なんの騒ぎだ。軍師殿は如何した」
「軍師様が、いらっしゃらないのです」
「―――なんだと?」
「休息を取る、と席を立たれたまま、お戻りになられず・・・」
「お疲れでいらっしゃるのでは・・・・顔色がお悪かったし」
「先日お倒れになったばかりですし・・・」
文官たちが口々に言い立て、困りきったように眉尻を下げる。

「それでなにを騒いでいる?あの方だとて休息くらい取るだろう」
趙雲は、声が冷たくならないよう注意を払って言った。
泣き出さんばかりの形相で、文官たちは訴える。
「あの方がいらっしゃらないと、困るのです。政務が少しも進みません。荊州豪族が目通りを願っておりますし、灌漑の工事の件で義陽より民の直訴もございます」
「張飛将軍が、馬も弓も足りぬとそれは大変な剣幕で騒いでおりますれば――」
言い募るのに趙雲は静かに見下す。
「なんのために、その方ら補佐がついている」
「し、しかし・・・・・我らでは、とてもあの方のようには」
「――――――――」
さしもの趙雲も、殺気を控えるのに苦労した。

同じような装束を着て同じように冠を整えた文官が、十数人も居るのだ。
これほどぞろぞろと多くの文官が周りをうろついていて、何故、かの人だけが重過ぎるほど重い責務を背負っている。
軍師様軍師様と諸葛亮の袖にまといつくように群がりながら、諸葛亮の負担をわずかも減らすことができない、役立たずの取り巻きたち――龍槍の白刃でひとり残らず血祭りにしたらすこしは胸がすくのではないか。
血の色をした剣呑な絵を脳裏に描いた趙雲は、一呼吸でその衝動を腹の底へと押し流し、あざやかな笑みを浮かべた。

「諸葛亮殿は疲労が溜まっておられるのかと、劉備様も心配しておられた。どこかで休息を取っておられるのなら、それで良いのではないか」
諸葛亮の執務の部屋に足を踏み入れた趙雲は、最奥の大きな執務机に歩み寄った。
墨香にまじって、ほのかに漂う雅な薫香―――涼やかでほんのわずかに甘いかの人の香だ。

「ホウ統殿は城内におられるのか」
趙雲の突然の質問に、文官のひとりがきょとんとする。
「・・・は・・い。たしかおられたかと存じますが」
「では、面談を求めているという荊州の豪族には、ホウ統殿に会っていただくのだな。ホウ統殿は荊州の名流、諸葛亮殿よりむしろ適任だろう」
狐につままれたような顔をしていた文官は、はっと我にかえったように袖を合わせる。
「――――はっ」
「この中で義陽郡の出身者は、いないか?」
「・・・は、い。私はそうですが・・・」
別の文官がおずおずと手を上げる
「義陽の灌漑の工事の件で直訴にきているという民には、其方が会ってくれ」
「―――ははっ」
「誰か、荊州南郡桂陽に使者を送ってくれ。諸葛亮殿の指示で軍馬を養っている馬場がある。使える馬が何頭いるかまずは確かめるのだな」
「は、はい!」
「黄忠将軍にも使いを。黄将軍の隊には弓づくりの名人が何人もいる。張将軍に弓を都合してもらえぬかと交渉してくれ」
「・・・わ、分かりました!」
「さて、残りの者は―――――」
見渡され、うっすらと浮かんだ趙雲の笑みの端麗さに文官たちは言いようの無い恐怖に似たものを感じ、冷や汗まじりにいっせいに平伏する。
「わ、わたくしたちは、諸葛軍師がお戻りになるまで、せ、精一杯、政務を進めておきまする――――」
「場合によっては、そのまま休んでいただく。お戻りなくとも心配しなくていい」

「ちょ、趙将軍様。軍師様をお探しにいくので?」
きびすを返して立ち去りかけていた趙雲は、肩越しに首だけ振り返る。
「何か問題があるのか?」
切れ長の視線に見下ろされておののきながら、文官が言う。
「わ、我らもお探し申し上げたのですが、いっこうに見つからず・・・城外にお出になられたわけではなさそうなのですが――」

どこまで役立たずなのだ、この文官どもは。
鼻で笑いそうになりながら、趙雲は軽くうなづくだけで文官を無視し、もはや振り向くこともなく軍師府を後にした。









龍は、水辺を好む。
だから伝説やらおとぎ話に出てくる龍はたいてい、深山の沼だとか幽谷の湖に棲んでいる。

太陽は傾き、日が暮れはじめていた。
城の裏は樹木が茂る林になっている。木々がうっそうと立ち並び、長く伸びた下草に棘のある蔓植物が複雑に絡まって、足を踏み入れるのさえためらうような雑木林だが、注意深く見ると小道がある。
趙雲は足音をたてないように草を踏みつけて進んだ。
進むほどに足がにぶりそうになる。
敵陣に単騎で斬り込むのさえ、これほど躊躇はしないものを。


