初めてというわけではないが、諸葛亮は馬に乗るのに慣れていなかった。そして、壊滅的に乗馬が下手だった。
「軍師、それでは手綱がゆるい。こちらの意思が馬に伝わりません」
「こう、でしょうか」
諸葛亮がぐい、と手綱を引っ張ると、ひひひんといなないた馬が棹立ちになりかけた。度肝を抜かれた趙雲が轡を取って抑えなければ、間違いなく振り落とされていただろう。
馬を落ちつかせた趙雲は低く言った。
「・・・俺と、同乗なさいませんか」
「いえ。ここで逃げてはならないと思うのです。馬にも乗れない軍師では戦場に出れません」
きっぱりとした返答を受けて趙雲は黙り込んだ。もっともだ。もっともだと思うのだが。これは。
「――分かりました。乗馬を覚えていただくと言ったのは此方だ。どうあっても乗りこなしていただく」
「申し訳ないと、思っております。四書五経のどこかに馬を御す法でも書いてあれば、いま少しましだったと思うのですが」
「習うより慣れろ、と言いたいところだが、あなたには理論で言ったほうが良さそうだな。まず、そう、何があろうとも手綱を放してはなりません。手放す時が落ちる時です。それから、馬の背には腰をすこし浮かすようにして、またがるのです。鞍に腰を落ち着けて座り込んではいけません。なぜなら――」
最初は引き綱からはじめて、鞍への乗り方から慣れさせた。鞍へのまたがり方が悪いと騎乗の姿勢が安定せず、何もできない。
それから、手綱の持ち方、騎乗ではどこを見ているのがよいのかなど。なぜそうしなければならないか、そうしないと何が悪いのかを、なるべく言葉に変えて伝えた。
諸葛亮はもとより大真面目だ。理論は完璧に理解できるのだが、なぜか言われた通りにできない。
「どうして出来ないんでしょうか。こんなに丁寧に教えていただいているのに・・・申し訳ないとしか言えませんね」
消沈してしまった様子に、趙雲としても苦笑するしかない。
「俺は構いませんが。馬が気の毒です」
趙雲は馬上から手を伸ばして、軍師のまたがる馬の首筋を撫でてやった。
「我慢強い良い馬だ。あとで褒美をやってください」
「馬は、なにが好きなのですか」
「飼い葉のほかは、果物かな。あと、砂糖も好きですよ」
「甘党なのですか。・・・私と同じですね」
諸葛亮は急に親近感が湧いたようで、そろそろと身体を倒し、馬のたてがみに顔を寄せた。
「甘いものが好きなのでしたら、お詫びに、帰ったらとっておきのお菓子を差し上げましょうね」
それこそ菓子よりも甘い声で馬に向かってささやくのだから、趙雲は鼻で笑った。
「菓子なんか与えたら、二度と馬に乗せません。砂糖も、ほんの少し舐めさせるだけですよ」
くすくす笑いながらそんな吝嗇な、とかいいながら不器用に身体を起こした軍師は、趙雲にも、にこりと笑いかけた。
「では、私の乗馬の師には、何を差し上げたら喜びますか」
「まさかとは思いますが、それは俺のことですか」
「ほかに誰が?」
趙雲は天を仰いだ。
「それって、どういう・・・」
「いえ。あなたの乗馬の師が俺、と世に知られることにいささか絶望を感じただけです」
「絶望って・・・そんな。ひどい言われようですね・・・」
肩を落として嘆く様子が、どうやら本気でしょぼんとしているようだった。
戦に出るために慣れぬ馬に乗ろうとしている軍師の意思は、敬いこそすれ馬鹿にする気はない。
といって、馬がこれでは剣などさらに駄目だろう。持たせるのすら恐い。
遅々として進まないとはいえ、民家は途切れ、緑深い森に入っていた。
風が木々を揺らし、鳥が鳴く以外に物音は聞こえない。
人の気配が完全に切れたのを感じ取った趙雲は、静かに口を開いた。
「褒美は、―――先日、殿の室で語っておられたことを。差し支えなければ、お聞きしたい」
「どの、話でしょう」
「天下三分――といっておられた」
ああ、と諸葛亮は風に向かって微笑む。
「やはり、聞いていらっしゃったのですね」
「聞いてはならぬというなら、二度と口にしません」
「主公が目指すべきは益州――そして荊州です。荊州を先に取れるほうが望ましいですが、もっとも重要なのが益州の領有です」
諸葛亮がゆったりと手綱を打たせる。
険しくはないが、登り道にはいっていた。手綱がゆるまぬように慎重に、一歩一歩山道を進んでいく。
「荊州、益州を押さえて揚州の孫家と同盟すれば、曹操の押さえる河北とは充分に対抗できます。その先、天下に変事がある際は、荊州の軍勢を率いて宛・洛陽に向かわせ、益州の軍勢を率いて秦川に出撃―――・・・・・・・曹操を打倒し漢王朝を再興することも可能になりましょう」
「あなたはそれが叶うと思っているのか」
「未来はそこにしかありませんから」
「未来、ですか」
「道はありませんよ、将軍。無き道を行くことになります」
「それは、望むことですが」
「望むのですか?わたしはできればそのような道を歩みたくはないのですが・・・しかし、道がないのに行き着く先が見えてしまっているので、行かざるを得ません。無いなら、道をつくるしかありません」
「道を、つくる」
行く道を選んだことは、何度もある。だが、道をつくろうと考えたことがあっただろうか。 結果的に無き道を征き、振り返ると道ができていたということはあった。
それでも未来につづく道を創造するという意識を持った事はない気がする。
諸葛亮が「あ、」とつぶやいた。
湖が見えた。
湖面が陽光にきらめいて眩しい。
目を細めた諸葛亮は身を乗り出した途端、鐙から片方の足が外れた。
ゆっくりと慎重に元のように戻そうとしたが、なぜか、ずるりと身体がすべり、体勢が崩れた。
動体視力の良い趙雲には、その瞬間がつぶさに見えた。
軍師の脚は鐙を踏み外すことなくはまったが、かわりに、なぜか・・・・彼は思いっきり馬腹を蹴っていた。
ヒヒヒィィィィーーーーーン
棹立ちになった馬が、走り出す。
「あ、・・ぁ、・・・わあ」
妙に緊張感のない悲鳴が、まぬけな悪夢のように趙雲の耳に届いた。
次へ ≫
どのカプだろうとどの先生だろうと先生の乗馬の師は趙雲なのだ
(2014/6/19)
≪ 一覧に戻る
|