相思2 趙孔(私設)

 


よく晴れた。陽射しがまぶしい。
衣服を整えた孔明は窓外の空をふりあおぐ。
彼は室に迎えにくると言ったが――落ち着かない心地がして、外に出る。
門外に出たちょうどその時、見事な白馬が駆けてきた。土煙をあげて門前にて方向を変え、軽くいなないて立ち止まる。清楚な白のたくましい馬体―――見ればいくつもの傷跡があり、そしてその傷跡は丁寧に治癒されたあとがあった。
つけた馬具も行き届いた手入れがされている。よく使い込まれているのが、戦歴を物語っていた。

「軍師殿」
ぴく、と孔明は睫毛を揺らす。
顔を上げなければと思うが、上げることは容易ではなかった。
馬のひときわ大きな傷が目についた。矢傷であろう。そういえばこの馬の主人にも、矢を受けたとおぼしき傷があった、その背に・・・・・
傷跡を指先でなぞった感触を思い出す。鍛えられた背の皮革のような感触と、皮膚をくぼませた傷の痕跡・・・深手であったのだろうし、惨い戦であったのだろう。だけどきっとこの人は、誰よりあざやかに戦ったのだろう。

「―――軍師」
馬に乗った時の彼の凛々しさはよく知っている。彼に朝陽が似合うのも知っている。
ずっと見ていた。
出会った当初は武人でありながら端正なたたずまいに感心していただけだった。引き締まった容貌を他意なく見つめ、微笑をかわし合うこともできたのに。
もう見れない。
朝の陽光のなかに身の置き所ない心地がして、孔明は袖をはらった。
こんなことではいけない。さりげないふりをしなければ・・・
「おはようございます、趙雲将軍。ご愛馬に見惚れておりました」
「そう、ですか」
趙雲の返答はそっけない。
空の快晴とは対照的に、心に暗雲がたちこめた。
あの雨夜のあやまちがなければ良かったのだろうか。
そうすればもとのように穏やかに目線を交わせたのだろうか。
孔明は目を閉じ、そして開いた。
情事のあとでさえ会話を交わせたのだ。できないはずがない。彼は自分の愛人ではないのだ。甘えも嘆きもあってはならない。まして今日は公務なのだ。
微笑を浮かべることはできたし、平常に近い声を出すこともできた。

「ご多忙のところ同行していただき感謝いたします。本日は荊州の豪族がたに会えるだけ会おうとおもっています。私は土地勘がありませんので、趙雲殿、どうぞよしなにお取り計らいください」

趙雲が黙ってしまったので、孔明は一瞬かんがえた。
一言一句を思い浮かべてもおかしいことはなにもない。
「どうかなさいましたか、趙雲将軍、・・・」
目が合ってなにかが胸に突き刺さった。

「馬は、どうされる。・・・俺と同乗なさいますか」
「、いえ・・・」
そんなこと、できるわけがない。
「劉備様から、私用にと馬を一頭いただきましたので」
振り向くと、門の中から家人が馬を引いてきたところだった。
ざ、とあざやかに下馬した趙雲が、孔明の馬に近づく。
無言で馬の目を見、背を撫で、馬具の具合を確かめていく。腹帯を締めなおし、鐙の位置をなおし、手綱を長さをなおし、―――仕上げとばかりに革づくりの鞍をばんと叩く。ぱっと土埃が舞うなかで趙雲が振り返る。
「参りましょう」
舞う土埃を羽扇で払いながら孔明はうなづいた。






よく晴れた。朝の陽光がまぶしいのだろうか。
だが彼が此の方を見ないのはそれだけではないに違いない、と趙雲は馬上で思った。
白馬をじっと見つめ、羽の扇で口もとを隠す。
劉備から拝領したというその羽扇は彼に似合っていたが、ときおりひどく邪魔に感じる。ただでさえ表情が読みにくい整った容貌を、ことさら謎めいたものに変えてしまうからだ。

馬の傷跡を目で追っているのが分かった。わが愛馬は傷が多い。いくつもの戦場を駆け抜け、共に命を継いできた。
彼が見ているのは中でもひときわ大きな傷だ。その傷を受けた時のことはよく覚えている。なにしろ揃いの傷が背にあるのだ。矢を受けた傷だ。
ふと、彼の指がその傷をたどった感触を思い出し、趙雲は思わず身じろいだ。背を手でたどり、その傷跡で彼は指先を止めたのだった・・・・・。
彼の背はなんの傷もなかった。ゆるやかなおうとつが続く、なだらかな背――手で触れると震えた息を吐いたのは、ほんの数日前の夜のことだ。