林が切れ、突然に視界が開ける。木々に囲まれてひっそりと小さな泉があった。遥か彼方の山々から地下の水脈を通って流れ着き、城の裏手の森の中から湧く清らかな流れが集まった泉だ。
そのほとりの苔むす岩にすがるように寄りかかり、白衣の人が伏していた。
遠めに見ても分かる、その顔色の悪さ・・・

「―――諸葛亮、殿」
足音を気にしていた趙雲が思わず駆け寄ってしまうほど、彼の姿は弱々しかった。
眠っているのか気を失っているのか判別ができぬほど、唇に色がない。
「・・・ぅ、ん・・・・」
膝をついて抱き起こすと、目を固く閉じたまま趙雲の腕から逃れようとてか、かぶりを振る。
「ん・・あっ・・・・ゃ」
よほどの悪夢を見ているに違いない表情で諸葛亮は、背をのけぞらせて力のない両手で趙雲を押し戻そうとし、ひときわ大きな苦悶の声を上げた。
「嫌・・ぁ・・・・・・・・やめ・・・・・・あ・・・・・止め・・・・趙雲・・殿、どうか、・・・・・・」
趙雲は息を止めた。
掴んだ白衣の二の腕を、あざがつくほど握り締める。
彼は。いままさに――――夢の中で趙雲に犯されているのだ・・・
掴んだ手がぶるぶると震える。

守らなければならない人だった。
その叡智を。存在を。けして傷つかず、何者にも侵されぬように。

灼けつくような激情に見舞われた趙雲は、次の瞬間にはふっと力を抜き、唇を歪めて微笑していた。
あざがつくほど力を込めて握っていた腕をはなし、白袍の肩を抱いてやわらかく抱き寄せる。
位のわりに簡素な冠をつけた頭部を胸に持たれかけさせながら、鎧を着てなくて良かったと思った。
真綿でくるむように胸に抱き寄せ包み込み、両足をすくいあげて抱いたまま立ち上がる。
歩み始めるとすこし首がのけぞり白いのどがあらわになる。背を抱く位置を直すと、意識のない頭部はなされるままに趙雲の胸におさまった。

誰も通らないところを選んで宮城に入る。
石畳の回廊に、かつんかつんと趙雲の軍靴の音が響いた。
その音に誘われるように薄いまぶたが震え、目が開く。
見惚れるほど艶やかな黒眸が茫洋とあわられた。

目を細める趙雲の視線の下でしばらくぼんやりとしていた諸葛亮は、趙雲をみとめてはっきりと顔色を変えた。切れの長い黒眸に閃光のように浮かぶのは、まぎれもなく恐怖だ。
「――――・・・・・・」
蒼白にはなったが、諸葛亮は叫んだりはしなかった。
趙雲は無言で歩を進める。
なにかを、こと細かに説明せずにすますのが、いつもの趙雲と諸葛亮との間柄だった。
ほんのわずかな言葉で、あるいは言葉すらもなく目配せ一つで、趙雲は諸葛亮の意が理解できたし、諸葛亮が趙雲の意思を確認することはない。
「・・・・・・降ろしてください」
「部屋に着いたら、降ろします」


「でも・・・・・・」
諸葛亮が顔をそむける。
「・・・・あなたは怪我をしているのでしょう」
趙雲は半瞬だけ動きを止めた。
一度ゆっくりとまばたきをし、それから腕の中を見下ろす。諸葛亮は顔をそむけたままで、目を合わさなかった。



趙雲は諸葛亮を、軍師府にも彼の私室にも帰さなかった。兵舎に近く、雑然とした自分の居室に連れ込むということもしなかった。すこし考えた後、足を運んだ先は城内の端にある医局だった。
日が沈もうかというこの時刻は、城内でもっとも人が行き交う時間でもある。
劉軍の政務の中心である軍師府はもちろん、私室に帰しても彼を求める文官武官が押し寄せ、休めない。

山羊ひげの老人が驚いた顔で呼び止めた。
軍医の長である老人は、この医局の主である。
薬草や医術にも造詣の深い諸葛亮のよき友でもある老人は、諸葛亮の顔色を見、すぐに趙雲にうなづいてみせ、奥へといざなった。

城内の医局には、貴人が治療を受ける用の特別の部屋がある。長い療養もできるように独立した離宮のつくりになっていて、前の城主が備えつけた雅な調度がそのまま残されていた。
白亜の壁に囲まれた部屋は広く、一室のみで、広い空間をついたてや帳で仕切って使うようになっている。
窓辺に置かれた小奇麗で繊細な寝台に、諸葛亮を座らせた。
すかさず軍医長がかがみこみ、脈をとる。
「・・・なんともありません。執務に戻ります」
その人のものとも思えぬ小さなつぶやきに趙雲は勿論何の反応も返さなかったし、医長も聞こえないふりをした。
医局付きの医務生によって、薬湯と薬膳が運び込まれる。
軍医長のくどくどとした説教を聞きながら諸葛亮はそれでもすこしは薬草を刻んで混ぜた粥などに手をつけた。


