新野のウワサと騒動と1 趙孔(私設)

 


趙将軍が新任の軍師とできてる?
 
というのが、新野のわりと新しいウワサである。
ちょっと古いウワサが、『とうとうウチの軍にも軍師とかいうもんが来たんだってよ。なんでも劉備さまが3回も通って口説き落とした臥龍とかいうもんなんだってさ』というものだ。

古いウワサとわりと新しいウワサの間には、『張飛将軍が呑み比べで負けて脱いだ』『見回りの警護兵が関羽将軍につかまって一晩中説教されたがいつのまにか春秋左氏伝の講義になっていた』とかいうのも混じっているのだが、あまりにいつもとおりの出来事なので、兵卒の間では既に忘れ去られている。
  
 
「ガセだろ、それ」
趙将軍が新任の軍師とできてる?
「「?」なのがもうウソくせえなぁ」
「いやぁ?ウソ臭すぎてかえって信憑性あるぜ」
新野、劉軍の食堂である。食堂といえば聞こえがいいが、単なる『屋根と柱のある広い空間』でしかない。屋内と屋外の半々のようなぼろい建物だが、劉軍は誰も「屋根と柱しかない」とは思わない。「屋根と柱があるなんてラッキー」だと言い切って、彼らの食堂を愛している。
ありあわせの筵を敷いて車座になり、そこらの板切れを持ってきて卓の代わりとして飯をかっこむ。飯をはこぶおばちゃん以外は男ばかりざっと見渡して数百人も群れていて実にむさ苦しい光景だが、活気はあった。

「できてるってなによ?どこまでいってんの」
「いくとこまで――って聞いたぜぇオレは」
「うわっマジで!?」
「なんだそれどこのガセ?」
「見たやつがいんだって」
「城門の警備受け持ってるやつだろ?遠乗り行って、帰ってきたら妙〜に雰囲気良くって、そんで髪や服がすっげえ乱れてたんだって」
「ぅおおお決定的!?」
貧乏な劉軍は物資に乏しいが、酒と飯だけはなぜかふんだんに出る。しかし食料を蓄えたりする計画性がないので、時期によっては飯が足りなくなる。兵たちは食えるときにかっこむ。
 
「あの山のあたりちょっと行ったとこにさ、湖あるじゃん?そこで―――って聞いたよオレは」
「うぎゃぁおいきなり青○なの!?けっこう豪快なのな趙将軍」
「昼下がりの湖辺でって。なんか実は情緒的」
「情緒的・・・あの方強いケドあんまそういう感じしなくね?」
「つーか、あの軍師はもっとしねえよ、そういう感じ」
「でも最近ちょっと変わってきた気しねえ?相変わらず何考えてんのか分からんけど、ちょっと角が取れたっつうか」
「よく見てんのなお前あんな異世界の生きもんを」
「あー異世界。そんな感じ」
「緊張してたんじゃん、はじめは。戦なんか知らんのだろ?俺らみたいに劉備様と修羅場くぐってんならともかく。ふつうは最初びびんよな」
「そんでさ、やっぱガセなの、このネタ」
「やでも、その日な、趙将軍、すげえ服汚し方ハンパなかったらしいの。しかも背中側に砂埃べったりだってさ」
「うわマジ決定的じゃん。馬から落ちでもしねえとそんなことなんないよな」
「落馬なんてすんわけないじゃん、あの人が。馬術神だぜ」
「つか、背中側べったりって、将軍が下ってことか!?」
「んなワケねえだろ!んなことあったら世を儚むわ!」
「んじゃ、・・・・・上に乗せて、ってことなわけか?」
「うぎゃやっべえ俺鼻血噴きそう」












調練のあと城内の井戸で頭から水を浴びた趙雲は、頭上から降ってきた布を掴んだ。
「借りていいのか、叔至」
「おー」
承諾を得て、遠慮なく顔を拭き、髪の雫も拭う。
「子龍、最近どうよ」
「どう、とは」
陳到がおもしろそうに目を輝かせた。
「新野のいちばん新しいウワサ、おまえ知ってんの?」
「知らん」
ウワサになど興味はない。劉軍は人と人との距離が近く、劉備をはじめとして兵らは集まって騒ぐのが好きだ。集まってしゃべるうちに、妙なウワサが飛び交うことはよくあることだが、趙雲が耳を貸すことはほとんどない。

井戸水で濡れた髪や顔を拭いてぐっしょりと重くなった布を、陳到に投げ返す。
近い距離だったにも関わらずひょいと難なく宙で掴み取った陳到は、にやりとした笑みを浮かべた。
「ははっ、こりゃあお宝だぜ。趙子龍の使用済みの布!高く売れるかもな」
趙雲は表情ひとつ変えずに言い捨てる。
「売れるか、そんなもの」
「分かってないねぇお前。自分がどんだけモテてんのか。顔も武芸も絶品、おまけに独身。もてない男にいつか刺されんじゃないかと思いきや、男にもモテやがる。調練をやりゃあお前に稽古つけてもらいたいって兵が列つくってるありさまだからな」

