相思2.5 趙孔(私設)

 


「あなたは、やさしい」
孔明がつぶやくと、趙雲がはっと顔を上げた。
「やさしい。俺が?」
趙雲はたまに、孔明が言ったことを繰り返す。
近習に、会話の途中で人の言ったことをいちいち繰り返す文官がいるが、それは理解力か、もしくは思考力が低いのだとおもう。返答する時間をかせぐために、此方が言ったことを繰り返し口に出すのだ。
趙雲はそれとは違う。とても意外だから、孔明の言った言葉の意外さを確認するために、繰り返しているようだ。
いまの趙雲の口調はまさに意外そうであった。何故か、ひどく戸惑っているようにも思えた。趙雲はすぐに顔を伏せてしまったので、しかとは確かめられなかったが。

孔明は額に手をあてた。
ここは趙雲の屋敷で、孔明がいるのは趙雲の寝台だ。
視察の帰り、立ちくらみを起こした。暑さが身体にたまっていたのだろうか、思わぬ襲撃にあったせいだろうか。豪族の屋敷を抜け門外の陽射しを浴びた途端、ふらりと揺らいだ孔明に、趙雲はいやおうなく馬に乗せて兵を突破し、新野に連れ帰った。
趙雲の屋敷に入るとうやうやしく寝台に導き、井戸から冷たい水を汲んできてくれて、布をひたして絞って額に乗せてくれた。
年上の武人にこんなに世話を焼かせていいのだろうかと、そらおそろしくなる
もっともその会話を最後に、無視されているのだが。



趙雲は剣の手入れをしているところだ。軍功により劉備からもらった白い絹布を使って。
同じものを下賜された孔明は、それがどこにあるのか覚えていない。家人が内衣にでも仕立てたのかもしれない。
趙雲はその布をすこしずつ切り取って大事に、剣を磨くのに使っている。
古布でやってはいけない作業なのだそうだ。
剣の手入れは、古い油を拭い取って、新しい油を塗布するらしいのだが、古い油が残っていては錆びるし、新しい油を塗るときにムラができるのと、切れ味が落ちるのだということだった。だから新しくすべらかな布が良いそうだ。

剣の手入れをする趙雲の男振りに惚れ惚れとしてしまって、つい目がいってしまう自分を、苦笑する。すこし熱でもあるのかもしれない。
趙雲はたいていの場合真剣な表情をしているが、剣を磨くときの真摯な表情は格別だ。
静謐な雰囲気さえあって、男らしい容貌がなおさら引き締まって見える。
ずっと見ていたいものだが――


「軍師殿」
「なんでしょうか」
話しかけられたのが嬉しい。なんだかふわふわとする。
「お眠りください。寝られるものならば」
「・・・」
言われたことを分析する。べつにふつうのことを言われたのだと思う。だけどなにか、若干の、含みがあるような気がした。
「寝たほうが、良いですか」
「それは俺の判断することではありません。貴方の身体にとって寝たほうがいいなら眠れば良いと、言っています」
趙雲は仕上がりを確認するように剣を火に透かすと、また少し絹布を切り取って、新しい油をつけた。静かな手つきだが、孔明は彼が苛立っているように思えた。
「わたしがいては邪魔ですか?」
それは、もちろん邪魔だろう。たかが近隣の視察ごときで豪族を怒らせ、襲われたあげくふらついて、寝台を独占して。
この寝台だったのだ。数日前に、彼と―――・・・・・・・
一夜の夢だ、あれは。雨がみせた幻なのだ。忘れたほうがいい。忘れられるわけがなくとも。

ずいぶん経ってから、彼が応えた。
「邪魔ではありません。――落ち着かないだけです」
「落ち着いているように見えますが」
落ち着きを失っている趙雲は、見たことがない。
「大部分は落ち着いています。だが一部分は落ち着いていない」
やっぱり邪魔だから?と問おうとしてやめた。2度も言うと、否定して貰いたいのだという魂胆が見えて浅ましい。
どんなに邪魔で落ち着かないのだとしても、趙雲はいまさら孔明を追い出しはしまいし、別の部屋、たとえば客間の寝台にうつすこともないだろう。
趙雲の私邸はかなり庶民的なつくりで、いわゆる武門の家の堅固さをそなえていない。客間は趙雲の部屋から離れた位置にあって、そこに孔明が寝るのでは、警護の意味からいってよけいに落ち着かないだろう。
とりあえず見るのはやめた。剣の手入れをする趙雲を見るのは初めてなので惜しかったが、邪魔はしたくない。
孔明は寝台の奥に寄り、掛け布を顎まで引きあげた。
趙雲の剣の手入れは念が入っており、まさに武人の鑑であろうが、それにしても入念である。
趙雲は今夜孔明を抱くつもりはないのだろう。青い顔をしている文官を抱くほど、酔狂ではあるまいし、飢えてもいないだろう。
飢えてはいない、・・のだろう。
彼の容姿はすぐれている。個人の武技も隊を率いる用兵の才も申し分なく、頭も性格もいい。
趙雲と街を歩くと目立ってしょうがない。若い娘は必ず振り向くし、いや老若男女たいていは振り返る。歩いていてもそうなのだが、馬に乗っているとその精悍が際立つのか、さらに目立つ。
自分などを抱かなくとも、相手はいくらでもいるに違いない。
暑さで身体が弱っているから悲観的な考えがうかぶのではなく。事実としてそうなのだ・・・