「心因性のものですじゃろうなぁ。ゆっくりお休みいただくしかなかろうて」
「軍医長殿」
趙雲にだけ聞こえるようにこっそりとささやく軍医に、趙雲も軍医にだけ聞こえるようにささやいた。
「人払いを頼む。誰も通さないでくれ。警護の兵もいらない。ひと晩、私がつこう」
「おお、そうされるとよい。趙将軍がおられるならなんの心配もないゆえな」

趙雲は床の木目を見遣った。
―――あの人はけしてそうは思うまい。

薬膳が下げられ、湯気の立つ薬湯と冷茶が差し入れられる。
趙雲の丁重な礼にこたえて軍医長も拱手し、下がっていった。


警護の都合上なのかひとつしかない入り口の扉の錠を、趙雲は下ろした。
がちゃりと重い音が木霊する。
城内では、今日の仕事を仕舞いにして帰宅するものと、夕餉を取ろうとする者とが行き交い賑わっているだろう。そろそろ夜勤の兵が集まり始めている時刻でもある。
離宮は静かだった。
最後にこの離宮を使ったのは、前の城主に寵愛された女人であったという。
そのせいか家具も、水差しや盆といった細々とした道具も、どこか繊細な細工物がそろえられている。
ことに寝台はゆったりと広く、支えの木の柱にも細かな彫刻がほどこされている。
瀟洒な寝台に所在なく座り込んでる諸葛亮は、まるで深窓の佳人に見えた。
うつむいていて弱々しく、神算の鬼謀などかけらもない。

顔の近くまで手を伸ばすと、彼は顔色をなくした。
趙雲は無言で髪に留めた冠をはずし、結い上げた髪の結び目を解く。
「・・・衣は、ご自分でお脱ぎください。ここには誰も来ません。楽にされますよう」
趙雲が諸葛亮の冠を取ることも、衣を脱がすことさえ、これまでに何度もあったことだ。
寝食を忘れて政務に没頭する諸葛亮を、趙雲は何度いさめて食事を取らせ、寝台におしやって寝かしつけたことか。

諸葛亮は暑く不自由に違いない堅苦しい衣装をゆるめようともしなかった。
かたくなな様子に趙雲は寝台に乗り上げ、諸葛亮の身体の脇に手をついて、覆いかぶさるように見下ろし、艶やかで凄絶な笑みを浮かべた。
「それとも、私が脱がせましょうか?――あの晩のように」
諸葛亮の顔から血の気が引き、のどが呼吸を吸い込むするどい音を立てた。
「・・・・趙雲殿」
「なにか?」
「・・・どうして、あんな・・・・・あのような事をなさったのですか」
存外に気丈な声音であるが、裏切るようにかさねた手が震えている。
「・・・お分かりになりませんか」
「・・・・・・・あなたは矢毒に侵されていた、熱を出されて意識が混濁しておられた。たまたま居室を訪れた私を、どなたかと間違われ。そして、あのようなことを・・・」
「間違えた。なるほど。それがあなたの望む筋書きですか」
すこし力を抜いた趙雲は息を吐き、身体を起こし、諸葛亮の上から退いた。
「あなたは、御自分がどのような者か分かっておられるはずだ。誰かと間違われるような存在ではありえない。まして・・・・・・私があの夜、誰の御名を呼びながら行為に及んだか、まさかお忘れではありますまい」
諸葛亮が途方にくれた様子で趙雲を見詰めた。


寝台に腰を下ろした趙雲は、寝台脇の小卓の置かれた薬湯を取り上げ、諸葛亮に持たせた。
それほど薬臭く濃いものではなく、気分を落ち着かせるようなやわらかい湯気が立っている。
「・・・まあ、たしかに」
諸葛亮は椀を両手で挟み込み、沈んだ様子で薬湯に口をつけた。
その様子を見守りながら、趙雲はつぶやく。
「あのことは、私にとっても誤算でした。たかが賊の毒ごときで我を忘れ、―――いかに何度となく望んだこととはいえ、あのような形で叶えてしまうなど」
諸葛亮が動きを止めた。
息までを止めてしまったように身じろぎもしない。
「・・・・・・・」
「・・・諸葛亮殿」
ふたたび震えはじめた手のなかで、減った薬湯が波打っている。
「あなたは神算智謀の方だが、人を見る目がお甘いことを自覚なされよ。幾度、私の脳裏であなたが私に犯されているか、―――考えたこともお有りにはならないのでしょう?」
諸葛亮が薬湯の椀を卓に戻した。手を白くなるほど握り締めている。
「・・・出て行ってください。私は何も聞きませんでした。あの夜のことも忘れます」
「――――――――」
趙雲は一瞬目を伏せた。
「あなたが出て行かないなら、私が行きます」
白い袖をひるがえして寝台を降りようとする諸葛亮の手首を趙雲は掴んだ。
「忘れる、と?忘れられるとでも思っているのですか。それでも別に構いませんが。忘れるというなら、何度でも、刻むだけのことです」







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(2013/8/20)

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