ぺらぺらとしゃべりまくる陳到に趙雲は一歩近づき、布を取り上げた。
「あっ何しやがる、つか、それ俺のだぞ」
「洗って返す」
「あ〜もうケチだな、子龍」
くっくっと笑いながら、陳到は背を向けた趙雲の肩にふざけて顎をのせてじゃれついた。

「そんなにつれないと、一番新しいウワサを教えてやらないぜ」
「なんだ?」
「さて、どうするかな」
「別に、いい。どんなウワサだろうと、自分で確かめる」
ウワサなどただの人づての話の集合体だ。趙雲は基本的に自分の目で見たものしか信じない。

「へぇぇぇ〜〜〜そんなつれなくっていいのかなぁ。お前の軍師様のことだぜぇ」
「我が軍の、軍師だ」
趙雲は一歩を踏み出し、うっとうしげに肩に乗った顎を振り落とし、そして振り向いた。
「――どんな、噂だ」
「知りたい?」
「叔至」
にやにやにやにやと笑いを浮かべた陳到は、趙雲の耳元に唇を寄せた。
「なーんかね、軍師様のうなじに、紅ぁ〜い痕がついてるんだって。ふたつも」
あまりのくだらなさに、趙雲は半眼になった。
彼はすこし誤解されやすいところがある。悪い噂なら知っておきたいと思ったが、あまりにしょうもない。
「虫さされか何かだ、それは」
まったく興味を失って、きびすをかえす。
「だーれがつけたんだろうねぇって、すんごいウワサになってんぜ。賭けにもなってるしな」
「くだらん」
「あ、おい、メシ食いにいかねえのか」
「あとで行く」










軍令書に書き込みをしたものを携えて、趙雲は軍師府へと足を踏み入れた。
扉を挟んで室の外に2人、兵が立っている。趙雲の配下の兵で、軍師の護衛だ。
1人は背が高く、1人は背はさほどでもないが、がっちりした身体つきをしている。
二人とも趙雲の姿を認めると、さっと拱手した。
趙雲はかれらにじろりと視線をめぐらし、視線を受けて固まる兵に声は掛けず、扉を開ける。
内側にも兵が1人立っている。こちらは小柄でまだ少年のような年齢だ。
外の2人が頑健な武闘派で、内の1人は雑用などを請け負うことが出来るよう気の利く者を選んである。
その少年も趙雲を見て幼い拱手をした。
「――口の軽いものは長生きできないぞ」
重くもなくつぶやかれた言葉に、兵らが硬直する。とくに外の武闘派の二人はだらだらと冷や汗をかいている。
なんともいえない沈黙を破ったのは、笑いを含んだ涼やかな美声だ。
「なんなのですか、それは?口が軽くて長生きできないなんて、ほんとうなら主公なんて絶対早死になさいますよ。不吉なことを言わないで下さい」

軍師は質素な執務机から立ち上がっていた。
「あなたの兵は、将軍に似て有能です。無駄口なんてありませんよ」
兵らは赤くなって顔を伏せた。
趙雲は今度は軍師を見た。
「甘やかさないでいただきたい。菓子などを与えて、餌付けなんかしては駄目ですよ」
軍師がちょっと目をそよがせる。
「・・・・・・そのようなことはしておりません」
やったな、と趙雲は確信した。

自分の馬に会うついでに、はじめ髪を噛むなどされていじめられていた関羽と張飛の馬に、訪れるたびに砂糖だの果物だのを与えて、まんまと餌付けしてしまったのだ
今でも張飛の馬はこの軍師の髪を噛むが、それは親愛の情である。


趙雲は軍令書を軍師に渡した。
もとは諸葛亮がつくったもので、それに趙雲が自分の見解を入れて修正の筆を入れたものだ。
手馴れた手つきでさらりと諸葛亮が書簡をひらく。
「・・・・・・ああ、そうきましたか。なるほど、ここのところ・・・・」
立って書簡をひろげる諸葛亮と肩を並べて、趙雲は書簡を覗き込んだ。
軍師も長身だが、趙雲はそれより高い。
視線を合わせるために諸葛亮は趙雲の顔をふりあおぎ、息がかかるほど近くに白い顔が近づいた。

ごふん、とへんな音がして、趙雲は顔を上げる。
武闘派と小間使いの兵3名ともが、赤くなりもじもじと視線を下げている。
趙雲は兵を室から下げた。信頼はしているが、軍事に関することはあまり聞かせられない。
兵たちはまるでこの部屋だけ空気が無くなって息ができないというような、息を詰めた顔つきで、礼をとって下がっていった。