この人には朝陽が似合う。
出会った時は、掃き溜めになんの鶴が舞い降りたものかと驚いた。主君が風雪をものともせず通いつめてついに得たという、龍にたとえられる智者は、薄い白袍をさらりと着こなして佇んでいた。
そして――――はじめて目が合ったとき、彼は微笑したのだ。
それは誰にでも向ける笑みだったのだろう。
だが特別に感じた。おそらくあの瞬間になにかが始まったのだ。


「おはようございます、趙雲将軍。ご愛馬に見惚れておりました」
「そう、ですか」
まさかこの人はずっと顔を上げないつもりなのだろうか。
そんなことは許さない。力ずくでも此の方を見るようにしてやる。

趙雲が下馬しようとしたその時、軍師が趙雲に向かって微笑んだ。

「ご多忙のところ同行していただき感謝いたします。本日は荊州の豪族がたに会えるだけ会おうとおもっています。私は土地勘がありませんので、趙雲殿、どうぞよしなにお取り計らいください」

趙雲は虚を突かれ、黙りこんだ。
なにを考えてる、さりげないふうをしなければ・・・・。


軍師の乗馬は、危うかった。
馬に乗ったことはろくにないのだろう。まして、軍馬には。
趙雲は何度も声をだしそうになり、そのたびに黙然と押し黙る。
手を伸ばして、おのれの前に乗せ、抱き寄せることができれば、このような想いをせずにすむものを。
だが彼は自分の愛人ではないのだ。不埒な真似ができるはずがない。まして公務の最中だ。
それにただの護衛が、軍師の乗馬の腕にけちをつけるわけにもいかぬ。
だが、近いうち早めに彼に乗馬を教えようと趙雲は誓った。
軍師の声は涼やかで、微笑が穏やかなことも常と変わらない。そのことに腹が煮える心地を感じる。
あの雨の夜の出来事をこの人はもう忘れたのだろうか。
ただのよくあるあやまちと済ますつもりなのか。
見ると軍師はあやうい手つきで手綱をにぎり、それでいて凛と前を向いている。
想いを告げるわけにはいかない。自軍の一将に恋情などを打ち明けられたら、軍師は困るであろう。
趙雲は唇を引き結び、おのれの腹中に渦巻く感情を無視しようとした。


行く先々でさまざまな人物と会った。
荊州はいま、揺れている。曹操に下るか、東呉に近寄るか、それとも劉備に賭けるか。
軍師の弁舌は涼しく、それでいて熱かった。流れる水のようであり、ときおり火のような烈しさが混じる。
豪族諸侯とは、軍事の話、諸侯の情勢、天下のゆくえを朗々と語った。
商人とはくつろいだ様子で税と流通路を話し、農民とは気さくな笑みで作物や井戸の話をしている。

2頭分の馬の面倒を見ながら、趙雲はその姿を見ていた。
鳥の羽をつらねた羽扇が、彼の言葉と、身振りにあわせてはためく。
語調と表情は、相手によってなごやかにもなり、厳しくもなった。
英知、という語彙を噛み締める。
清げな姿はやわらかな怜悧に澄み、おだやかに語る言葉は深い知識に裏打ちされ、私欲のなさが清冽だった。

馬の首をなでる。
劉備が軍師にあたえた馬は名馬だった。それでいい、と思う。戦場では馬個体の強さや賢さに助けられる場面は多い。乱世の人の生き死には紙一重だ。わずかな差が生死をわける。馬の優秀さで、わずかでも命を拾える可能性があるのなら、彼にはいかほどでも名馬を与えるのが良い。

自分も同じ、劉備が彼に与えた良馬なのかもしれない。
彼を自由に動かすための馬であり、彼を守るための剣―――

趙雲は天を仰いだ。
その英知に、手を出した。口付け、膚を重ね、おのがものを受け入れさせた。
ひと夜のあやまちで済むならともかく、これほどに焦がれている。
――苦しい。
合意の行為ではあったとおもう。だがその意味となると心もとない。
なぜかの人は自分などに初めての身を許したのか。
このように、武しか取りえのない男に―――・・・・・