私邸に招かれ、寝台に寝かされた時はもしやと狼狽したが、彼にとっては何てことのない事なのだ、自分の存在などは・・・・・

孔明は目を閉じた。
寝よう、と心につよく暗示をかける。
眠りはほどなく訪れた。





寝台から感じる気配が寝息に変わって、趙雲はようやく絹布を掴んだ手をおろした。
愛用の剣は裏からみても表から見ても素晴らしくぴかぴかになっており、塗りこんだ油がつややかに光っている。光りすぎているくらいだ。
剣を磨くのにいつもの5倍くらい時間をかけたし、1回で済ませば充分の油の塗布を、3回もやった。それもこれも軍師の具合が良くなさそうだからだ。
彼を愛馬に同乗して駆け、自邸に迎えた。抱くつもりだった。
視察の帰り、彼はすこしふらついていた。暑気あたりなのだろうと見当をつけて、自らのあばら家に連れ帰り、とりあえずの処置をして寝かせたが、葛藤がはじまったのはそれからだった。
彼は微熱を発している。そのせいなのかどうか、妙に警戒心が薄く、安堵しきったように趙雲に身をゆだねてる。
やさしい、という言葉がなにか衝撃だった。抱くつもりで連れ込んだのだ。介抱はついでに過ぎない。 好意をみじんも疑っていない態度に、言葉が出なかった。
抱こうとは思ったが、動揺して何とすればよいのか分からなくなった。
まして盛りのついた若造でもあるまいし、具合の良くない相手に襲い掛かるわけにもいかず、手持ち無沙汰で剣を磨いた。磨きはじめると、軍師が息をひそめるようにして見ていて、心が波立った。
此方の理性を試しているのか、とおもったくらいだが、生真面目な彼がそのようなことをするはずもない。
熱っぽいのか黒眸が潤みを帯びていて、情欲をともしているようにも見えた。
むろんそれは錯覚であろうが、そう考えたとたん喉が渇くような感覚に襲われ、なおさら剣を磨く作業を止めるわけにはいかなくなった。
大部分は落ち着いているが一部分は落ち着いていない、とはよくも言ったものだ。
事実は大部分は理性により無理に落ち着かせているが、一部分はそれでも押さえきれずざわついているというものだ。なんという体たらくか。
立ちあがり、髪を掻きあげる。強張っていた筋がときほぐれていくのが分かった。同じ姿勢で座っていたくらいで筋が強張ったりはしない。軍師に見ていることを意識して、躯が無意識に緊張していたのだ。
理知的な双眸を細めて此の方を見詰める目に、すこしでも情欲があったのだろうかと、趙雲は細心の注意をはらって思い出してみる。
よく、分からない。
だが軍師は、飢えを感じてなどいないだろう。
飢えているはずは、・・・ない。
軍師の容姿は整っている。よくできた細工物のような容貌をしているし、表情は細工物どころではない精彩を放つ。冷静沈着かとおもえば繊細で、目が離せない。政務中の挙動が颯爽としているかとおもえば、私事での挙措はおっとりとみやびだ。
このところ劉備の地盤がすこし安定して、仕官してくるものが増えた。流浪の田舎軍団だと侮ってやってくる者たちを一様に黙らせるのは孔明の卓越した才幹であり、また清雅な容姿でもある。
若い文官のなかにはあからさまに色を帯びた目で見ているものがいることを思い出して、趙雲は凶暴な気分になった。

剣を鞘におさめて立て掛け、寝台に向う。きちんとひとり分の空きがあり、掛け布も律儀に半分取ってあった。
趙雲は上着を脱いで寝台に腰掛けた。
軍師はよく眠っている。寝息は、憂鬱になるほど安らかだ。
頼むから寝てくれと思い「お眠りください」とは言ったが、こうも呆気なく眠られるとなにか苦い心地になる。
私邸に招き、寝台に寝かせた時も何の反応もなかった。彼にとっては何てことのない事なのだ、自分の存在などは・・・・・

横になり、寝ようと心につよく暗示をかける。
眠りは、なかなか訪れなかった。



(2013/8/10)

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