湖に行こう3 趙孔(私設)

 


『まず、何があろうとも手綱を放してはなりません』
『鞍に腰をつけてはいけない』

馬に乗る際の心得として趙雲がくどいほど言い聞かせた2点を、軍師は一応のところ守っているようだった。というか、守っていなければとっくに落ちている。
手綱を放すともちろん、即座に落馬する。鞍にべたりと腰をつけて馬を駆けさせると、馬体の上下動に跳ね飛ばされて落馬する。

2点は守っているが、逆に言えば、2点以外はすべて守っていない。
『手綱はたるませずに持つ』という教えは当たり前のように守られておらず、手もとでぐしゃぐしゃと絡まった手綱は馬を御するという最も重要な役割を果たしていない。
(くそっ、鐙の指示も、守っていないな)
簡素な沓が、鐙にずっぽり突っ込まれている。 
鐙(あぶみ)は足を乗せる馬具で、足を深く突っ込んではいけないのだが、初心者はなかなか難しい。馬上で安定した姿勢を取りたいがためについ鐙にがっちり足を突っ込んでふんばってしまう。足の裏のくぼんだところ、いわゆる土踏まずのところまで突っ込んでいたらもう駄目で、あくまで爪先を乗せておくべきなのだ。
趙雲は大喝した。

「手綱だけは放すなっ」

鐙に足が固定されているとなると、落馬した場合足首ごと絡まり逆さ吊りになって引きずられてしまう可能性がある。
となると馬を無理に止めるのも危ない。驚いた馬が棹立ちになったとして、それでも手綱を放さずにいられる根性が軍師にあるか?
当の軍師が聞いたら半泣きで反論しそうだが、趙雲はあっさりと(無理だな)という判断を下した。

駄馬に乗せておけばよかった、とも思う。
天下を狙っている、といったら誰もが大笑いをするだろうほど劉備軍は弱小である。遠からず大軍を率いた曹操が南下してくるのは明白、軍師という文官でも戦場に出なくてはならない。城なり領地なりの確たる本拠地をもたない劉備軍は、すなわち劉備のいる場所が本陣となる。軍師を守るために大量の兵をさくことはできず、ある程度は軍師自身に、自分の身は自分で守ってもらわなくてはならない。実際に戦闘をするわけではなくとも、それなりに足も速く力のある馬に乗っていなくては危険なのだ。
乗馬の特訓もそのためで、初心者だからおとなしい老馬で練習させてもよかったのだが、せまりくる戦乱を考慮して、力量のある馬に乗せたのが裏目に出た。
 
軍師の乗る馬は脚力はさほどではなくとも、よく躾けられた良馬である。素直な分だけ、乗り手の伝えた意思のままに行動する。諸葛亮が思いっきり馬腹を蹴ったのだから、馬が思いっきり駆けるのはまったく当然のことだ。

趙雲の技量と愛馬では追いつくのに苦労はしなかった。たやすく並びかける。しかし問題はそれからだ。

(敵だったら話が早いのにな)

敵だったら、槍で軽く突けば即落馬だ。いや戦場ではないゆえ、さすがに槍は持っていない。剣を抜いて、手綱をぶっつり切ってしまえば。相手はキリキリ舞いをしつつ落ちてゆくだろう。それすら面倒なら馬を寄せて相手の馬を爪先でちょっとどつけば、やっぱり乗り手はキリキリ舞いに落ちて・・・・・
趙雲は息を吐いた。
こんな状態で、相手が敵兵だった場合にどうやったら無駄なく合理的に完膚なきまでに殺せるのかを冷静に考えている自分は、どうかと思う。
どだい、守るよりも殺すほうが、ずっと簡単なのだが・・・・

趙雲はきりりと眉根を寄せた。守るよりも殺すほうがずっと簡単であるから。殺すよりも守るほうがずっと難しいゆえに。誰も見ることのない未来を見るこの軍師は、落としてはならない。
「軍師!手綱は、放すなよ」 
両手で持っていた手綱を片手にまとめて持ち替え、身を乗り出す。さりげない様子で手を伸ばて呼吸をはかり、頃合いとみるや丹田に力を篭めて轡に近いところの手綱を掴む。馬は棹立ちにならず、すこし鼻面を上げた。
野生ならば一日中でも走り続けているような生きものである。馬を止めるのは、走らせるよりずっと難しい。
それでも軍師の馬は疾走しているのであって、暴走してるのではない。馬が理性を失っているのではない所に賭けた。
手綱を掴んだまま馬上を肩越しに振り返り、まっさおになって前かがみに手綱をしがみついている白面の、その黒瞳をとらえる。

「軍師、これから馬の速度を落とす。身体を起こしてください!」

蒼白な顔色が歪んだ。「む、無理です」とかなんとか云っているのを叱り飛ばす。

「背を伸ばして」

「背を伸ば・・!?・・背を伸ばす呪文を・・ここで使うことになるなんて」

「・・は!?」

ふざけてんのかこの文官は!と怒鳴りたいところだが(というか呪文って何だ?)、軍師の表情も声もせっぱ詰まった緊迫感に満ちあふれているので趙雲も真顔で叫んだ。

「身体を起こすんです!仰け反るくらいでいい」

「―――は、い・・・・」

なにかぶつぶつと唱えたとおもったら、そろそろと身体を起こし始める。彼が目をつむっているのに少なからずぎょっとしたが、趙雲はゆっくりと馬首を下げさせる。乗り手が身体を起こしたことによって、馬腹を締め付けていた脚の力がゆるんで、馬がふ・・・っと力を抜いたのが分かった。

並んだ馬体同士がぶつからないよう両脚の筋力をつかって自らの馬に走る方向を指示しつつ、左手に握った手綱で自分の馬の速度を調整し、さらに右手で軍師の馬の手綱を操作するという離れ技を、趙雲はしなやかにやってのけた。
併走しながら徐々に速度を落とさせ・・・・ついには、並足にまでなった。急に止めて馬が驚かせるとまずいので、そのまますこし歩かせる。
 
「・・・ぅぅ」

あと1歩で止まる、という段になって隣の馬上で歯軋りのような泣き言のようなうめきが上がり、そちらに目をやると。燃え尽きたような表情をした軍師の上半身がぐらりと傾くところだった。

―――だから、手綱を、放すなと・・・!
 