2頭の馬がぴくりと反応する。殺気―――
趙雲は馬より先、すでに動いていた。





豪族との会談中、口論になった。というよりも、すでにその一族は心を決めていたのだろう。―――曹操に従う、と。
「ええい、青二才の口舌などしゃらくさい。斬ってしまえ。その首曹公に差し出してくれるわ!」
武装した男たちに囲まれる。
「お待ちください、そこな諸葛亮は曹公も欲しがる稀代の俊才、斬って曹公の歓心が買えましょうか!?」
家人が叫び、当主がすこしうろたえる。
「ならば、生け捕れ!」
「はっ」
屋敷の中にまでいる私兵は、一般の兵卒よりさすがに統制されている。荊州豪族は金持ちというが、鎧や武器も金のかかった、良いものを揃えていた。
孔明は静かに立ち上がる。
こんな男に殺されるのも生け捕られるのも、許すわけにはいかない。
私兵の一人が剣を抜き、ぎらりと光る剣先を突きつけた。それを合図に10数人の兵がいっせいに抜刀する。
「神妙にしろ、諸葛亮」
「・・・・・」
そのとき、後方の兵が2、3人まとめて吹っ飛んだ。何が起こったか分からぬ、という顔で彼らは口を開けている。
ひゅっ、と風のうなりが、孔明の眼前を吹き抜けた。孔明に向けられた剣先が、それを突きつけた男の手から跳ね上がり、床に転がる。男は手の甲を押さえいる。血は、流れていない。
居室の入り口に趙雲が立っていた。
「軍師殿、どういたす」
場違いなほど平然としている。
「どう、とは」
「お決めになられよ。どの程度殺すか、殺さずに突破するか。皆殺しにせよとのお言葉なら、そういたしますが」
丸腰の文官とただひとりの護衛である。多勢に無勢であるこの状況で、随分とこちら本位の選択肢に孔明は一瞬黙り、豪族らは色めき立つ。
「殺さずに、突破を。・・・できるものならば」

「承知」
卓越した武技だった。剣を抜かず、豪族の私兵から奪った棍の棒で、瞬く間に10数人を床に沈める。
見る間に私兵は数を増やして彼を取り囲むが、趙雲の表情は変わらず、沈着なままだ。
正面から向かってきた兵の眉間にまっすぐ棍を入れて昏倒させ、左側から突いてきた兵を横に薙倒すついでとばかり、後方からの兵をも倒している。
・・・なんという強さなのか。
長身の体躯が剽悍に動き、幾本もの真剣の刃に囲まれていささかもひるむことが無い。
武勇も胆力も、―――存在そのものが、胸が痛むほど見事だった。

彼はゆっくりと孔明に歩み寄った。
「軍師、帰りましょう」
「ま、待て!」
孔明をぐいと乱暴につかみ寄せた豪族の当主が剣を突きつける。孔明ののど元に。
「止まれ、止まれぬと」
「――――」
不快げな表情をちらりと浮かべた趙雲の手が、閃く。
何が起こったのか分からなかったが、一瞬後に孔明は自由になっていた。豪族は床に倒れ、剣と棍棒とが、がらりと転がった。

外に出ると、陽射しがきつかった。
まばゆさにくらりと立ちくらむ。
「軍師!」
数十本の剣に囲まれていた時より、彼はあわてた声を上げた。
「大丈夫です、少し立ちくらみを・・・」
彼が、甲高い口笛をふく。2頭の馬が並んで、建物裏から駆けあらわれる。
熱があるのだろうかと孔明はぼんやりと考える
彼につかまれた腕が、熱くてしかたなかった。





趙雲は軍師の腕を掴んで支えたおのれの手を見ると、唇を引き結び、その身体をおのれとともに白馬の馬上に押し上げた。
「趙雲殿」
「目を、閉じておられよ」
門からは口から泡を吹いた当主と、私兵らがまろび出て、此の方を指差して何事かをわめいている。前方にも兵が立ちふさがった。
「ハァッ」
趙雲が手綱をひく。棹立ちになった馬がいななき、走り出す。
孔明は目を閉じた。
馬は高く飛び、前方の兵を飛び越えて、駆けた。

豪族の館がはるか遠くになっても趙雲は馬脚をゆるめなかった。2人の乗る白馬に続き、軍師の空馬が駆ける。
趙雲は息を吐き、空に顔を向け、一瞬目を閉じる
彼を抱く腕も、触れ合った体躯も、燃え上がるように熱かった。



抱いてしまおう、もう一度。


戦場で男色など珍しくも無い。
ただ快を与え合う行為なのだと。ふかい意味など無いのだと。独り者同士のたわむれに似た行為なのだと。
そういう、振りをして。





趙雲はその日軍師を、彼の居室に帰さないことに決めた。








(2013/8/4)

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