夏空~虹の向こう側  趙孔(私設)

 


03:知らなかった一面 ~臥竜、かれは軍師である






「うわ。びっくりした。ちぇっ、寝てやがんぜ」

いかにも忌々しそうに張飛が舌打ちした。
調練から戻ったところであった。
北からの圧力を感じ取り、訓練は苛烈なものだ。趙雲は、騎馬隊を率いる将同士、張飛と訓練することが多い。
獲物である蛇矛と槍をそれぞれ担いで劉備に報告に寄った所、劉備は不在で、代わりに長椅子でぐっすりと眠っている軍師を見つけたというわけだった。

「兄者が訪れた時も寝てやがったんだ。お昼寝の時間ですから、と家の者が抜かしやがって。遠来の客だぞ、起こしゃいいだけの話じゃねえか。兄者ときたら人が良くて、目が覚めるのを待ったんだ」

腹立たしそうな張飛とは別に、趙雲も内心で腹立たしい。
夜遅くまで仕事をしているのは知っている。夜更けまで劉備と語り合うことも多い。
だから昼寝をするなとは言わないが、せめて自室で眠る配慮を持って欲しい。

「主君の居室で昼寝するか、普通。兄者はこいつに甘すぎるんだ」

そうだ、と趙雲も声を大にして同意したい。
劉備がまったく気にしないであろうことが余計に腹立たしい。
こんな寝顔を劉備に、また、誰にでも見せて。
私情だと自覚しているだけに本当に腹立たしく、しかしそんなこと言えずに黙り込むしかない。

劉備が戻ってこないので、寝ている臥竜を放って退出した。
張飛はまだぶつくさ言っている。
「何が臥竜だ、眠り龍め。ちぇっ、あんなやつ、戦の役に立つもんか。徐庶ならまだ一緒に戦おうという気にもなったが」




「軍師様よう、あんた、人を斬ったことはあるのか」

赤ら顔は大虎そのもの。誰が見ても立派な酔っ払いだが、太い眉の下の両眼は炯々と光を帯び、酔いに濁ってはいない。
酒席がはじまったときから、張飛は派手に大酒を食らっていた。虎視眈々とこの機会を待っていたのは明らかだった。

周囲の気配が変わったことに、孔明は気付く。

酔っぱらった張飛がすることは、どんな無茶でも咎められない。言いたいことを言ってやりたいことをやり尽くしてから、関羽か劉備が止めに入る。

ふらりと近寄った張飛が新任の軍師に近寄った時点で、その言動に視線が集まっていた。酔っての無礼を咎めるよりは、酔っての無礼を期待するもののほうが多い。

「ねえんだろ?手を見てるんじゃねえ。手は、顔に似合わずけっこう使ってあるな。農夫をしてたといのもあながち嘘じゃねえんだろう。この顔で農夫ってのも笑っちまう話だがな。そうじゃねえ、おまえの目だ。俺たちを見下してやがんだろう。学のねえ奴らだってな。ああ、辺境じゃどんな勇者だ将軍だって言ったって、都で権力を握るのはいつだって文官なんだろうよ。武人なんざ、政治に関わるもんじゃねえ。せいぜい政治家やら行政官やらの使いっぱしりなんだろうよ。――だがな、ここは都じゃねえんだ。欲しいのは政治家でもなけりゃあ行政官でもない。戦をして勝てる奴だ。兄者を勝たしてくれる奴が、俺たちは欲しいんだよ。学問をしこたま積んだ学者様なんてのは領土を獲ったあとにいくらでも集めりゃいいんだ。いま、俺たちにはお呼びじゃねえ」

一気呵成に言い切って張飛は酒臭い息を吐き、手にさげた酒壷をあおった。頬をおおう虎ひげにしたたる酒滴を手の甲でぬぐいとる仕草は、わざと粗暴にやっているとしか思えない。