「この陣はなぜ変えたのでしょう」
「陣形が、複雑すぎる。歩兵は良いが、騎兵は馬の能力が揃っていません。今の我が陣営でその陣を取れといわれるのは、無謀とは言わないが、すこし荷が重い。どうしてもと言うなら従いますが」
「いえ・・・・やはり実地ではないと分からないものですね。馬の能力、ですか」
「兵は鍛えられます。良い兵が揃っていると断言できる。だが馬は。鍛えることも出来ますが、最初から最後まで、生まれ持った能力のほうがものをいいます」
「じゃあ、良馬を育てる牧場をつくりましょう。そうですね、・・・場所と予算は、こんなところでいかがでしょう」
趙雲は一瞬黙り、そして口元をゆるめた。
「あなたには、何度でも驚かされる」
「なにがでしょうか」
疑問を浮かべて見上げてくるのに、苦笑する。
馬の数や能力が足りないからといって、牧場で育てるなどという案がさらりと出てくるのが、もうふつうじゃない。自分や張飛だったら、どこかから交渉して調達してくるか、強奪することしか浮かばない。
それも、案として出た次の瞬間には、場所や予算までが計算されている。実現する道筋がはっきりとついているのだ。これならば即座に現実とすることができる。
ほんとうに彼は、創る側のひとなのだ。あるものを流用するのでは無く。
道を、未来を創りあげる。今は無いものを、無い道を、その美しい頭部から生み出すのだ。




「では話を戻して、この次の陣形については、将軍はどう――」
「どれです?」
書簡を覗き込む。
「ああ、それ、ですか。意図がいやらしいほど明白だ」
趙雲が渋面をつくるので、諸葛亮はすまなさそうに笑った。
「・・・・いかがでしょう。あなたに張飛殿の突出を押さえていただくという陣形なのですけど」
「やれと言われれば、なんでも。俺は武人だ。あなたが必要と思われるなら、従いましょう」
「ではよろしくお願いいたします」
くるくると書簡を巻き上げて、すっと諸葛亮が離れる。
趙雲は背を向けたその肩にやんわりと手を置いて引き戻し、襟足にちらりと視線を落とした。



―――軍師様のうなじに、紅ぁ〜い痕。だーれがつけたんだろうねぇ?

紅い痕とやらは、たしかにあった。肌が白いだけに目立つ。小さく腫れ、中心には針で刺されたような微細な穴がある。

「・・・将軍?」
「虫に、刺された痕が」
どう見てもただの虫刺されだ。陳到、あの大馬鹿。

趙雲はふところから取り出したものを軍師に渡した。
「なんですか」
「虫さされの薬。くだらないウワサの的になりたくなければ、お使いください」
執務室にこもりきりでウワサなど知りようもない軍師は、顔に疑問を浮かべたが、趙雲が渡した小さな容器の蓋をあけて、容赦ない意見を述べた。

「・・・色も匂いもヘンですね」

「薬草をすりつぶしただけのものですからね」
趙雲は肩をすくめた。いってみれば安物の薬だ。

別に使わなくともよかった。掻いた痕はなかったから、痛みも痒くもないのだろう。放っておいてもすぐ消える。
「わたしがいただいたのでは、将軍が虫に刺されたときお困りでしょう」

たしかに調練場などの草むらは、虫の宝庫だ。
「別に、かまいません。死ぬわけじゃない」

軽く流して、趙雲は室の扉を開けた。
すぐ外に居るかと思った兵らは、扉から5,6歩ほど離れた微妙な位置に3人固まって立っていた。
背の高い武闘派は何かに耐えるように宙を睨み、がたいの良い武闘派はうつむいてじっと床を睨み、小間使い兵はうろうろと視線をさまよわせていた。
3人は趙雲を認めるとはじかれたように礼をとり、なぜか3人とも趙雲の着衣を上から下までちらりと目を走らせ、そして目を伏せた。

趙雲は小間使い兵に声をかけた。
「軍師の室の布団、陽にあてておけ。虫がいるのかもしれない」
「はいっ」
小気味のいい返事にうなづく。

「やっぱり、布団が原因でしょうか」
室の中から声がかかった。
「布団を干すのは明日ですよね。じゃあ、今夜は将軍の室に行っていいですか」
「お好きに」
趙雲としても、護衛対象が執務から離れて、きちんと休むのは都合がいい。
「お待ち申し上げる」

兵と目が合った。
「だ、だだだ誰にも言いませんっ。長生きしたいですっ」
趙雲は眉を上げる。
別に、隠すようなことはなにもない。
「交代で、飯を食え。ついでに、今夜の軍師の夜警は必要ないと伝えておいてくれ」
兵は平伏せんばかり勢いで頭を下げた。

 






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(2014/6/22)

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