よりにもよって軍師の身体が傾いたのは、趙雲が並んでいる逆の側だ。趙雲はとっさに手を伸ばす。  
いままさに落馬の危機にある軍師も手を伸ばしてきた。その表情ときたら今にも泣き出しそうな必死なものだ。
「―――軍師!」
軍師の馬が足を止める。趙雲の馬は、まだ歩んでいた。もう少しで掴めそうな、指先が触れそうなところまできて一瞬、時が止まったような錯覚がした。触れなんとした指は空を切り、二人の距離は引き裂かれた。別に、非情な運命が二人を引き裂いた、とかいうのではなくて。単に軍師の脆弱な身体が、重力に負けたのだ。 
「ぁ、あ、」
ものすごくせっぱ詰まった声で、軍師が叫ぶ。
「・・・助けて、将軍――」
急速に、秀麗な白面が遠ざかる。
計算はなかった。これが敵兵だったらどうなるかとか、味方だから助けるとか。趙雲はただ必死に、鐙を蹴って身体ごと手を伸ばした。










「ぅぅう・・」
なんというかこの世のものとも思えぬ壮絶な地鳴りが響いて、土埃が舞い上がる中、しばらくしてひと声のうなりを上げた諸葛亮は、そろそろと頭を上げた。
絶対、落ちた。
それはもう間違いない。事実であり確信もあり確定事項でもあるのだが、認めたくない。
じわじわと頭上を仰ぐと、さっきまで乗っていた馬がそびえたっている。仰ぎ見た馬影はとてつもなく大きく、はっきりいって怖い。
(・・・どうしよう)
はらりと顔にかかる髪を乱暴に払いのけたついでに両手で顔を覆い、諸葛亮はひとしきり苦悶した。思い切って手を下ろしたが、しかしなかなか思い切れず、そろそろと視線を下に下げる。
事実であり確信もあり確定事項でもありながら、地面に投げ出されてはいなかった。落ちたのは間違いないのに背に衝撃が無かったのだから、そのことはとっくに分かっていた。しかし認めたくなかった。我が身がいる場所は地面の上であるのが当然なのに、違うものの上に諸葛亮はいるのだ。


諸葛亮の下にいる男はぴくりとも動かない。
初対面で、なんて顔の良い武将なのだろうと驚いた、その容貌が、苦痛を浮かべて目を閉じている。
落ちていく途中で強く腕を引かれ、引っ張られたのは覚えている。一瞬宙に浮いたような感じがして、・・・・それから地に叩きつけられた。といっても諸葛亮は地面に触れていない。
「貴方の・・・逆側に落ちたはずなのに。なぜ貴方が下になっているのですか。そんなのは自然の摂理に反するではないですか・・・」
思わず叫んだ非難はどう聞いても八つ当たりであるが、声に力なく語尾がかすれた。声に反応したように精悍な容貌がぴくりと動き、諸葛亮はおろおろと目を泳がせる。
どこか痛めてないだろうか。いや痛めているに決まっている。
「し、将軍・・・」
そろそろと顔にふれると、目が開いた。すこし動こうとして顔をしかめる。
とりあえず意識があることに、涙が滲むほど安堵した。
「怪我は!?」
「さあ・・・」
「何をのんきなことを」
「軍師殿は。怪我はしていませんか」
「さ、さあ・・・・・・・多分」
ひどく痛むところはないが、いまひとつ自信がもてなかった諸葛亮は、そろそろと身体を起こそうとして、できなかった。趙雲が腰を抱いて支えているのだ。
「そのまま地に手足をつけると、服が汚れます。軍師を落馬させたとなると俺が主公に怒られる」
「・・・服などどうでも。重いでしょう」
「いえ、まったく」
服などこの際どうでもよい。強引にでも武人の上から退こうとして、視界が揺らいで驚く。趙雲がゆっくりと身体を起こしたのだ。
趙雲は諸葛亮を乗せたまま半身を起こした。とくに力を入れた様子もなく自然な動作だったが、視界の変化についていけない。
趙雲の膝に乗せられた形で、諸葛亮は彼と向き合った。
「で、怪我は?」
問われて諸葛亮は考える。とくに痛みや、動かすのに障害がある箇所はないようだ。腰が痛いが、慣れぬ馬に揺られたせいであろう。 
「わたしは大丈夫のようです。将軍は?」
「俺は大丈夫です」
というわりにやはり痛みはあるのだろう、精悍に整った顔が渋面をつくっている。
趙雲の視線を感じて、諸葛亮も相手を見た。腰を支えられて向かい合っているので、顔が近い。
「本当に、無事ですか、軍師。頭も、打っていないのですね?」
「・・・はい。あなたが下になってくれたではありませんか。あの体勢で頭を打つなんて、逆に無理です。それよりも将軍は本当にどこも痛めていないのですか?ちゃんと確かめてください。あなたに何かあったら、わたしこそ主公に申しわけが立ちません」
「―――よかった」
起こされた時から・・・いや彼の上に落ちた時からずっと、武将の手が腰に掛かっているので、身体を離すことができない。  
「よかったです」
頭部の後ろに大きな手が当てられ、彼の胸に引き寄せられた。

 






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(2014/6/21)

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