孔明はにこりと微笑した。ぎょろりとした両眼が動く。

「てめえ、何がおかしい」
「いえ・・・おかしいというよりは、意外だとおもいまして」
「なにをう」
「私が聞くところによると、張飛将軍は口より早く手が出るとか。だから、私はてっきりそのようなお方だと思っておりましたのに、・・・存外、弁がお立ちになられる。酔って口より先に手が出てしまう方は多いでしょうが、酔って手より口が立つ方は珍しい。それも音に聞こえた猛将であられる張飛殿が、酒席でこれほど論理的な弁を為されるとは。これは意外であると、おもったのです」

気に障ったのならば、ご容赦を。
かるい会釈をしてみせる仕草にも表情にも嫌味はない。

張飛は気勢をそがれた形になった。酔っ払った張飛の啖呵に、こうも飄々と受け答えするとは。
周囲もすこし意外げにざわめいた。
張飛の挑発にむきになって論戦を挑むならば、軍略家としては下であろう。
一分の隙もない弁舌で武人を論破することは可能であろうが、それでは意味がない。
武を否定して文治主義を礼賛したりすれば、おのれの腕一つで乱世を戦い、劉玄徳を主君と守って生き残ってきた武将や将校の憎しみや買うことは必定だ。

それにしろく整った顔をした軍師は、どこか体温が感じられず、するどく研ぎ澄ました言葉の刃で、酔った武人を完膚なきまでに切り刻むということを、いかにもやりそうな雰囲気を備えている。

若い軍師は、笑みを消して真顔になった。

「最初のご質問にお答えいたしましょう。私は人を斬ったことは、あります」
「えっ―――ほぉ?」

「といっても、偶然ですけどね。剣は、からっきしです」
「ふ、―――ふん。そうだろうな」
引きかけていた張飛が、勢い込んで身を乗り出す。

「やっぱりそうじゃねえか。そんなやつが俺たちに言うことをきかせようってのか。徐庶は軍師だったが、剣も使えたぜ。小器用なところが乱戦向きじゃなかったが、少なくとも戦を知らねえ奴じゃなかった」

「ええ、たしかに」

「俺が言いてえのは、おまえはその覚悟があるのかってことだ。劉備軍ってのはなあ、自分らより少ない敵を相手にすることは滅多にねえ。数百人で数万にあたるなんてこたぁ、日常茶飯事なんだ。おまえ、数万の敵兵が林みてえに広がってるのを見ても、逃げださずにいられるのか。いいか、口で言うほど簡単じゃないんだ。味方がばたばた斃れて、敵の馬が雲霞のように迫ってくるんだぜ。敵の槍を喉もとに突きつけられても、おまえは劉備の兄者を裏切らねえのか?土壇場で逃げない、裏切らない。その確信が欲しいんだよ、俺たちは」

「なぜ、人を斬ったことがあるかないかということにこだわるのだろうかと、すこし不思議だったのですが、いま、分かったような気がします。張飛将軍、つまり貴公が言っているのは、たとえば一対一で果たし合いをして見事相手を斬り伏せる、などということを問題にしているのではないのですね?」

「そういうことだ。村では腕っぷしが強いのを自慢してた奴が、戦場でものの役に立たてねえってことはよくあるんだ。逆に、おとなしくてひよわそうに見える奴が、戦場では人が変わったみてえに暴れることもあるさ。戦ってのはある意味、魔だからな。おまえは、そんな場所に向かえるのか。いいか、敵に刃を突きつけられたら、潔く死ぬ、なんてクソみたいなこと言いやがんじゃねえぞ」

「私に覚悟があるかないかを口でいかに説明したところで無意味でありましょう。口ではなんとでもいえる、と貴公は仰るのではないでしょうか。まして、酒の席で覚悟など。―――私は口ではなにも言わないことにいたしましょう。かわりに」

孔明はついと立ち上がった。

新任の軍師は長身である。鶴のような細身には抜き身の刃にも似た怜悧がある。それに反して仕草はやわらかい。

いまや酒宴は静まり返っていた。さいしょはさりげなく聞き耳を立てていた将校たちも、みな張飛と孔明のやりとりをおおっぴらに見守っている。そこに孔明は立ち上がったのだ。
武人たちの目を奪うのに充分な挙措であり、間合いだった。

