夏空~虹の向こう側  趙孔(私設)

 


幕間 -紫薇花-






まったく本当に深窓の姫であればよいのにと思う。
だとしたら言えるだろう。
夜更かしはたいがいになされよ。たとえ城内であろうとも深夜に歩くのはよせ。お一人で城外に出るな。あなたの乗馬の技は見ていられない。どこででも昼寝をなされるな。
それから。
深夜に、男の居室を訪なうものではない。

「趙将軍。この地形に、この陣立ては可能でしょうか」
ほとほとと戸を叩くものがあったので何事かと扉を開けた趙雲は、間近に迫った白い容貌にぎょっとした。
「この傾斜地に、騎馬の軍は展開できますか」
もう夜警以外は寝静まっている。他人の部屋を訪れる時間ではない。
まして、その身に対して欲を持つ男の部屋を。

身に着けているのは寝着と思われる薄い単衣で、合わせもきちんとしていない。
一度寝台に横になったけど、気になったので飛び起きてやってきた、そんな様子だ。
職務に対する熱心さを讃えるべきかもしれない。確かに曹軍との戦いは間近に迫っている。
だけどああ、目に毒だ。
この暑い季節に、風邪を引くから着物をきちんと着てくださいと怒るわけにもいかない。

ともあれ、軍師の質問自体はごく真面目なものなので応えようと、身をかがめて彼のもつ図面を覗き込んだ趙雲の姿を目に入れて、今度は軍師の方がぎょっと身を引いた。
頬を朱に染める。それこそまるで純な乙女であるかのように。気まずそうに、ぎこちなく目を逸らした。
「・・・あ、・・・女人と、ご一緒でしたか。その・・・失礼を・・」
「は?」
暑かったので下袴しか着けていない、上半身を晒した姿。解いたままの髪も、汗を含んでざんばらに寝乱れている。
「明日にいたします」
有無を言わさず、扉が閉められる。唖然とした趙雲の目に映るのは、粗末で素っ気ない木目だけ。
「、・・・軍師!」
閉じた扉を開いて、あとを追う。
軍師の部屋は、すぐ近くである。劉備や夫人の警護に就くことが多い趙雲の居室は、他の将校よりも奥の中枢近くにあるからだ。
意外と瞬足な白い影があやまたず彼の居室に入ったのを見て、足を止めて息をつき、部屋に引き返す。

なにをしているんだ。
寝着姿の軍師を半裸の主騎が追いかけるなんて図を夜警の兵にでも見られたら、どんな噂になることやら。
いや、あの人が悪い。
張飛が夜中に全裸で踊って城中を駆け回ったって、笑い話にしかならない。
気さくで大雑把で同衾好きの陣営である。男同士が夜中に行き来したって、噂になんてなりようが無いというのに。
彼に限っては、そうは思えない。

そういえば軍師は何をあんなに慌てて出て行ったのだろうかと考えて、
――女人と、ご一緒でしたか。その・・・失礼を・・
趙雲は立ち上がって再び飛び出しかけ、・・・立ち止まる。
この殺風景な居室のどこに女性がいるというのか。ちゃんと見ろと、肩を掴んで揺さぶって、怒鳴りつけたい。
俺を、ちゃんと見てください。
貴方しか見ていない。貴方が欲しい。貴方しか欲しくない。
そう言えたら。
ああ。―――もう、どうしたらいいんだ。
上着を掴んで、部屋を出た。



部屋中に小山のように積まれた書物の合間、そこだけは無事な空間である寝台に孔明は所在なく座り、惑う心をなだめていた。

普段は軍装をしていても身綺麗にしていて、精悍でありながら爽やかな凛々しさのある男前なのだが。
寝乱れた風情は、荒々しささえ漂っていて。
この人は、女人を抱くときはこういう風なのか。驚いて、居ても立ってもいられない心地になった。
これは、何なのだろう。

嫉妬、という言葉を思いついて愕然とする。
私は、軍師だ。彼は将だ。
想いを抱くことさえ許されないのに、独占したいと願っているのか、自分は。
叶うはずも、ないものを。なんと愚かな・・・・

孔明は、ばたんと開いた扉に驚いて顔を上げた。
「誤解です!」
ただ、それだけ。
顔を確かめる間もなく、扉はまたばたんと閉まった。
風圧がすごくて、孔明の前髪がはたはたと揺れる。

誤解?
どういうことか。
――彼は、女人と一緒ではなかったと、言いたいのか。
そんなことを、わざわざ言いに?どうして――・・・

寝台の脇の卓の上で、小さな壺に挿された紫薇花が、唐突な扉の開閉にびっくりしたとでもいうように、蝶のように群れ咲く赤紫色の可愛らしい花を、ひとつ散らした。



足音も荒く自室へと戻りながら、趙雲は新たな怒りと苛立ちに駆られていた。
扉が、簡単に開いた。そのことが腹立たしい。
なぜ、鍵をきちんとしない。なにかあったらどうするのだ。
なにかあったら・・・
最もなにかをしそうなのが、他ならぬ護衛である自分だということに苛立った趙雲は、横ざまに壁を殴りつけた。

 






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(2019/10/13)

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