立ち上がった孔明は、ぽかんと見守る張飛と将校らの目前でゆっくり裾をさばき、宴席の中央にしつらえられた大卓に歩み寄る。
酒席のはじめにはあふれんばかりに酒や料理の皿が並べてあった卓は、そのほとんどが片付いていたが、孔明は手を上げて小者を呼び、卓上のものを下げさせた。

きれいに片付いた卓に、ふところから出した布帛を広げる。

周囲からどよめきがもれた。荊州を克明に描いた地図である。
孔明はゆるやかに振り向いた。そこには劉備が座っている。新しい主君がまるで一幕の芝居でも観るように面白そうな表情をしていることに、孔明は内心で苦笑する。
まったく、食えないお方だ。
内心の呟きをおくびにも出さない丁重さで、孔明は主君に礼を取った。

「軍議をしても宜しいでしょうか、ここで」

「良いよ」

にこりと無邪気に笑った劉備が、即答する。
胸中の苦笑を敬愛の微笑に変えて、しかし表情はまったく変えずに孔明はもう一度主君に礼を取ると、地図に向き直る。

「南下する曹軍の第一軍を破る策が、ございます。聞きたいならば、お聞かせ致しましょう」

酒杯を手に持った者、焼いた肉を手づかみにしている者、あるいは酌をする女の肩を抱いている者が、ぽかんとして見上げる。
軍師は笑みを浮かべた。
なんとも表現しがたい、夏空にかかる虹のように鮮やかな笑みを。

「ちょ、――へ、は?」「曹操の軍を、破る策・・・」「まさか」
諸将がざわざわとこぼす。

「曹操軍といっても、曹操は、おりませんけどね。南下しかけましたが、袁家を攻撃するため軍を北上させたとの情報が入っております」

「え、ほぉ・・」「知っていたか?」「いやーー」
ざわめきがまた大きくなる。

「曹公の留守をついて、こちらから仕掛けるのです。戦場は、そうですね―――博望坡」

言いかけて、まだぽかんとざわついている将校らを見渡して、孔明は片方の眉を上げた。

「ああ、・・ご興味がない?――では、止めておきましょうか」
残念、とつぶやいて、地図を片付けるようとする。
「お、おいっ、待ちやがれ」
誰よりも意気込んでくわっと目を開いて細肩を掴んだのは、張飛だった。
「おや、お聞きになりたいと?」
「曹軍を、破るって・・・おめえ」
「でははじめましょうか、諸公」
「ちょ、・・・ちょっと待てよ。軍議?いまからここでか?若造、酒の席で軍議をおっぱじめようってのか、たいがいにしやがれ。酔っ払いあいてに」
「私は酔っておりませんが。・・・張飛殿は、酔っておられますか」
「お、俺はあれしきの酒じゃ酔わん」
「それは重畳。では諸公のなかで、酔っておられる方は?」

黒い双眸が広間をゆっくりと見渡す。誰も、反応しなかった。ぽかんとして見上げるだけだ。
笑みが、深くなった。

「酔っておられる方は、いらっしゃらないご様子。では、軍議をはじめます」

宴席の端・・・隅っこに近い末席で、くすりと笑みが漏れたのに孔明は気付いた。押さえたつもりが押さえきれずに漏れてしまったというような笑いかただった。
孔明は目の端で笑みの発信源をとらえ、さりげない様子でそちらに目配せをおくる。
場違いな笑いをたしなめるような、せっかくつくったこの「場」を壊さないでくれと哀願するような、それでいて「場」をよくぞ見抜いたと誉めているような視線だった。
趙雲は、可笑しくてならなった。
腹をかかえて笑い出したかったがそうはせず、目を伏せて神妙な表情をつくって立ち上がり、「軍議」の卓へと歩いていった。


ああ。
やはり彼は、龍だ。
しかも、眠り竜でも臥した竜でもなく、もうはっきりと目覚めている。
天に昇るまで、あといくばくか。

張飛も、そして自分も、彼を侮ってはいけない。
彼は軍師だ。
たとえ寝顔がとろけるように甘くても。彼は軍師なのだ。

 






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(2019/10/13)

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